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第17話 鉄の沈黙

 風が鳴っていた。


 祈りの言葉は、もう口の中で形を結ばない。

 舌が乾き、唇がひび割れ、声帯が擦れるだけの音になる。


 ――聞こえない。


 かつてはあった。

 目を閉じれば、奥の奥で水が満ちるような静けさ。

 それが神の声だと信じていた。


 いまは、空洞だ。


 空洞の底を、遠くの笑い声が転がっていく。


 誰かが何かを投げた音。

 石か、泥か、あるいはパン屑か。

 わからない。


 ただ、風だけが冷たい。


 石壁の隙間から入り込んで、法衣の裾を持ち上げる。

 重たい布はもう白くない。

 湿り、汚れ、ところどころ固くなっていた。


 足首に触れるたびに、異物のような感触が走る。


 「立ちなさい」


 声がした。


 振り返る前に腕を掴まれた。

 指の力が骨に食い込み、皮膚がきしむ。


 セドリックだった。


 かつては視線を合わせることすら避けた男。

 礼の角度を狂わせたことのない騎士。


 いまは、ただの手だ。

 冷たい鉄のような手。


 「離して……」


 言葉は自分の耳にすら届かなかった。


 引きずられる。

 靴底が石床を擦る音だけが残る。


 廊下の奥に、人影が並んでいた。


 黒い衣。

 赤い紐。

 白い指先。


 枢機卿が一歩前に出る。


 顔は穏やかだった。

 祈りを導くときと同じ表情。


 「クリスチーネ殿」


 名前の響きが、やけに軽い。


 「教会は、あなたを見捨てる」


 事務的な声だった。


罪の告白を求めるわけでもない。

悔悛の機会を与えるわけでもない。


ただ、紙がめくられる音。

蝋印が押される音。


「不浄の疑いは、もはや疑いではない」


 誰かが首飾りに手を伸ばした。


 鎖が引かれ、喉元の皮膚が締まる。

 一瞬だけ息が止まる。


 次の瞬間、軽くなる。


 象徴は床に落ちた。

 鈍い音。

 誰も拾わない。


 法衣も剥がされる。

 肩に冷気が刺さる。


 布が遠ざかるたびに、

 自分が薄くなっていく気がした。


 「神は……」


 口が動く。


 返事はない。


 内側の水音も、もう戻らない。


 風だけが、吹く。


 笑い声がまた遠くで弾ける。


 「次へ」


 セドリックの手が再び腕を引いた。


 扉が開く。


 湿った臭いが流れ込んでくる。

 鉄。

 腐った藁。

 古い血。


 暗がりの奥で、誰かが動いた。


 鎖が鳴る。


 ルドルフだった。


 かつて整えられていた髪は塊になり、

 目の下の皮膚は青く沈んでいる。


 こちらを見るまでに、時間がかかった。


 認識の遅れ。

 そして、理解。


 顔が歪む。


 「来るな」


 声は掠れていたが、はっきりしていた。


 「来るな、来るな、来るな……」


 鎖を引き、床に膝を打ちつけながら叫ぶ。


 「お前のせいだ」


 唾が飛ぶ。

 言葉が石のようにぶつかる。


 「お前が来なければ、私は……」


 途中で息が途切れる。

 笑いに変わる。


 乾いた笑い。

 泣き声と混ざる。


 「聖女? はは……聖女だと?」


 顔を上げる。


 その目にはもう愛の残滓はなかった。


 ただ、穴がある。


 「地獄へ落ちろ」


 鎖が鳴る。


 それだけだった。


 セドリックが踵を返す。

 引きずられる。


 振り返ろうとした瞬間、床の藁が靴に絡みつく。

 バランスを崩し、石に頬を打つ。


 冷たい。


 痛みが遅れてくる。


 起き上がる前に扉が閉まる。


 闇。


 空気が重く沈む。


 壁に、十字架が掛かっていた。


 歪んだ木。

 煤けた表面。


 そこにだけ、まだ意味が残っている気がした。


 手を伸ばす。


 指先が震える。


 触れれば、何かが戻る。

 そう信じるしかない。


 あと少し。


 あと、少し。


 その瞬間。


 ぎ、と小さな音がした。


 釘が軋む。


 十字架が傾く。


 視界の中でゆっくりと角度を変え、

 影を引きずりながら、


 床に落ちた。


 乾いた衝撃音。


 それだけが部屋に残る。


 風も、笑い声も、もう聞こえない。


 沈黙。


 完全な沈黙。


 暗闇の奥で、誰かが立っている気がした。


 白い輪郭。


 動かない。


 呼吸の音もない。


 それでも、確信する。


 ――生きている。


 アンネローゼは、生きている。


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