五.観月宴の舞姫
結局、一日中寝台で過ごしていた蓮瓔の元に文が届けられたのは、その日の夕刻頃だった。微睡みから目覚めた蓮瓔は、首を傾げて尋ねる。
「文? ……どなたから?」
枕元で水差しを取り替えていた侍女の瑾萱は、微笑みながら答えた。
「第一皇子殿下からですわ。配下の方が、先ほどいらしていましたの」
途端に飛び起きた蓮瓔は、彼女の内心を見透かしたような侍女の笑みに唇を尖らせつつ、いそいそと文を開いた。
流れるように美しい手跡は間違いなく、義兄の崇義のもの。彼は話を聞きつけ、自分も寝込んでいるのにも関わらず、わざわざ見舞いを寄越してくれたのだ。その心遣いが、何よりも嬉しい。差し入れられた頭痛薬に添えられた、彼女の好物の甜点心に、蓮瓔の表情がほのかに綻んだ。
(お義兄様……、ありがとう)
そっと胸に抱いた手紙には、「元気になったら食べるんだよ」の一文。蓮瓔は途端に元気を取り戻し、夕餉の粥の後にペロリとそれを平らげてしまった。十五の育ち盛りの身体には、粥と薬湯だけではとても足らない。
そして三日後には、今度は婚約者の世璋が姿を見せた。蓮瓔はすっかり回復していたのだが、彼は表情を曇らせこちらを見つめてくる。
「公主様、ご無事で何よりです。……ですが、今後はもう少し、周囲を警戒なさった方が良い。御身は尊い皇長女であられるのですから」
説教じみた物言いは母を思い出させ、思わず蓮瓔は閉口してしまった。
(言われなくても、もう十分に身に染みたわ……)
きっと彼も母同様、自分の付属物である婚約者の失態に憤っているのだろう。
いくら公主と駙馬と言えど、「女は男に貞順であるべき」という考えは変わらない。恥をかかされて、平然としていられる男は少ないだろうから。
普段、父の唱える諸国との積極外交や、硬直的な身分制度の段階的見直し、女性の学問の自由などに賛同的な彼だが、いざと言う時口にするのはやはり、こうしたことなのだ。
「……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
仏頂面でそう告げた蓮瓔に、世璋は苦笑で応じる。
「迷惑だなんて、とんでもない。ただ私は皇女様に、健やかであっていただきたいだけです」
「……気を付けますわ」
目線を逸らす蓮瓔を物言いたげに見つめ、世璋は徐に咳払いをした。作ったようなわざとらしい笑みで、彼は一段と声を張り上げる。
「──そういえば、先日、公主様が舞われているのを久方ぶりに見たと、殿下が仰っていましたよ。私も久しぶりに見てみたいものです」
蓮瓔はちらりと横目で婚約者を伺った。
幼い頃から兄・白晟の側近候補であり、後宮にもよく顔を見せた世璋とは、蓮瓔もよく遊んでもらったものだ。彼の奏でるぎこちない笛の音に合わせ、蓮瓔がたどたどしく舞い、兄が調子の外れた拍をとる。蓮瓔が動きを止めると皆で顔を見合わせ、腹が捩れるほどに笑った。
五年前に世璋が冠礼を迎えるまで、そうした日々は、ごく当たり前の日常だった。
何とも言えない感情を持て余しながら、蓮瓔は素っ気なく返す。
「……拙い技芸を見せびらかし、お恥ずかしい限りです」
世璋はただ、ゆったりと微笑んだままだ。
(本当に……、何を仰りたいの? この方は)
婚約者が何を考えているのか分からず、蓮瓔は気まずさから再び目を逸らした。
その時、部屋の外から宦官が声を掛けてくる。決められた面会の刻限が過ぎたのだろう。世璋は黙って頷き、立ち上がりざま蓮瓔に声をかけた。
「それでは、公主様。また」
「……ええ。本日はお見舞いを、ありがとうございました」
ぎこちない蓮瓔の応えにも、彼はただ優しく笑い、部屋を後にした。
母による宮中行事欠席の指示は、意外な人物によってすぐに終止符が打たれた。
「狡太監、これは……」
「陛下は蓮瓔公主様の舞姿をご覧になるのを、楽しみにしておられます。どうぞお受けいただきますよう」
父の側仕えの一人である侍奉局の次席宦官・狡が差し出したのは、父の私印のある直筆の文だった。そこには、「来たる秋の観月宴で月の女神に奉納する舞を、蓮瓔に任せる」と、力強く美しい手跡で記されている。
蓮瓔は震える手で父の文を持ち、何度も何度もその文面を目で追った。
(どうしよう……! ついに、お父様に任せていただけた……!)
中秋の名月を愛でるこの宴は、かつては数多ある宮中行事の一つに過ぎなかった。だが二十年ほど前、先帝が隣国の特使の参席を許し、娘の琴華公主に舞を披露させたことから、現在では外交などのための重要な行事と認識されている。舞の主役も後宮歌妓ではなく、舞が得意な后妃や皇女が務めるのが慣例となっていた。
その役割を担うことを、父が蓮瓔に望んでくれている。
蓮瓔は浮き足立ちそうになるのを懸命に堪え、平静を取り繕って応じた。
「……分かりました。ふつつか者ながら、精一杯努めますと、父皇様にお伝えください」
彼女の言葉に狡氏は微笑んで頷き、静々とした足取りで蓮瓔の部屋を出て行く。
その足音が聞こえなくなるよりも早く、蓮瓔は、脇に控えていた侍女たちに矢継ぎ早に指示を下した。
「観月宴まで二月しかないわ。急ぎ、司技労の長と、打ち合わせの時間を設けて。司衣労の長も同席させて、衣装も一緒に考えてしまいましょう。……昨年の舞い手は姚妃だったわね? 話を聞きたいの、私の部屋に呼んでちょうだい」
大役を命じられた主を、侍女たちは誇らしげに見上げている。きらきらと輝く幾対もの瞳が、蓮瓔の心を更に浮き立たせた。
「承知しました、公主様!」
「誰か、忍妃の宮に文を──」
声を揃えて返事をし、部屋を飛び出していく侍女たちを、蓮瓔は目を細めて見送った。
だが、そんな蓮瓔の天にも登る気持ちは瞬く間に、地の底に叩き落とされた。




