九.思いの証
姚妃を訪ねてから、十日ほど。あの日以来、蓮瓔の周囲での嫌がらせは、ぱったりと止んでいた。嵐の前の静けさなのか、彼女が折れようとしないことに音を上げたのか。
蓮瓔自身、義兄の崇義だけでなく、姚忍妃という新たな心許せる相手を得たことが大きかった。当初のような余裕が戻り、冷静に対処できるようになったのだ。打ち解けて以降、蓮瓔は一日おきに彼女を訪ねていた。
派手な黄色で埋め尽くされた衣装の刺繍も、全て解き、大急ぎでやり直しさせている。蓮瓔も度々作業場に足を運び、自らも針を手にしていた。
その日も作業を終え、虹翔殿の自室に戻ろうとしていた蓮瓔は、前方から歩いてくる一団を認めて目を瞬かせた。
「──白晟お兄様」
声をかけると、数名の宦官を従えて歩く背の高い男性がふと足を止めた。周囲の付き人が深々と頭を下げる中、兄はぎこちない笑顔を浮かべ、蓮瓔に歩み寄ってくる。
「……母后への、挨拶にな」
「そうなの」
兄は五年前に央廷の皇太子宮に移ったが、今も折々に母を訪ねて来ている。父母への孝養は子のつとめであり、母に強く望まれては無碍にも出来ないようだ。兄の応えに溜め息をつき、蓮瓔は肩を竦めて兄に道を譲った。
兄も目を伏せて妹に軽く目配せをし、宦官を連れて再び歩き始めた。
その後ろ姿を見つめ、蓮瓔は不意に眉間に皺を寄せる。
(──白晟お兄様、歩き方がおかしい……?)
「兄様」
駆け寄って彼の左腕を引くと、白晟が微かに息を飲む気配がした。兄の周囲を固める宦官たちが、遠慮したように身を引く中、蓮瓔は背伸びして白晟に耳打ちする。
「……左腕、どうかしたの」
途端に兄は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
兄は武芸を苦手としているが、常に鍛錬は怠らない。姿勢や体捌きにも、常に意識を向けているはずだった。だが今日は、不自然に左手を庇うような歩き方をしている。
しばらく目線を泳がせていたものの、白晟はやがて小さく溜め息をついた。芸事を得意とする蓮瓔の目や耳は誤魔化せないと踏んだのだろう、兄は観念したように囁いた。
「──母后には内密にしてくれ。鍛錬の際、相手を務めた武官の剣が、真剣にすり替わっていた」
「……なんですって?」
蓮瓔は息を飲む。兄は周囲を伺いつつ、「刃が左腕を掠めた程度だ、問題はない」と小声で続ける。蓮瓔はほっと息を吐いた。
天子の後継たる皇太子として、何より重視されるのが、心身の健康だ。人目に付く傷や、万が一身体に障害が残りでもすれば、大事になるところだった。兄を上目で見つめつつ、蓮瓔は囁き返す。
「……下手人は? 捕まったの?」
「父皇の命で、玄以鋭が密かに調査を始めている。武具を管理していた官と、鍛錬の相手役を務めた武官は……、処罰を受けた」
白晟が表情を曇らせた。
故意であろうとなかろうと、皇太子に刃物を向けたとあっては、無事では済まされないだろう。
蓮瓔も目線を逸らしながら、小さく息をついた。
「……何にしても、気を付けてね」
その言葉を受け、兄も眉間に皺を寄せつつ答える。
「ああ。……お前も、観月宴の舞の準備に、随分と支障が出ているのだろう? 警戒を怠るなよ」
「分かっているわ」
互いにそう言い交わし、蓮瓔はようやく兄の腕を離した。
去って行く兄の背中を見送りながら、蓮瓔は内心で独りごちる。
(私だけでなく、お兄様まで危険な目に……。これは、同じ人物の仕業なの?)
直接命を狙うのではなく、偶然を装った罠を仕掛ける。そもそも、これが「罠」と断言出来るのかも怪しい。
底意地の悪い悪意の存在に、蓮瓔の背筋を冷たいものが走った。蓮瓔は両の拳を握り締め、その場に立ち尽くしていた。
「──公主様。先日は誠に、申し訳ありませんでした」
常になく神妙な様子で頭を下げる婚約者を、蓮瓔は冷たい目で見下ろしていた。
観月宴もいよいよ三日後に迫っている。蓮瓔は李 世璋といつも通り、客間で向き合っていた。しんと冷えきった空気に、筆頭侍女の瑾萱が茶碗を置く音だけが小さく響く。
「……顔を上げてください、李公子。殿方が、女に頭を下げるものではありません」
蓮瓔の言葉に潜む棘に、彼も気付いているのだろう。姿勢を直した世璋は、表情を強ばらせている。あの騒動以来久しぶりに会う婚約者の態度に、蓮瓔は思わず溜め息を零した。
「──あの時の私は、どうかしておりました。止めていただいて、感謝しています」
彼女の脳裏を過ぎるのは、途方に暮れた様子の義妹・昭瑛の姿だ。そして、どこか焦ったように自分を止める、世璋の険しい瞳。
あの時は、度重なる悪意に追い詰められ、感情が爆発してしまった。普段なら気にもならないことが、全て自分への悪感情に思えて仕方がなかった。だが、そんなもの、言い訳にもならない。
目線を逸らして黙り込んだ蓮瓔に、世璋は「いえ……」と小さく首を振ってみせた。
(珍しいことね。いつも迷惑なほど軽快に喋り、こちらの困惑などお構いなしに距離を詰めてくるのに……)
蓮瓔は微かに戸惑いながら、世璋をじっと見上げた。
互いに幼い頃から知る、四つ年上の婚約者。突然、「兄の幼馴染」から「自分の婚約者」に立ち位置が変わり、今も正直、どう接するべきなのか分からない。兄の友人として会っていた時、彼とはもう少し自然に話せていたように思う。
しばし気まずい沈黙が、二人の間を流れる。その重い空気を振り払うように、世璋が意を決した表情で懐を探った。
「公主様。もし良ければ、これを……。受け取っていただけませんか」
そう言って取り出されたのは、磨き抜かれた一本の銀の簪だった。
深い蒼玉の飾りに真珠が添えられ、まるで夜空に浮かぶ満月のよう。連なる粒飾りは琥珀や水晶で、煌めく星のような印象を与える。
(綺麗……)
蓮瓔は黙って、彼の手の中の簪を見詰めた。
後宮に持ち込まれる全てのものは例外なく、宦官の確認を経なければ受け取れない。世璋もよく弁えているので、それを直接、蓮瓔に手渡そうとはしなかった。
彼はぎこちなく、言葉を続ける。
「……本当は、もっと早くにお渡ししたかったのですが……。公主様のご迷惑になるのも憚られて」
蓮瓔は息を飲み、簪の凛とした輝きに見入った。
(──私が、嫌がらせを受け始めたから……)
国の行事で身に付ける衣装や装飾品には、相当の格が求められる。そして、予め用意していた物が駄目になれば、次はもっと優れたものを用意せねばならないのが、後宮という場所だ。これほどの逸品を嫌がらせで壊されてしまえば、いくら皇長女の蓮瓔と言えど、代わりはそうそう用意出来ない。無理をすれば、「権力を笠に我儘放題をしている」との悪評も立てられただろう。
婚約者の気遣いに、蓮瓔はぎこちなく微笑んだ。
「……ありがとう存じます、李公子。宦官たちにすぐ、確認してもらいましょう」
彼女の答えに、世璋はパッと顔を上げた。そうしてようやく、いつもの軽快な笑みを浮かべる。
そのあまりにも嬉しげな様子に、蓮瓔も気恥しさを覚えながら、小さな微笑を返した。




