第15話 白の剥落
部屋は静かだった。
重い扉の内側に、音はほとんど入ってこない。窓は閉ざされ、灯りは低く落とされている。
空気は動かない。
呼吸のたびに、自分の吐いたものをもう一度吸い込んでいるような感覚があった。
ルドルフは椅子に座っていた。
外套は脱ぎ捨てられたまま床にある。襟元は乱れ、靴も片方だけが脱げていた。
誰も整えない。
誰も指摘しない。
机の上には酒瓶がある。
栓は抜けたまま。
杯は倒れ、乾いた跡が木目に残っている。
彼は手を見ていた。
震えはまだ止まらない。
指先が言うことを聞かない。
王子であるはずの手が、ただの老いた男のように揺れている。
扉は開かない。
見舞いは来ない。
忠誠は、音もなく剥がれ落ちていた。
その頃、別の部屋では白が対峙していた。
クリスチーネは立っている。
背筋は真っ直ぐ。微笑みも整っている。だが目の奥にあるものは隠せない。
追い詰められている者の光。
「これで終わりにしましょう」
彼女は封書を机に置いた。
中から紙を滑らせる。
筆跡。
癖。
署名の違和感。
「あなたはアンネローゼではない」
断定。
迷いはない。
「証人もいます。あなたがメイドとして働いていた頃を知る者」
空気が張り詰める。
だがアメリアは座ったままだった。
動かない。
紙も見ない。
ただクリスチーネを見る。
「聖女様」
呼びかけは穏やかだった。
「修道院の裏庭を覚えていらっしゃる?」
クリスチーネの瞳がわずかに揺れた。
「夜ごとに誰が出入りしていたか」
言葉は静かに落ちる。
「神の名を借りて、どんな取引が行われていたか」
聖女の白が、ほんの少しだけ濁る。
彼女はすぐに微笑みを取り戻す。
「証拠は?」
「ございません」
アメリアは同じ言葉を返す。
「ですが、噂は風より早いのです」
それだけで十分だった。
クリスチーネは理解する。
この女は真実を求めていない。
白を汚す方法を知っている。
その瞬間、影が動いた。
セドリックだった。
いつからそこにいたのか分からない。
足音もなかった。
彼は紙を掴んだ。
乱暴ではない。
だが躊躇もない。
クリスチーネの指から、するりと奪う。
「返しなさい」
初めて声が荒くなる。
だが彼は見もしない。
紙を折り、火鉢に投げ入れる。
炎が上がる。
筆跡は黒く縮れ、形を失う。
証拠は煙になった。
クリスチーネは動けなかった。
聖女の鎧が軋む。
守るべきものが、自分の手の外で消えていく。
アンネローゼは立ち上がった。
一歩近づく。
距離がなくなる。
指先が喉元に触れる。
優しくなぞる。
白い皮膚の上を。
「……あなたの白さは」
微笑む。
「いつまで保つかしら?」
クリスチーネは答えられなかった。




