第3話 共犯の朝
足音が近づいていた。
石の廊下を伝ってくる音は、規則正しく、容赦がない。靴底が床を叩くたび、部屋の空気がわずかに震える。その震えは床板を渡り、長椅子の脚を揺らし、卓上の紅茶の表面に細い輪を生んだ。
アメリアは動かなかった。
貼りつけた笑みのまま、耳だけで距離を測る。
あと数歩。
セドリックが、低く言った。
「来る」
返事はしない。
すでに体は動いていた。
二人は言葉を交わさず、同時に長椅子へ向かう。アンネローゼの体は軽かった。あまりにも軽く、持ち上げた瞬間に、何かが決定的に失われていることを、腕が理解した。
ドレスの布が擦れる。
首元の青いリボンが、かすかに揺れる。
セドリックの指が震えているのが見えた。だが彼はそれを止めようとはしなかった。止められないと知っている顔だった。
「こっちへ」
アメリアが囁く。
寝台の奥。厚いカーテンの陰。朝の光が届かない場所。
二人はそこへ体を滑り込ませるように運び込む。ドレスの裾が床に触れないよう、アメリアは無意識に手で支えた。いつもの癖だった。生きていたころと同じように扱わなければ、すぐに綻びが出る気がした。
横たえる。
首の角度を整える。
指先の位置を直す。
呼吸はないのに、整えなければならないものがいくつもあった。
足音が扉の前で止まる。
アメリアは振り返る。
その一瞬で、体の向きを変え、卓の椅子を引き、紅茶のカップを手に取る。セドリックは無言で彼女の背後に回り、肩に手を置いた。
その距離は、親しい婚約者のものだった。
「……笑え」
低く言う。
命令ではない。祈りに近い声だった。
アメリアは微笑んだ。
「開けて」
ノックの音がする前に、そう言った。
自分でも、どうしてそう言ったのかはわからない。ただ、この部屋の主は自分だという空気を、先に置かなければならないと感じた。
扉が開く。
入ってきたのは若いメイドだった。見慣れない顔。手には小さな盆を持っている。視線はまっすぐこちらへ向けられていたが、その奥に、何かを探る色がある。
「お嬢様、失礼いたします。王子殿下より、朝のご様子を――」
言葉が途中で止まる。
アメリアはカップを持ち上げたまま、やわらかく首を傾けた。
「心配性なのね」
声は静かだった。
「まだ朝よ」
メイドの視線が、卓、椅子、セドリックの手、そしてアメリアの顔へと順に動く。疑いは消えていない。だが決定打もない。そんな表情だった。
セドリックの指が肩に沈む。
吐き気をこらえているのだと、アメリアはわかった。演技ではない。彼にとってこれは、愛していた女の死体のすぐ隣で、別の女の体温を感じながら微笑むという、耐え難い行為なのだ。
それでも彼は手を離さない。
「殿下には、あとでお礼を申し上げて」
アメリアは言う。
「今日は少し、静かにしていたいの」
メイドは一瞬だけ、眉を動かした。
それは同情にも見えたし、計算にも見えた。
「かしこまりました」
盆を卓に置く。
その手つきがやけにゆっくりしている。視線は、部屋の奥へ届こうとしている。カーテンの陰にまで、触れようとしている。
アメリアは紅茶を口に運んだ。
苦味が舌に広がる。
「それとも」
カップを下ろし、まっすぐメイドを見る。
「何か、他に確認したいことが?」
その瞬間、空気が変わる。
問いではない。
選択だった。
踏み込むか、引くか。
メイドは一歩下がった。
「いえ……失礼いたしました」
頭を下げ、踵を返す。
扉が閉まる。
足音が遠ざかるまで、アメリアは動かなかった。
やがてセドリックの手が、ゆっくり肩から離れる。
「……狂っている」
吐き捨てるように言う。
「お前は」
アメリアは答えない。
ただ、卓に置かれた盆の上の果物を一つ取る。皮の感触を確かめるように、指先で転がす。
「出て」
短く言う。
「ここにいれば、貴方まで疑われる」
セドリックは動かない。
「何をする気だ」
「考えるだけよ」
ようやく彼を見た。
「死体を動かすには、力がいる」
その言葉に、セドリックの目が細まる。
「……誰に頼る」
「城の中に味方はいない」
アメリアは果物の皮を爪でわずかに剥く。白い実がのぞく。
「外よ」
兄の顔が浮かぶ。お嬢様の御用商人として屋敷に出入りしていた、兄のコンラッド。私と同じ、それ以上にお嬢様へ忠誠を誓う人間。
商人の顔。計算と沈黙でできた男。情では動かないが、利益と義理には正確だった。
「死体を運べる男が必要なの」
セドリックは何も言わなかった。
ただ、その視線だけが、アメリアの中身を測るように動く。
「……犯人は」
やがて、低く問う。
「誰だと思う」
アメリアは答えなかった。
果物を一口齧る。
甘さが広がる。
それが妙に現実的で、腹立たしかった。
「毒を盛れる者」
呟くように言う。
「この部屋に入れる者」
セドリックの喉が鳴る。
「そして」
アメリアは鏡を見た。
そこには、アンネローゼの笑顔を貼りつけた女がいる。
「彼女が邪魔だった者」
王子の顔が浮かぶ。
その隣で微笑む、聖女の白い手。
「仮説よ」
静かに言う。
「でも、間違っていない気がする」
セドリックはしばらく動かなかった。
やがて踵を返し、扉へ向かう。
「‥‥戻る」
それだけ言って出ていった。
扉が閉まる。
部屋に、再び静けさが落ちる。
アメリアはゆっくり立ち上がった。
鏡の前へ歩く。
貼りつけた笑顔は、まだ剥がれていない。
「お嬢様」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「貴方の席は、私が守ります」
唇がわずかに震える。
それでも、言葉は止まらない。
「‥‥そのために」
鏡の中の自分をまっすぐ見た。
「貴方を消しましょう」
ご覧いただきありがとうございます。本作は全20話の中編とし執筆しています、毎日7時30分/18時10分(土日は12時/18時)に更新し、最後まで一気に駆け抜けます。
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明日土曜日の12時に、第4話「亡霊の登城」を更新いたします。




