第18話 泥は燃える
灯りが揺れていた。
油の臭いが重く沈み、
壁の湿り気が火の熱で蒸れた匂いを立てる。
床に倒れたまま、クリスチーネはそれを見ていた。
橙色の輪郭が近づいてくる。
足音はゆっくりだ。
石を擦る、乾いた重さ。
止まる。
視界の端に靴が入る。
泥が固まった革靴。
裾は引き裂かれた布。
白ではない。
踏みにじられた草が足元に貼りついている。
細い茎。
紫の小さな花。
どこにでも生える雑草だった。
「……起きなさいよ」
声が落ちてきた。
甘くもなければ整ってもいない。
濁っている。
喉の奥で石が転がるような音。
クリスチーネは瞬きをした。
「……アンネローゼ」
灯りが少し上がる。
顔が照らされる。
微笑んでいない。
頬の線が硬い。
目の奥が暗い。
完璧な令嬢の仮面が、
ここにはなかった。
「違うわよ」
アメリアは吐き捨てるように言った。
「その名前、もう使ってないの」
火が揺れ、影が伸びる。
壁に二人分の輪郭が歪む。
クリスチーネは這うように腕を動かした。
石の冷たさが皮膚に染みる。
「あなたが……」
唇が震える。
乾いた舌が歯に当たる。
「あなたが何者か、知れば……」
言葉が途切れる。
それでも目は離さない。
執着が残っている。
最後の細い糸のように。
「知ってどうするの」
アメリアは肩をすくめた。
灯火を床に置く。
火が低くなり、部屋の隅が沈む。
「証拠にする? 神様に言いつける?」
鼻で笑う。
「もう誰も聞かないでしょ」
クリスチーネの喉が鳴った。
怒りか、恐怖か、
区別がつかない。
「あなたは……泥よ」
絞り出す。
「お嬢様の影に潜んだ、名もない泥……」
アメリアはしばらく黙った。
その沈黙は柔らかくない。
鈍い刃のように空気を削る。
「そうね」
やがて言う。
「泥だったわ」
足先で雑草を踏み潰す。
茎が裂ける湿った音。
「でもね、泥は燃えるのよ」
クリスチーネの目が揺れる。
灯火の橙が瞳孔に映る。
「焼いたの」
アメリアは淡々と続けた。
「薪を足して、風を読んで、灰になるまで見てた」
まるで台所の話でもするように。
「骨はね、すぐには崩れないの。
白くなるまで時間がかかる」
手をひらひらと振る。
「粉にしたわ。全部」
灯りの火が小さく鳴る。
油が弾ける。
「それを風に撒いた」
静かに息を吐く。
「きれいだったわよ。雪みたいで」
クリスチーネの肩が震え始める。
理解が遅れてやってくる。
「……嘘」
口が勝手に動く。
「嘘よ……そんなはず……」
「ほんと」
アメリアはあっさりと言う。
「完璧だったもの。最後まで」
その言葉が刃になる。
完璧。
聖女が憧れた白。
触れられなかった高さ。
それが、目の前の泥に焼かれた。
クリスチーネの喉の奥から音が漏れる。
最初は小さい。
次第に大きくなる。
笑いだった。
壊れた笛のような、乾いた笑い。
「ふ……ふふ……はは……」
体が折れる。
石床に額を打ちつける。
それでも笑う。
「そんな……そんなことで……」
涙が出ているのかもわからない。
「完璧が……泥に……」
息が詰まる。
笑いが止まらない。
アメリアはただ見ている。
観察するように。
灯火の明かりの中で、
狂気が形を取るのを待つ。
やがて、笑いが悲鳴に変わる。
声帯が裂けるような絶叫。
その瞬間。
アメリアは屈み込んだ。
耳元に口を寄せる。
息が触れる距離。
「ねえ」
囁く。
「お嬢様、最後にあなたの名前を呼んだわよ」
嘘か。
それとも、もっと残酷な真実か。
判断する余地はもうない。
クリスチーネの叫びが爆ぜる。
部屋の壁を叩き、天井に跳ね返る。
手が空を掻く。
何も掴めない。
アメリアは立ち上がる。
灯火を持ち上げる。
扉へ向かう。
振り返らない。
外の空気が少しだけ流れ込む。
冷たい。
そして。
鍵が回る。
鉄が噛み合う、静かな音。




