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第16話 白の腐食

 礼拝堂は冷えていた。


 石の床は朝の湿気を吸い込み、足裏にじわりと滲む。高い天井から落ちてくる光は薄く、白い壁の色を鈍らせていた。


 クリスチーネは跪いていた。


 背筋は伸びている。


 両手は胸の前で組まれている。


 祈りの形は完璧だった。


 だが指が震えていた。


 わずかな震え。


 誰も見逃さないほどではない。


 だが自分には分かる。


 祈りの言葉が途中で絡まる。舌が乾く。額に汗が浮かぶ。


 礼拝堂の奥で誰かが咳をした。


 それだけで心臓が跳ねる。


 視線が集まっている。


 慈悲ではない。


 測っている。


 値踏みするような目。


 クリスチーネは聖水盤に手を伸ばした。


 指先が触れる。


 冷たいはずの水が、ぬるく感じる。


 濁っているように見える。


 自分の指から何かが溶け出している気がした。


 思わず手を引く。


 水滴が床に落ちる。


 その音が、やけに大きく響いた。


 背後で囁きがした。


 言葉にはならない。


 だが意味だけが届く。


 ――不潔。


 ――触れるな。


 ――神も見放した。


 クリスチーネは振り向かなかった。


 振り向けば、何もいないと分かっている。


 それでも耳は離れない。


 祈りの言葉が崩れる。


 


 廊下は長かった。


 白い壁が続く。


 足音が自分のものだけではない気がする。


 クリスチーネは歩いていた。


 早足でもなく、遅くもなく。


 だが呼吸は乱れている。


 角を曲がった瞬間、アンネローゼとすれ違った。


 布で喉元を覆ったまま。


 顔は整っている。


 微笑みも清潔だ。


 だが瞳が空洞だった。


 何も言わない。


 ただ見る。


 問いかけるように。


 あの日の言葉が蘇る。


 ――あなたは、誰?


 今度は逆だ。


 声はない。


 だが意味だけが胸に刺さる。


 クリスチーネは足を止めた。


 振り返ることができない。


 背中に視線が残る。


 焼け跡のように。


 


 その日の午後、警護が外された。


 理由は告げられない。


 ただ騎士たちが去る。


 コンラッドが最後に立っていた。


 彼は礼をしない。


 目も合わせない。


「……何かの間違いでしょう」


 クリスチーネは言った。


 声がかすれる。


「聖女様」


 彼はようやく口を開いた。


 その呼び方は冷たかった。


「穢れに近づくなと、命じられています」


 誰の命令かは言わない。


 だが分かる。


 それだけで、胸の奥が崩れる。


 クリスチーネは頷けなかった。


 ただ立ち尽くす。


 背中が軽くなる。


 守りが消える。


 風が直接肌に触れる。


 寒い。


 


 部屋に戻ると、鏡があった。


 いつも通りの顔が映る。


 白い。


 整っている。


 それが気に入らなかった。


 水を桶に汲む。


 顔を浸す。


 何度も。


 何度も。


 擦る。


 皮膚が赤くなる。


 爪を立てる。


 白さを取り戻すために。


 だが白は戻らない。


 むしろ剥がれていく。


 呼吸が荒くなる。


 水が床にこぼれる。


 そのとき、背後に気配があった。


「……次は」


 囁き。


 耳のすぐ後ろで。


「あなたの神様の番ね」


 鏡の中に、もう一人の女が立っていた。


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