六.暗転
「……ッ、どうして、刺繍は白金だと命じたでしょう! 何なの、この下品な黄色は……!」
「申し訳ございません、公主様……!」
怯えた顔の侍女が平伏し、蓮瓔はくしゃくしゃに丸めた衣を彼女の足元に投げつける。まだ年若いその侍女は、ビクリと大きく肩を揺らした。本番の観月宴まで、もうそれほど日数がない。蓮瓔は肩を怒らせ、侍女たちを睨みつけた。
駆け付けた筆頭侍女の瑾萱が、青ざめた表情で蓮瓔を振り仰ぐ。彼女は恐る恐るといった様子で、口を開いた。
「公主様、申し訳ございません。急ぎ司衣労に、衣装の作り直しを命じます。髪飾りや宝石も厳重に鍵をかけ、保管を……」
「当たり前でしょう!」
蓮瓔の金切り声に、侍女たちは一斉に全身を強ばらせる。その様子がますます蓮瓔を苛立たせ、彼女は再び声を荒らげた。
「……出て行って! 一人にして!」
肩を震わせる蓮瓔を何度か振り返りながらも、瑾萱は侍女たちを連れて部屋を出ていく。
広い私室に一人きりとなった蓮瓔は、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
(どうして……)
初めは、些細な行き違いだった。
観月宴の演目は毎年、月の女神・嫦娥を主題とした「奔月」と決まっている。女神が月に帰る様子を表した優美な振りと、広寒宮に響く調べを思わせる優雅な音楽が特徴の、幻想的な伝統舞だ。
蓮瓔は司技労を通じて、宮城抱えの楽団に打ち合わせに参加するよう要請したが、指定した時間に彼らは現れなかった。後日になって、楽団の長は「誤った日時を伝えられていた」と真っ青な顔で謝罪してきたが、蓮瓔は苦い思いを隠しきれずにいた。
それでも、その時はまだ、肩を竦めてみせる程度でいられたのだ。
だが、その後も、小さな騒動は続いた。
今回のために新たに作らせた衣装は、寸法がまるで合わなかった。身に付けるはずだった簪は先が潰され飾りの宝石が砕け、耳飾りは片方がひび割れていた。扇子は持ち手が折られ、靴は肥桶に隠されていた。
(それでも、この程度ならまだ、耐えられた──)
些細な嫌がらせ程度であれば、受け流すことは出来た。後宮に、こうした悪意はつきものだ。蓮瓔は必死に奥歯を噛み締めつつ、狼狽える侍女に対処を命じた。
それでなくとも先日から、不自然に琴の弦が切れたり、酒がすり替えられたりと、不審な嫌がらせが続いていた。「今更この程度、怯えることもないわ」と、蓮瓔は不安がる侍女たちを宥めてさえいたのだ。
そんな蓮瓔の強がりを嘲笑うように、悪意はやがて、害意へと姿を変えていった。
仮縫いまで進んだ衣装に袖を通したところ、毒虫が袖口から飛び出してきた。夜、屋外で練習をしていたところ、風もないのに篝火が倒れ、危うく火災になりかけた。気を落ち着かせようと香を焚けば、夾竹桃と思しき枝が仕込まれていたこともある。
どれもこれも、刃物で襲いかかられたり食事に毒を盛られたりするような、明確な殺意を向けられたわけではない。けれども、避け損ねたり、気付かなければ、蓮瓔は間違いなく死んでいた。
その恐怖は確実に、蓮瓔の心身を蝕んでいった。彼女は日に日に顔色を悪くし、周囲に当たり散らす場面も増えていた。
(誰なの……? なぜ、私を……。どうしよう、観月宴までもう二旬もないのに……)
一人きりの部屋で、蓮瓔は地に膝をつき、頭を抱える。
もしこのまま為す術もなく、観月宴で失態を演じてしまったら。
(──きっと、お父様に見捨てられてしまう。お母様にもまた、「情けない娘だ」と蔑まれて……)
惨めだった。恐ろしかった。
誇り高き皇長女が、このような陰湿な嫌がらせに屈するなど、あってはならない。全て悠然と跳ね返し、完璧な姿で人前に立たなければならない。
それなのに。
思わず蓮瓔が涙を零しかけた、その時だった。
──カタン。
扉の向こうで微かな足音が響いたのを、過敏になっていた蓮瓔の耳は聞き逃さなかった。彼女は弾かれたように立ち上がり、飛びつく勢いで扉を開ける。
「──誰っ!」
「ひっ……」
彼女の凄まじい剣幕に、扉の向こうの人物はたじろいで身体の均衡を崩した。無様に地面に尻もちをついた、小柄なその女の襟首を、蓮瓔は容赦なく掴み上げ──
「……ここで何をしているの、昭瑛」
地を這うように低い声で、そう呟いた。
恐る恐る顔を上げたのは、憎たらしいほどに整った顔立ちの義妹、昭瑛だ。彼女は怯えたように蓮瓔を見上げ、たどたどしく答えた。
「あ、あの……。部屋で書を読んでいたら、大きなお声が聞こえて……。な、何かあったのかと……」
父によく似た三白眼気味の瞳に上目で見つめられ、瞬間、蓮瓔の怒りは沸騰した。
「……私がうるさいと、そう言いたいわけ?」
「違います……っ、私はただ、」
「何が違うのよ!」
絶叫した蓮瓔は、掴んだままの昭瑛の襟首を振りほどいた。華奢な身体は呆気なく、地に叩き付けられる。小さな悲鳴を上げる彼女に、蓮瓔の胸中で憤怒の炎が瞬く間に噴き上がった。
「全部、全部あんたがやったんでしょう! 父皇様を私に取られるとでも思った!? さすが、あの朱 玲穎の娘だわ!」
蓮瓔は床に転がったままの昭瑛の身体に馬乗りになり、あらん限りの罵声を浴びせ続けた。無抵抗な彼女の髪を掴み、頬を張り、硬直した身体を激しく揺さぶる。昭瑛はされるがまま、要領を得ない反論を繰り返すだけ。
冷静になれば、ろくな後ろ盾を持たないこの義妹が、後宮で何か事を起こせるはずもないと、すぐに分かったはずだった。全て自分で仕組んだとして、小柄な彼女が、篝火を引き倒せたはずがないことも。
けれど、あまりにも時機よく現れた義妹に惨めな姿を見られた恥辱と、生命を狙われているかも知れない恐怖、思うように準備が進まない苛立ちが、蓮瓔を暴走させた。自分の発する言葉に煽られ、彼女の怒りは膨れ上がっていく。
自分で自分を止めることなど、不可能だった。そんな蓮瓔を現実に引き戻したのは、焦ったように割り込んできた男性の声だった。
「──蓮瓔公主!」
力強い手のひらに両肩を掴まれ、蓮瓔はハッと息を飲んだ。ぎこちなく振り返った彼女の顔を、婚約者の世璋が険しい目で覗き込む。
「落ち着いてください。一体、どうなさったのです」
「李、公子……」
呆然と呟き、壊れたように震える蓮瓔の身体を支え、世璋は彼女を立ち上がらせた。彼に続いて部屋に入って来ていた筆頭侍女の瑾萱が、恐る恐る昭瑛を抱き起こす。
髪を乱し、両頬を腫らした義妹の姿に、蓮瓔は息を詰めて目を逸らした。瑾萱は他の侍女に昭瑛を任せ、蓮瓔の元に歩み寄ってきた。震える声で、蓮瓔は瑾萱に問う。
「どう、して……、李公子が」
「……面会のお約束の時間でしたので、客間にいらしていたのです。物音を聞かれ、驚かれて……」
気まずそうに答えた瑾萱が、そのまま言葉を濁すように俯く。
蓮瓔の醜態は、客間にまで響き渡るほどのものだったのだ。ならば当然、母の耳にも届いているだろう。
(何を言われるのだろう。──お父様だって、可愛がっている昭瑛に手を出した私を、許してくださらない……)
じわりと涙が滲みかけ、蓮瓔は両手を懸命に握り込んで耐えた。
怯えたように遠巻きにこちらを見る侍女たち。険しい顔の婚約者。ボロボロになった義妹。
蓮瓔は全身を震わせ、叫んでいた。
「──放っておいて。一人にして。誰も、近付かないで!」
肩にかかったままの婚約者の両手を振りほどき、蓮瓔は自室に向かって駆け出す。
「蓮瓔公主! 待ってくれ、話を」
焦ったような世璋の声が、耳鳴りでわんわんと歪んで聞こえた。視界がぐるぐると回る。義妹の頬を打った手のひらが、焼けるように痛い。
(嫌、もう、嫌──)
自室の扉を後ろ手に閉め、蓮瓔はその場に蹲った。夏の終わりがけの生ぬるい風が、窓の隙間から忍び込み、蓮瓔の簪をシャラシャラと揺らす。
宝玉の擦れ合う、場違いなほどに綺麗に澄んだその音に、やがて蓮瓔の啜り泣きが混ざり始めた。




