55話「距離感」
「昔の誰かさんを見てるみたいだって言った方がいいか?」
「昔の、誰かさん……ですか?」
「そう。昔の誰かさん」
先生が何故か少し微笑む。その誰かにそれほど心を許しているのか懐かしいのか微笑ましいのか分からないけれどとりあえず僕と先生の共通の知り合いらしい。
……誰だろう。
ソウ? 恵美? 会長? 柚樹?
どれもピンと来ない。
彼ら彼女は少なくとも僕よりその何かが下手だとは思わない。その何かが分かっていないのだけれど、4人ではないと僕の頭の中が訴えている。
___灯台下暗し。
僕の目の前にいる人物が珈琲を音を立てずに飲んでいる。
そう言えば、先生って今よりずっと自分がなくて抜け殻みたいだったよな。
「その昔の誰かさんは今は上手になりましたか?」
「どうだろうな。違う誰かさんのお陰で昔よりはマシになったかもしれない」
先生がトッピング用で装備されていた蜂蜜を僕に差し出す。
確かに、このパンケーキにかけたら甘いだろうけれど美味しそうだ。僕は甘いものは嫌いじゃない。
「でも今はその昔の誰かさんではなくて違う誰かさんの方が下手なんですよね?」
「もともとそいつは下手じゃなくて忘れてただけだからな」
カラッん。
カシスジュースの中に入っていた氷が音を立てる。やばい、味が薄くなってしまいそうだ。僕は慌ててジュースを口に入れるが、味は変わっていない。それほどこれは濃いのか。
グラスをテーブルに置いた時先生と目が合う。
この例え話しの種明かしをするつもりは無い。だって話している2人が頭の中で思い浮かべている人物が同じならばわざわざ言い換えなくていい気もする。それにどちらとも今更言い替えたところで気まづいだけだ。
「でもなんでその人はそれを忘れたんですか?」
やってしまった。
だからといって訂正するほどの度胸は僕にはない。聞いてしまったものには答えを聞きたいのだ。
「……大切なものを失ったからさ」
先生はクスリと僕のといに対して軽く笑ったあと、優しい瞳を浮かべて言った。空気が丸い。淡い水色だ。
それらがこれ以上聞くなと僕に伝えてくる。
蜂蜜がとろりと生クリームを侵略していく。
「今更ですけど、そのそれって」
「自己表現。お前の場合表情と言うよりも言葉の少なさだな」
単刀直入に言ってきた。いや、今まで隠してきた方が不思議なのだがここまで抉り取られるようにはっきり言われるとグーの音も出てこない。
「でも僕顔にも出してないつもりなんですけど」
「お前はっきり言って百面相並みに顔は豊かだぞ。その代わり言葉の表現は乏しい。隠しすぎだな」
先生が珈琲を飲む。口元は見えなくて、貴方だって隠してるじゃないですかと言いたくなる。
「言葉にしなくたっていいじゃないですか。わざわざ自分の感情を誰かに言う理由も見つからないですし」
「そうだな。でも俺はお前の気持ちお前の言葉から聴きたい」
「嫌ですよ」
「こら、顔を逸らすな。お前の気持ちなんて分かってるんだからな。教師を舐めるな。大方言葉にするのが恥ずかしいとでも思ってるんだろ」
……ビンゴだ。なんでこの人はこんなにも他人に興味がなさそうな顔をして僕のことを知っているのだろう。これ以上僕自身のことについて知って何になるというんだ。
僕は、誰かにわかってもらいたい訳じゃない。
誤解されるのならばそのままでいいんだ。
___本当の僕なんてないのだから。
「恐れるな。お前のことを知っていく上で俺は失望も軽蔑も覚えない」
「そんなはずないじゃないですか」
「そんなに俺は信用ないか」
「そうじゃないですけど、先生に迷惑はかけられません」
「___そうか」
先生の顔が昔の顔に戻った。
僕は、また何か失敗を犯してしまったのだろうか。
けれど、今回のことに関しては僕も引けない。
どんなに先生がいい人で善良な人でもこんな自分自身をわからない人の声を聴いたとして何になるのだろう。想像もできない。
それに僕は誰かに何かをしてもらいたいとは思わないのだ。
「一つだけ頼み事をしてもいいか?」
「なんですか?」
「先生ってのを、辞めて欲しい。学校でもないしな」
真面目な顔をして何を言ってくるのかと思ったらそんな事か。先生なりの配慮だっのだろうか。僕はそんなに気にしていないのだが、先生が気にしてしまったらしい。
目を合わせてくれない。
「わかりました。宮水さん?」
その言葉をした瞬間、距離が遠くなった気がした。
なんでだ。
生徒と教師という距離は近くもないはずなのに、なぜ先生のことを先生と呼ばないだけでこんなにも寂しい気持ちになるのだろう。
普通、反対で、近くに感じるものでは無いのだろうか。
「ありがとう、一ノ瀬」
また、距離が広がった。
先生の、宮水さんの顔が僕を突き放している。
いつも見る顔。
いつも見る笑顔。
僕ではない誰にでも向ける万人向けの笑顔が、目に焼き付けられる。
お前が言ったことはこういう事だと目の前の男の人が言っている気がする。
そんなつもりはなかったのだと、言えればどんなにいいことだろう。けれど、僕にはそんな勇気は持ち合わせていなくてそのまま僕は愚かにも家に着いた。
柚樹が笑いながらテレビを見ている。
僕は結んでいた髪を解いてそのまま自分の部屋へと逃げ込んだ。




