八.父の妃
筆頭侍女のみを従えて宮中を歩く蓮瓔に向けられる目は、様々な色に満ちていた。好奇や嫌悪、同情。やはり、先日の蓮瓔の振る舞いは、娯楽に飢えた後宮の女たちにとって、格好の噂の的となったようだ。
けれど、それも仕方の無いことだ。後宮では、弱みや隙を見せた人間が悪い。この状況も、悪意にあっさりと心を折られ、取り乱した自分自身に責任がある。これみよがしにひそひそと囁き合う人々を、蓮瓔は無表情でやり過ごした。
(……それに、私は一人じゃない。崇義お義兄様がいてくれるもの)
義兄の穏やかな白皙の美貌を思い浮かべ、蓮瓔は小さく微笑んだ。
「──素晴らしい舞でしたわ、蓮瓔公主様」
普段通りの態度で蓮瓔を迎えた姚忍妃は、彼女の舞を一通り確認した後、そう言って淑やかに微笑んだ。
昨年、観月宴の舞姫を務めた彼女は、叔母の琴華長公主には及ばないものの、舞の名手だ。六年前に叔母が駙馬を得て後宮を出て以降、彼女は舞い手に三度指名されている。その姚妃からのお墨付きを得て、蓮瓔は内心でホッと息をついた。
「……ありがとう。でも、まだ何か足らない気がして。譜通りに舞うのが精一杯で、情感を上手く表現出来ていないの」
唇を尖らせた蓮瓔に、姚忍妃は微かに首を傾げる。彼女はしばらく顎に手を添えて何事か考え込んでいたが、やがてそっと目を細めた。
「……公主様は、『奔月』の嫦娥は、あの場面でどんな思いを抱いていたとお考えですか?」
「……思い?」
「月に帰ることを熱望し、『ようやく帰れる』という安堵か。地上に残していくものへの未練か。──正解はないと思うのです。あるいは、一つだとも限らない。ただ、公主様が嫦娥であれば、何を思うか。それを表現されても良いのかも知れませんね」
例えば、と前置きをして、彼女は楚々と立ち上がった。すっと目を細めて遠くを見上げたあと、静かに舞い始める。
まずは、全体的に飛び跳ねるような、勢いに満ちた動きだった。懐かしい故郷を一心に目指し、力強く何度も宙に舞う。輝く眼差しは、真っ直ぐ天を見上げている。
次は正反対の、動きにキレのない舞だった。目も伏せ気味で、何かに引きずられるように手足の動きも重い。何度も何度も足元に目をやり、切なげな微笑みを浮かべる。
同じ振りを再現していても、与える印象はまったく異なっていた。蓮瓔は息を飲みながら、その舞を見つめていた。
講師も母も、「正解」をなぞるようにとしか言わない。自分の解釈を舞うというのは、新鮮な助言だった。
やがて動きを止めた姚忍妃が、蓮瓔を振り返って優雅に頭を下げる。蓮瓔は思わず両手を打ち鳴らしていた。
「……さすがね。素晴らしかったわ」
「お褒めに預かり、恐縮ですわ」
おどけたように笑う忍妃に、蓮瓔はおずおずと微笑みかける。
「……やってみるわ。ありがとう、姚忍妃」
姚忍妃は花が綻ぶように笑い、そんな彼女に頷いてみせた。
そのまま誘われるがままに、蓮瓔は彼女と茶を共にした。他愛もない話に、蓮瓔の張り詰めた感情も少しずつ緩んでいく。
姚妃が不意に目を細め、蓮瓔を覗き込んできた。
「……こうしてお話するのも、随分、久しぶりですわね」
蓮瓔は言葉に詰まり、俯く。
姚 寧琳は母の遠縁で、当然、頻繁に母の虹翔殿を訪ねてきていた。昔は蓮瓔もよくその場に顔を出していたものだが、母との関係が年々冷え込み、今ではほとんど足を向けなくなった。そもそも父の妃は皆、年が上で、個人的に親しく付き合うこともない。
気まずさに黙り込んだ蓮瓔に、気付いているのかいないのか。姚忍妃はあくまで穏やかに続けた。
「……私には、子がおりませんでしょう? 私に蓮瓔様のような御子がいればと、よく考えておりましたのよ」
「姚忍妃……」
蓮瓔は驚いて顔を上げる。姚妃は淑やかな美貌を優しく笑ませ、蓮瓔の手を取った。
「一緒に舞を楽しんだり、裁縫を教えたり。茶を飲みながら、他愛もない話をしたり……。そんな風に日々を過ごせたら、どれほど幸せでしょう。嫁ぐ時にはどんな衣装を用意しよう、けれどきっと泣いてしまうわ……などと、夢想してばかりです」
切なげな眼差しを浮かべる姚妃に、蓮瓔は何も言えずに黙り込んだ。
姚妃は今年で二十七歳。父の訪いが全くないわけではないが、長年、子宝に恵まれずにいた。そもそも、父は元々あまり後宮通いに熱心ではなく、今は彼女の一歳下の周媛儀に寵を向けている。
名家の令嬢として皇族に嫁ぎ、その母となるべく育てられきた美姫は、何を思っているのだろうか。
言葉に詰まる蓮瓔に、姚妃はにこりと笑って言った。
「崇義皇子殿下が、公主様を訪ねて来られたと聞きましたわ。とても、お優しいお方……。頼りになる兄と、美しく聡明な妹。そんな御子たちがいたら、私の人生はきっと、もっと華やいでいたことでしょう」
その切ない憧れの言葉は、清々しいほどにあっさりとしていた。蓮瓔はしばし逡巡したが、やがて、ポツリと返した。
「──貴女の元に生まれる子は、とても、幸せだと思うわ」
(そう、こうして子に純粋な愛情を向けられる女であれば──)
蓮瓔は、母と一緒に何かをしたことなど、あっただろうか。こんな風に他愛もない話をして、たまには叱られたり喧嘩もしたりして、何でもないことで笑い合って。そんな記憶は、欠片もない。
母とそんな日々を送れたら、どんなに幸せだっただろう。
姚忍妃は何かを察したのか、笑みを深め、再び蓮瓔の指先を取った。
「──また、舞を見せにいらしてくださいね。いつでもお待ちしておりますわ」
「……観月宴が終わったら、今度は一緒に舞いましょう」
恐る恐るそう返した蓮瓔に、姚妃は花が咲くように笑顔を返した。。




