七.たった一つの温もり
恐れていた両親からの叱責は、なかった。
翌日の夕刻近く。蓮瓔は寝台に背を預けて床に座り込み、ぼんやりと宙を見上げていた。
(あの時の私は、どうかしていたわ……)
世界の全てが敵に見え、皆が蓮瓔を嫌悪し、失墜を願っているように思えた。だが、たとえそれが事実であったとしても、周囲に当たり散らして良い理由にはならない。
蓮瓔は皇長女だ。常に、妹たちや民の手本であるべき存在なのに。
(李公子にお詫びをしなくては。結局、面会もすっぽかしてしまった。昭瑛も……)
昨日の義妹の姿を思い浮かべ、蓮瓔は抱えた膝に額を押し付けた。
しんと静まり返った彼女の部屋に、その時、遠慮がちな声が響いた。
「蓮瓔公主様、起きていらっしゃいますか? ……あの、第一皇子殿下が、公主様にお会いしたいと……」
(……崇義お義兄様が?)
驚いた蓮瓔は慌てて立ち上がり、扉に駆け寄った。そこには戸惑った顔の瑾萱が立っていて、蓮瓔と目が合うと、彼女はサッと目を伏せる。
「客間でお待ちいただいておりますが……。いかがなさいますか?」
「会うわ。もちろん」
きっぱりと答えた蓮瓔にほっとしたように息をつき、瑾萱は手早く蓮瓔の身を整え始めた。
身なりを最低限に正し、客間に駆け込んだ蓮瓔を、崇義はいつも通りの柔らかな笑みで迎えてくれた。
「やあ、蓮瓔。突然すまないね」
変わらない気さくな言葉と穏やかな眼差しに、張り詰めていた蓮瓔の心が一息に緩む。彼女は滲みかけた涙を慌てて拭い、軽く礼をとった後、義兄の向かいの榻にを落ち着けた。
「お義兄様、どうなさったの?」
「うん。久しぶりに体調が落ち着いてきたから、母妃に香を上げたいと思ってね。君にも会いたかったし」
「あ……」
さらりと言ってのけた崇義の笑顔に、蓮瓔は気まずくなって目を逸らした。
崇義の母・藩氏は、三年前に亡くなっている。
毒の後遺症により後宮を去った彼女は、かつての寵妃を哀れんだ父の意向で、宿下り後も下級妃の位に留め置かれていた。没後も後宮廟の片隅に祀られており、崇義は折を見て、彼女の供養に訪れている。
蓮瓔も、「お義兄様が難しい時には、私が香を上げる」と約束していた。にも関わらず、このところすっかり疎かにしてしまっていたことを、ようやく思い出したのだ。線香立てに溜まった埃には、義兄もすぐに気付いただろう。
けれども、義兄はあくまで柔らかな微笑みを浮かべて、蓮瓔の両手をそっと握ってくれた。彼は骨張った指で何度も蓮瓔の手の甲を撫で、目を細める。
「話は聞いたよ。──辛かったね」
労るような声に、温かな指の感覚に、蓮瓔は堪えきれずに涙を零した。
「お義兄様……」
崇義はいつもこうだ。無理に事情を聞かず、決して深入りし過ぎず。けれど、一番欲しがっている言葉をさりげなく与えてくれる。
誰かの悪意に、顔色を伺うような侍女の態度に、世璋の咎めるめるような眼差しに疲れ切っていた蓮瓔の心に、義兄の共感の言葉は深く染みた。
「義兄様。私、皇女として有るまじき行動をしてしまったわ。観月宴の舞だって、ちゃんとやり遂げられるのか分からない……」
「……そうか」
「きっと皆、呆れている。『皇女失格だ』って。お母様もお父様も、きっと……」
「そんなことはないよ」
十五にもなって子どもじみた恐れを口にしても、義兄は決して馬鹿にはしない。とめどなく零れる涙をほっそりとした右の指先で拭い、崇義は微笑む。
「蓮瓔はよく頑張っているよ。少なくとも、私はそれを知っている。……観月宴までまだ、二十日はある。落ち着いて、出来ることをやっていこう」
「義兄様……」
蓮瓔はじっと崇義の顔に見入った。力強く頷いてみせる義兄の眼差しに励まされ、彼女もコクリと頷きを返す。
「……ありがとう。もう少し、頑張ってみる。姚忍妃に、舞のことを相談してみるわ」
相次ぐ騒動のせいで、舞譜を覚えるのにも精一杯の有様だった。父を満足させる出来には、まだまだほど遠い。母の遠縁であり、昨年同じ舞台を経験した姚妃であれば、良い助言をくれるかもしれない。
おずおずとそう告げた蓮瓔に、崇義は「そうしてみるのが良いね」と微笑んでくれた。繋いだままの左手に優しく力を込めた後、その手をそっと離し、義兄は立ち上がる。
「何かあったら、いつでも央廷を訪ねておいで。話を聞くよ」
気遣いに満ちたその言葉に、蓮瓔はようやく笑みを返した。
義兄を客間の外まで見送りながら、不意に蓮瓔の胸に、「もっと義兄と一緒に居たい、話をしたい」という甘えが兆す。自分が無意識に義兄の袖を掴んでいたことに気付き、蓮瓔は息を詰めた。
(駄目よ、義兄様だって病み上がりなのに。それに、もう日が暮れてしまう──)
例え皇族であっても、男性は定められた刻限までに内廷を出なければならない。夜の後宮に身を置けるのは、皇帝と皇太子のみ。その皇太子とて、自身の妃の宮以外に足を踏み入れれば、厳しい罰を受ける。
一人葛藤する蓮瓔を見下ろし、崇義はほのかに笑った。彼はそっと身を屈め、蓮瓔の耳元に囁く。
「──大丈夫。君は、君の舞は、美しい。自信を持って」
(……そちらではないのだけれど……)
蓮瓔は微かに唇を尖らせたが、すぐに吹き出してしまった。完璧な義兄にも、分からないことがある。それが更に、彼女に親しみを覚えさせる。
目を瞬かせる義兄に首を振って礼を述べ、蓮瓔はそっと彼の袖口から指先を離した。崇義は小さく頷き、今度こそ、日の暮れ始めた後宮を去って行った。




