第4話 亡霊の登城
朝の光は、城の石壁に触れると、すぐに冷えてしまう。
アメリアはその冷たさを、手袋越しの指先で知った。扉の把手に手をかけたまま、呼吸を浅く整える。部屋の奥には、厚い幕の陰がある。その向こうに横たわるものを、見ないようにした。
見れば、足が止まる。
止まれば、終わる。
鏡の中には、アンネローゼがいた。
淡い色のドレス。喉元に結ばれた細いリボン。乱れひとつない髪。目元には眠気の名残を思わせる薄い翳りだけを残し、頬には、よく知った静かな微笑みが浮かんでいる。
アメリアは鏡の中の女に向かって、ゆっくりと顎を引いた。
それは確認だった。自分はもうここにいない、と、何度目かの確認。
背後で気配が動く。
セドリックだった。
黒い礼装に身を包み、いつもよりいっそう隙のない姿をしているのに、その顔色だけが悪かった。頬の線は硬く、唇の色は薄い。だが目だけは、妙に冴えている。眠っていない目だった。
「……行くのか」
低く落ちた声は、床の上に水のようにひろがった。
アメリアは振り返らない。
「呼ばれているもの」
「まだ遅くない」
その言葉の意味を、アメリアは聞き返さなかった。遅いも遅くないも、もう通り過ぎている。戻れる朝は、幕の陰に置いてきた。
「腕を」
鏡を見たまま言う。
少しの間を置いて、セドリックが近づく気配がした。彼の指が肘のあたりに触れる。礼にかなった、婚約者として自然な距離。だが、その一瞬の接触にこもる硬さは、まるで罪人を連行する兵士のものだった。
扉が開く。
廊下の冷気が流れ込む。
アメリアは一歩を踏み出した。
歩幅を思い出す。速すぎず、遅すぎず。足音を立てすぎず、だが消しもしない。アンネローゼは、自分の歩く音を隠さない人だった。己の存在を慎ましく保ちながら、それでも消えはしなかった。
長い廊下を進むあいだ、誰かとすれ違うたびに視線が落ちた。侍女、従僕、下級貴族。皆が一度ぎょっとしたように目を見開き、すぐに頭を垂れる。その驚きの色を、アメリアは横目で拾う。
生きている。
そう見えている。
その事実だけが、胸の内側をざらつかせた。
階段を下りる。吹き抜けの下から、人の声が幾重にも重なってくる。王宮特有の、磨かれた靴音、衣擦れ、押し殺した笑い声。どれも日常の音なのに、今日は遠くの国の話のようだった。
「震えている」
唐突に、セドリックが言った。
アメリアは正面を見たまま、小さく息を吐く。
「貴方が?」
「お前がだ」
言われて、ようやく自分の指先に意識が向いた。手袋の内側で、たしかに爪が掌を浅く噛んでいる。
「そう」
「平気な顔をして」
「平気ではないもの」
セドリックはそれきり黙った。
広間の前で足が止まる。巨大な扉の両側に立つ衛兵の槍先が、陽の光を鈍く返していた。扉が開くと同時に、暖められた空気と香が流れ出す。磨き上げられた床。高い天井。壁を飾る織物。中央には、朝の謁見のために集められた人々の列。
「見て、あの厚顔無恥な顔を。クリスチーネ様に大怪我をさせておきながら」
「よくもまあ、聖女様と同じ空気を吸えるものだわ」
コウモリ達が囀る。
その先に、ルドルフ王子がいた。
金の刺繍を施した上着をまとい、退屈そうに片足へ重心を預けている。整った顔。人好きのする笑み。けれど、瞳の底には、ぬるい水のような怠慢が沈んでいた。
その隣に、クリスチーネが立っている。
白い衣。胸元の聖印。祈りのために組まれた指は細く、爪先までよく整っていた。彼女の微笑みは柔らかい。誰にでも慈悲を注ぐ女の顔だ。だがその目だけが、広間の入口に立つアメリアを見た瞬間、ほんのわずかに止まった。
空気が裂けるような一瞬だった。
生きているはずのない者を見た顔。
アメリアはそこで、ゆっくりと微笑んだ。
深く礼を取る。セドリックもそれに従う。背筋を折る角度まで、昨日まで見ていたとおりに。
「アンネローゼ」
王子が声を上げる。
「気分が優れないと聞いていたが、こうして来てくれて安心したよ」
「ご心配をおかけしました」
喉は乾いているのに、声だけが滑らかに出た。
「少し、朝の空気が重かっただけですわ」
王子は笑う。
「君は繊細すぎる。もっと気楽にしていい」
その言い方に、喉の奥が焼ける気がした。だがアメリアはまぶた一つ動かさなかった。
クリスチーネが一歩進み出る。
香の匂いがした。甘すぎる花の匂い。部屋で嗅いだ紅茶の香りとは違う、頭の奥に残る甘さだった。
「アンネローゼ様、お加減はよろしいのですか?」
柔らかい声だった。心から案じるような、少し眉を寄せた顔つき。だがその問いは、白い布に包んだ針のように細かった。
アメリアは彼女を見る。
聖女は美しかった。整えられた髪、曇りのない肌、憐れみを装う口元。そのどれもが完璧で、だからこそ息苦しかった。
「ええ」
アメリアは笑った。
「おかげさまで」
クリスチーネの瞳が、ほんの少しだけ細まる。
「昨夜は、とてもお辛そうでしたから」
「そうでした?」
「ええ。まるで、ひどいものでも口にされたかのように」
周囲には聞こえぬほどではないが、近くの者にだけ届く声音だった。探り。試し。あるいは確認。
アメリアは一拍だけ間を置く。
その沈黙のあいだに、自分の鼓動が耳の内側で鳴った。けれど表情は、少しも揺らさない。
「聖女様は」
と、静かに言った。
「ずいぶんと、人の喉の具合にお詳しいのですね」
クリスチーネの指先が、わずかに動く。
誰にもわからないほど小さな反応だった。だがアメリアは見逃さなかった。
「私はただ‥‥」
「でしたら」
アメリアは言葉を重ねた。微笑みはそのまま、声だけをやわらかく落とす。
「ご自分の祈りにお使いになったほうがよろしくてよ。城には、喉を痛めている方が他にもいらっしゃるかもしれませんもの」
広間の空気が、目に見えぬ薄膜を張る。
王子は気づいていない。あるいは気づいても面白がっているだけだ。もともとサディストと噂されるほどの人間なのだから。だがクリスチーネの頬から、ほんの一瞬、色が引いた。
「……それは、どういう意味でしょう」
「深い意味はありませんわ」
アメリアは首を傾ける。
アンネローゼが、相手を責めずに逃がさないときに見せた角度で。
「聖女様ほどのお方なら、私の言葉に余計な意味をお乗せにはならないでしょう?」
クリスチーネは笑った。
笑ったが、その笑みは目まで届かない。
「ええ、もちろん」
「よかった」
それだけで、十分だった。
刃は喉元に触れた。血は出ていない。だが、触れたことは伝わっている。アメリアにはそれがわかった。
横で、セドリックの気配が固くなる。
視線を向けずともわかる。彼は今、自分の隣に立つ女を恐れている。死体のそばで見たときとは別の種類の恐れだった。あのときは狂気だった。今は精度だ。人の癖、声、沈黙の置き方まで完璧に写し取り、相手の急所だけを選んで刺しにいく、その精度。
それなのに彼は、目を逸らしていない。
恐れているくせに、逸らせない。
その視線が、アメリアの頬のあたりに熱を残す。
「君たちは相変わらずだな」
王子が笑った。
「清廉な女同士の会話は、私には少し難しい」
クリスチーネも、遅れて笑みを整える。
「殿下はお戯れを」
「だが本当に安心した、アンネローゼ」
そう言って、ルドルフが一歩近づく。
彼の靴音が床にひとつ落ちる。
次の瞬間、王子の手が、アメリアの手を取ろうと伸びてきた。
白い指先。
磨かれた爪。
何のためらいもない手つき。
その手を見た瞬間、視界が揺れた。
白磁のカップ。細い指。唇に触れる縁。かすかな嚥下の音。次いで、咳き込み、喉を押さえ、紅茶が揺れ、椅子が軋み、白い喉に赤が走る――
アメリアの爪が、手袋の内側で深く食い込んだ。
殺したい、と思った。
思ったというより、体の中のどこかが、瞬時にその形になった。喉元へ手を伸ばし、そのまま爪を立てたい。笑っている口を引き裂きたい。お嬢様の前で息を止めてやりたい。
だが、アンネローゼはそういう顔をしない。
アメリアは、喉の奥で熱を噛み殺した。
そして、最高の微笑みを作った。
王子の手が自分の手袋に触れる、その寸前で、まるで何事もないように目を細める。
「さあ」
声は、驚くほど穏やかだった。
「お話を続けましょう」




