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第2話 反吐が出る偽物

 悪役令嬢だと汚名を着せられ、『聖女を妬み、王子の愛にすがろうとした悪女』

そんなありもしない罪で婚約を破棄されたお嬢様は、それでも笑っていた。


ある者が言った「聖女クリスチーネを階段から突き落とした」

また、ある者が言った「王子の誕生日に贈るはずの家宝の首飾りを盗すまれた」


心のなかに、とめどなくどす黒い憎しみが湧き上がる。

身を焦がす。


憎い。

許せない。

許さない。


扉が開いた。


蝶番のきしみは小さかったのに、その音だけが、部屋の空気に細い裂け目を入れたように響いた。


アメリアは振り返らなかった。


鏡の前に立ったまま、唇の端に貼りつけた笑みを崩さず、背後の気配を待った。背筋の真ん中に、視線が落ちるのがわかる。冷たい刃の先で、皮膚をなぞられるような感覚だった。


「――アンネローゼ様」


低い声だった。


掠れてはいない。だが、普段よりわずかに硬い。朝の冷えを含んだ金属のような声。


アメリアはそこでようやく、ゆっくりと振り返った。


「セドリック」


名を呼ぶと、胸の奥が小さく軋んだ。自分の声なのに、自分の喉を通っていないようだった。


男は、扉の内側で立ち止まっていた。


黒い上衣の肩に、朝の光が薄く落ちている。片手はまだ扉にかかったまま、もう片方は腰のあたりで固く握られていた。彼の視線は、まずアメリアの顔に触れ、それから首筋、肩、指先へと移り、また顔に戻ってくる。


そのわずかな往復だけで、空気が変わった。


目の前の男は、笑って迎えられたことを喜ばなかった。


安堵もしない。


ただ、何か見えない針の先で、目の前の女の輪郭を一つずつ確かめている。


「……どうかなさいましたか」


アメリアは言った。鏡の前で何十度も練習した、やわらかい調子で。


セドリックの喉が、かすかに上下した。


一歩、近づく。


靴音が床板に落ちる。乾いた、ためらいのない音だった。


「もう一度、言え」


「何をでしょう」


「いまの声で、もう一度」


アメリアは息を吸った。紅茶の残り香の奥で、血の匂いがまだ沈んでいる。舌の裏に、ひどく苦いものが張りついていた。


「‥‥セドリック」


次の瞬間、男の顔から色が消えた。


それは驚きではなかった。理解だった。理解した者の、逃げ場のない蒼白だった。


「誰だ」


声が低く沈む。


アメリアは微笑んだまま、答えない。


セドリックは二歩で距離を詰めた。掴まれた腕が、遅れて痛んだ。指の力が骨まで届く。体が大きく揺れ、背中が鏡台の縁にぶつかった。瓶がひとつ、甲高い音を立てて倒れる。


鏡が目の前で揺れた。


その中に、男の顔と、自分の作った笑顔が、ひどく近く並んで映っていた。


「お前は何者だ」


指がさらに食い込む。


「彼女はどこだ」


吐き捨てるような声だった。怒鳴ってはいない。それがかえって恐ろしかった。怒声は熱を持つ。だが今の声には熱がない。ただ、冷えた鉄の重みだけがあった。


アメリアは鏡の中の自分を見た。


頬は白く、唇だけが不自然にやわらかい。腕を掴まれているのに、笑っている。壊れた人形のようだった。


「離して」


「答えろ」


「痛いわ」


その言い方に、セドリックの目がさらに暗くなった。


「その口で、彼女の真似をするな」


鏡の中で、アメリアの睫毛が揺れた。


腕の痛みよりも、その言葉のほうが深く沈んだ。だが顔は崩さなかった。崩せば、もう二度と貼り直せない気がした。


「どこにいる」


セドリックの呼吸が乱れはじめていた。掴んだままの手だけが異様に強く、肩口には抑えきれない震えが伝わってくる。


アメリアはゆっくり視線を動かした。


言葉ではなく、その視線だけで、部屋の奥へ導く。


長椅子。


そこに横たわる、薄青いリボンの影。


最初、セドリックは動かなかった。


動けなかったのかもしれない。


アメリアの腕を掴んだまま、目だけがそちらへ向く。見たくないものを、見てしまった者の目だった。瞳孔が開き、呼吸が止まり、首の筋が固く浮き出る。


「……やめろ」


誰に向けた言葉なのか、わからないほど小さかった。


アメリアは何も言わない。


セドリックの指が、ゆるむ。


一歩。


また一歩。


彼はようやくアメリアから手を離し、長椅子へ近づいた。足取りは奇妙に静かだった。夢の中で歩く人間のように、床に体重が乗っていない。


アンネローゼの前で、膝が折れる。


黒い上衣の裾が床に広がる。


伸ばしかけた手が、途中で止まった。触れれば終わるとでもいうように、指先だけが宙で震える。やがてその指が、頬に落ちた髪をそっと払う。壊れ物に触れるよりも軽い手つきだった。


「……アンネローゼ様」


返事はない。


その沈黙が、ようやく彼の体に届いたのだろう。


セドリックは俯いた。肩がかすかに落ちる。背の高い体が、ほんのわずか縮んで見えた。呼吸を吸う音だけが聞こえる。吐く音がこない。胸の奥で、何か鋭いものが引っかかっているような息だった。


卓上の紅茶は、まだ揺れていた。


揺れはすでに小さく、光を受けるたび、表面に鈍い輪がひらく。その隣で、スプーンだけが白く冷えている。


「‥‥毒か」


アメリアは答えなかった。


セドリックの指が、アンネローゼの手の甲に触れる。


そして、その温度を知った瞬間、彼の顔から最後の色が消えた。


遅かったのだと、理解したのだ。


もう祈っても、呼んでも、何を差し出しても戻らない。そういう冷たさが、指先から心臓まで一気に駆け上がったのだろう。


彼はゆっくり振り返った。


その目にあったのは涙ではない。


涙の手前で凍った、むき出しの憎悪だった。


「……不浄なメイドが」


一語ごとに、口の中で血を噛んでいるような声だった。


「彼女のふりをするな」


アメリアは黙って立っていた。


腕に残る指の痕が、じくじくと熱い。鏡の中で、貼りつけた笑顔だけがまだ剥がれずに残っている。


「反吐が出る」


部屋が静まり返る。


その言葉は平手打ちよりも正確に、アメリアの顔の上へ落ちた。


けれど彼女は笑みを消さなかった。


消せなかったのか、消さなかったのか、自分でもわからない。ただ、ここで崩れれば、この部屋には死体が二つになるだけだと、どこかが冷たく知っていた。


「愛してほしいなどと」


アメリアは、静かに言った。


「言っていないわ」


セドリックの眉が動く。


「何だと」


「泣いても、お嬢様は戻らない」


その声は、自分のもののはずなのに、鏡の中から響いてくるようだった。やわらかく、低く、刃のように薄い。


「貴方がするべきことは、嘆くことではないでしょう」


「黙れ」


「黙りません」


アメリアは一歩だけ、長椅子へ近づいた。アンネローゼの青いリボンが視界の端に入る。見れば喉が焼けるのに、目をそらせなかった。


「彼女を殺した者たちがいる」


セドリックの顔が強張る。


「その者たちは、いまも息をしている。朝食を取り、笑い、何もなかったように今日を始めている」


「やめろ」


「それを許して、ここで泣いて終わるのなら」


アメリアはそこでわずかに首を傾けた。鏡の前で覚えた、あの角度で。


「貴方が愛していたものは、その程度だったのね」


空気が凍った。


セドリックが立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、短く耳障りな音を立てた。彼はアメリアを睨んだまま、すぐには言葉を返さない。頬の筋肉だけが硬く盛り上がり、喉仏が一度、大きく上下する。


「‥‥お前に」


ようやく出た声は、掠れていた。


「お前に、彼女を語る資格はない」


「ええ。ないでしょうね」


「なら、その顔をやめろ」


「やめてどうなるの」


アメリアは問うた。


「死んだお嬢様が、生き返る?」


セドリックは黙る。


その沈黙の中で、時計の針がひとつ進んだ。


かち、と乾いた音がする。


あまりにも小さな音なのに、それが合図のように、二人の間に現実が降りてきた。死体はここにある。毒の匂いは残っている。扉の向こうには、いつ誰が来てもおかしくない朝が広がっている。


アメリアは息を吐いた。


「‥‥私ひとりでは無理よ」


セドリックの目が細まる。


「何がだ」


「お嬢様を、守ること」


その言葉の意味が届くまで、わずかな間があった。


彼は長椅子へ視線を落とし、次にアメリアの顔を見た。作りものの微笑み。その奥にあるものを、憎みながら測っている目だった。


「貴方は私を嫌えばいい」


アメリアは言う。


「軽蔑すればいい。ずっと、反吐を吐きつづければいい」


腕の痕が脈打っている。けれど声は揺れなかった。


「でも、お嬢様をこのままにしたくないなら」


セドリックの指が、ゆっくりと握られる。


「泣くのは後にして」


唇の端が、わずかに裂けそうになる。それでもアメリアは笑った。


「今は、共犯者になって」


長い沈黙の末、セドリックは目を閉じた。


その一瞬だけ、ひどく疲れた顔になった。次に目を開けたとき、そこに残っていたのは悲しみではなかった。悲しみを押し潰した後に残る、暗い決意だけだった。


「‥‥触るな」


低く言う。


「彼女には、俺が触れる」


アメリアは何も答えず、わずかに身を引いた。


セドリックは長椅子の脇に立つ。アメリアも、鏡台の前から一歩を踏み出す。二人の影が、床の上でかすかに重なる。


そのとき、廊下の遠くで、誰かの足音がした。


朝はまだ、終わっていない。


セドリックが短く息を吸う。


アメリアは青ざめたまま、貼りつけた笑みを整えた。


そして二人は、何も言わず、次に動くために、それぞれの手を伸ばそうとしていた。


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