十.狩り
(とうとう、始まったのね……)
一際賑やかさを増した宮城で、蓮瓔は緊張から小さく喉を鳴らした。
いよいよ観月宴を明日に迎え、招待を受けた賓客が、続々と宮城に参集していた。
目玉の宴の前にも、男たちは狩りや小宴を楽しんだり、会談の時間を設けたりと忙しい。皇族や后妃たちも、彼らの妻や娘の相手を務める必要があった。蓮瓔も皇長女として、客たちの歓待の輪に混ざる必要がある。彼女は侍女たちに命じて、身支度を整えていた。
国内からは、異民族の侵入を防いだ軍の指揮者や、めざましい税収を上げた州の長などが顔を見せている。いずれも、父帝自らの指名だ。
国外の参列者は、親交の深い近隣国や、新たに交易を始めた国の重鎮が多い。なお隣国の錚雲は、急な王位の交代があったとかで、今年は参加を見合わせている。祖父の代で交易が再開してから、初めての出来事だった。
外廷や央廷の賑わいは、内廷の蓮瓔の耳にも届くほどだった。明日、あれほど多くの人の前で舞うのかと思うと、今から緊張で全身が強ばっている。
(……落ち着くのよ。本番は明日。今日はただの、もてなしの宴)
心配そうにこちらを見詰める瑾萱に、蓮瓔はぎこちなく笑い返した。
昼を過ぎると、馬に乗った男たちが続々と集まり始めた。
これから、宮城に隣接する皇家所有の森で、男たちが狩りを行うのだ。
彼らは二組に分かれ一斉に馬を走らせ、獲物の数や大きさで勝ち負けを競う。白の組を率いるのは兄である白晟、黒の組を率いるのは叔父の尚清だ。彼は父の年の離れた異母弟で、皇都近郊の地を治める親王位を賜っている。
彼らはそれぞれ従える官僚や軍人、賓客たちを引き連れ、合図と共に狩場へと駆け出していくことになっている。狩りに参加出来ない女たちは、出発地点から離れた場所に立てられた天幕の中で、開始の合図を待っていた。
少し離れたところにある豪奢な天幕には、父と母が腰掛けている。父は傍に控える宦官たちに団扇であおがせ、涼しい顔をしているが、母は心配そうな表情で顔色を悪くしている。遠くに集まる騎馬のうち、白の鎧を身に着けた一団を、憂いの眼差しで見つめていた。
蓮瓔は小さく鼻を鳴らし、目の前の皿に盛られた乾果を指先で摘み上げた。彼女の隣では、義妹の昭瑛が身体を小さくしている。
(……早く始まって、早く終わらないかしら)
狩りの楽しさなどまるで理解出来ない蓮瓔が、肩を竦めたその時だった。
──ヒヒィン!
「……うわぁぁっ!」
尋常ではない馬の嘶きと共に、男たちの悲鳴が上がる。
慌てて振り返った蓮瓔は、信じられない光景に目を見開いた。
「──白晟!」
母が金切り声で叫ぶのと、武官たちが駆け出すのはほぼ同時だった。
(お兄様……!)
震える蓮瓔の視線の先で、兄の白晟の愛馬が後ろ足で立ち、暴れている。その背に兄を乗せたまま。
兄は振り落とされないよう必死の形相で手綱を掴み、馬体にしがみついていた。悲鳴を上げた官僚たちが馬を飛び降り、おろおろと逃げ惑う。
「ひぃぃぃッ!」
「誰か、早く馬を! このままでは殿下が……!」
逃げ遅れた老官が暴れる馬の前足に蹴り飛ばされ、その場に転がる。暴れる馬のあまりの勢いに、駆け付けた武官たちがたたらを踏んだ。その場に集められた五十を下らぬ馬たちも、騒然とした雰囲気に鼻息を荒くしている。
混沌とした外廷に、その時、父帝の力強い声が響き渡った。
「馬丁は他の馬を下がらせよ! 武官、何をしている! 早く白晟を下ろせ!」
その声に背中を叩かれ、武官たちが一斉に動きを再開した。数名がかりで轡を取り、大量の布を手に駆け付けた別の数名が、必死の面持ちで馬上の兄に手を伸ばす。
「殿下! お手を!」
馬が頭を下げた刹那、手綱を離した兄が武官たちの方へ身を乗り出した。兄の身体を受け止めた武官が、大きく仰け反る。そのまま地に倒れ込もうとする二人を、布を掲げた武官たちが受け止めた。
身軽になった青鹿毛の馬が勢いよく駆け出し、武官たちがその後を追った。
「医官!」
狩りでの万が一に備え、天幕近くに待機していた医官が、父の声に慌てて兄に駆け寄った。兄は身体を起こし、顔面蒼白のその医官に支えられて立ち上がる。
未だざわつく人々に、いつの間にか天幕を出て人々の中心に立っていた父が、朗々と声を張った。
「案ずるな、皇太子は無事だ! ……狩りは一旦延期とする。官僚たちよ、客人たちを控えの間に案内せよ! 后妃たちは後宮に戻れ!」
平生と変わらない、堂々とした父の振る舞いに、人々は次第に落ち着きを取り戻していく。椅子にへたり込んで震える母を、筆頭宦官が支え、顔色を悪くした客人たちに医官が寄り添う。
蓮瓔たち皇女や、父の妃たちが集まっていた天幕にも、宦官と医官が歩み寄ってきた。
「皇女様、及び妃様方は後宮へ。具合の悪い方は、遠慮なくおっしゃってください」
早鐘を打ち続ける心臓を持て余しながら、蓮瓔は宦官たちに誘導され、恐る恐る立ち上がった。
(お兄様……)
震える足はともすればすぐにもつれそうで、蓮瓔はぎゅっと両拳を握り締めた。




