第1話 毒の朝と鏡の儀式
本作は、著者が考案したプロットや世界観、ロジック(設計図)をベースに、生成AIを執筆の補助・テキストの一部出力エンジンとして使用して制作しています。最終的な推敲・クオリティ管理はすべて著者自身の手で行っております。
「誰が、お嬢様を殺したのか?」
声に出した瞬間、部屋の中の静けさが、すこしだけ形を変えた気がした。
返事はない。
あるはずがなかった。
アンネローゼは、長椅子にもたれるようにして、もう動かなかった。喉も、肩も、指先も、先ほどまでそこに宿っていたものを、きれいに失っている。白い頬に落ちた髪だけが、まだ生きているもののようにやわらかく、窓の隙間風にかすかに揺れていた。
アメリアは膝をついたまま、その手を取った。
冷たい、と思った。
だが、よく触れれば、ほんのわずかに温みが残っている。それがかえって残酷だった。冷えきってしまっていれば、心も追いつけたかもしれない。これはまだ、ほんの少し前まで息をして、瞬きをして、自分の名を呼んでくれていた手だ。
指先に、赤いものがつく。
唇の端からこぼれた血だった。
血は、思っていたより黒い。薔薇の花弁を煮つめたような色をして、白い肌の上に薄くひろがっている。甘い香りがした。卓上の紅茶の匂いだった。煮出しすぎた茶葉の渋みと、砂糖のやわらかい甘さ。その奥に、舌の裏にざらつくような、金気を含んだ苦さが混じっている。
アメリアはゆっくり顔を上げ、卓を見た。
白磁のカップには、まだ紅茶が半分ほど残っていた。表面がかすかに揺れている。誰も触れていないのに、揺れている。自分の呼吸か、震えた膝が床板に伝わったのか、それとも、部屋そのものが、見えないどこかでまだ揺れつづけているのかもしれなかった。
毒。
その二文字だけが、音もなく胸の底に沈んだ。
叫びは出なかった。
喉の奥に、針の束でも押し込まれたように、息だけが細くなる。泣くこともできない。瞼の裏に熱が集まっているのに、涙は形を取らず、ただ視界の輪郭だけを曇らせた。
「お嬢様」
呼んでみる。
声は思ったよりも低かった。自分のものではないように聞こえた。
アンネローゼは答えない。
いつもなら、そういう呼び方はやめて、と少しだけ困ったように笑っただろう。二人きりのときくらい、名前で呼んでちょうだいと。けれどアメリアは、どうしてもそれができなかった。名前で呼んでしまえば、近づきすぎてしまう気がした。遠慮ではない。恐れだった。あまりにもまっすぐな人に、自分の汚れた手で触れてしまうことが、ずっと怖かった。
その人が、いま、目の前で黙っている。
睫毛の長い目も閉じたまま、唇はわずかに開き、胸元のレースには血の痕が小さく散っている。今朝、結び直したばかりの薄青いリボンが、喉元で静かに光っていた。
今朝。
たしかに今朝、自分はこの人の髪を梳いた。銀の櫛が、絹糸をすべるように音を立てた。今日は空が明るいわね、とアンネローゼは鏡越しに言った。朝食には紅茶を、とも言った。その声の高さまで、アメリアの耳はまだ覚えている。
それなのに、もうここにはない。
アメリアはカップに手を伸ばしかけて、止めた。
指が震えていた。
震えは手首へ、肘へ、肩へとひろがっていく。自分の骨の中に小さな虫が入り込み、内側から噛んでいるようだった。握りしめようとすると、かえって震えは目立つ。爪が掌に食い込む。痛みはうすい。
部屋が静かすぎる。
壁掛け時計の針の音だけが、妙に大きい。かち、かち、と等間隔に鳴るたび、その一音ごとに何かが遠ざかっていく。窓の外では、どこかで鳥が鳴いていた。廊下の向こうでは、誰かが銀器を運ぶ気配がした。朝はまだ終わっていない。屋敷はいつも通り目を覚まし、人々はそれぞれの持ち場で今日を始めている。
この部屋だけが、置き去りだ。
アメリアは立ち上がろうとして、うまく力が入らず、片手を卓について体を支えた。爪の先に冷えた木の感触が触れる。ふと、卓の上の銀のティースプーンに、自分の顔が歪んで映っているのが見えた。
ひどい顔だった。
目元は赤く、唇の色は抜け、髪も乱れている。泣いてはいないのに、泣き崩れた女の顔だった。これでは駄目だ、と、なぜか最初に思った。
何が駄目なのか、自分でもわからない。
ただ、この顔のままではいられないと、体のどこかが知っていた。
アメリアはふらつく足で鏡台へ向かった。
鏡の前に立つ。
映った女は、蒼白な顔でこちらを見返した。肩で息をし、瞳ばかりが暗く濡れている。見慣れたはずの自分の顔なのに、今日は輪郭がぼやけて、借りものの面のようだった。
背後の寝台が、鏡の端に映っている。
その中に、アンネローゼの白い手も見える。
アメリアは目をそらした。だがすぐに、もう一度鏡を見た。
お嬢様は、どんなときでも背筋が伸びていた。
理不尽な言葉を向けられても、笑っていた。嘲られても、見下されても、まるで冷たい雨の下に立つ花のように、静かに顔を上げていた。あの人の笑顔は、相手に媚びるためのものではない。ただ、自分の足場を失わないための、薄く、やわらかな灯りだった。
アメリアは唇の端に力を入れた。
上がらない。
頬の筋肉が、忘れてしまったように固い。
もう一度、意識して口角を引き上げる。
鏡の中の女は、笑う代わりに苦しそうに歪んだ。ひどく醜かった。泣くのをこらえている子どものような、みじめな顔だった。
違う。
アメリアは首を振った。
違う。こんな顔ではない。
指先で自分の頬に触れる。冷たかった。少し力を入れると、皮膚の下で筋肉がこわばっているのがわかる。そこを持ち上げるように、指で形を作る。鏡の中の顔も、ぎこちなく形を変える。けれど目がついてこない。目だけが、恐怖に見開かれたままだ。
目を伏せる。
深く息を吸う。紅茶の甘い匂いが鼻を刺す。血の鉄臭さが喉に絡む。
息を吐いて、もう一度、顔を上げた。
少しだけ、顎を引く。
まぶたの力を抜く。
唇の端だけ、ほんのすこし。
何度も、何度も、繰り返す。
鏡の前の時間は、粘ついていた。数息か、数刻かもわからない。失敗するたび、頬がひきつり、目元がゆがみ、喉の奥が震える。途中で、視界が水に濡れたように揺らぎ、頬を伝うものがあった。けれどアメリアは拭わなかった。拭えば、そこにいるのが自分だと認めてしまう気がした。
アンネローゼは、泣いたあとでも、人前に出るときはきれいに笑った。
それを知っている。
唇が震えていても、指先が冷えていても、微笑みだけは崩さなかった。
アメリアは、もう一度だけ、口角を上げた。
今度は、少しだけましだった。
やわらかくはない。だが、先ほどのような泣き顔でもない。まだ足りない。足りないが、何度も繰り返すうちに、自分の顔の上に、薄い膜のようなものが一枚ずつ重なっていくのがわかった。震えを覆い、涙を覆い、むき出しの自分を覆う膜だ。
そうして、ようやく。
鏡の中の女が、静かに笑った。
アメリアは息を止めた。
知らない女がそこにいた。
自分の顔をしているのに、自分ではない。頬の角度も、目元のやわらかさも、口元の静けさも、見慣れている。毎日そばで見ていた笑顔だった。
ぞくりと背中が粟立つ。
アメリアは両手で鏡台の縁をつかんだ。指が白くなる。そうでもしなければ、その場に崩れそうだった。
「お嬢様」
声にすると、胸の奥で何かが擦れた。
振り返る。
寝台の上のアンネローゼは、相変わらず黙っている。青いリボンは整ったまま、睫毛の影は頬に薄く落ち、死はきわめて静かな顔をして、そこに座っていた。
アメリアは、ゆっくりと一歩だけ近づいた。
床板が、かすかに鳴る。
その音に、自分がまだ生きていることを知らされる。
伸ばした手が、宙で止まった。
触れれば、二度と戻れない気がした。何に戻れないのかも、もう曖昧だった。ただ、先ほどまでの自分ではいられなくなる。そのことだけが、はっきりしている。
アメリアは唇を結び、それから、さきほど鏡の中に作った笑みを、もう一度、自分の顔にのせた。
頬の筋肉が、今度はちゃんと動いた。
そのときだった。
廊下の向こうから、足音がした。
ゆっくりと、ためらいのない靴音だった。石の床を踏むたび、硬質な響きがこちらへ近づいてくる。ひとり分の足音。重くはない。だが、迷いがない。歩幅が一定で、止まる気配がない。
アメリアの背筋が、すっと伸びた。
扉の前で、その足音が止まる。
一瞬の静寂。
木の向こうに、人の気配が立つ。冷えた刃物のような沈黙だった。
アメリアは寝台と鏡のあいだに立ったまま、微笑みを消さなかった。
扉の金具が、かすかに鳴る。
セドリックだ、と、胸の底で何かが囁いた。
次の瞬間、扉が開こうとしていた。
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