四.泡沫の温もり
(昭瓊……、昭瓊。どうしたの? 苦しいの?)
青ざめた表情の女の顔が大写しになり、蓮瓔は思わず目を細めていた。
──これは、夢だ。
蓮瓔を本名の「昭瓊」で呼ぶ女は、この世でただ一人、母しかいない。でも、母は、蓮瓔のためにこれほど動揺したりしない。彼女を案じて、泣きそうな顔をすることなど。
記憶に残る一番古い母の顔は、蓮瓔が六歳の頃のものだ。母は一切の表情を消し、蓮瓔と、父の腕の中で眠る赤子の昭瑛を、交互に見つめていた。
(あの日から母后様は一度も、私に微笑みかけることなどなかった……)
「……公主様? 気が付かれましたか?」
案じるような声音──母よりもずっと若い女の声──に、蓮瓔はうっすらと目を開ける。木槌で強か殴られているような不快な頭痛に顔を顰めていると、目の下を隈で真っ黒にした筆頭侍女が、まくし立てるように言った。
「お加減はいかがですか? ああ、まだお顔の色が……。医官が『目覚められたらこれを飲むように』と申しておりましたが、お身体は起こせますか? 失礼ながら私が……」
「……待ってちょうだい、瑾萱。私は……」
蓮瓔の筓礼後に筆頭に抜擢された、まだ若いその侍女は、蓮瓔が言葉を発したことに安堵しているようだ。目を潤ませながら、彼女は言い募る。
「昨夜の宴で、公主様は極めて度数の高いお酒を誤って口にされ、昏倒なされたのです。──まったく、信じられません。誰かが酒をすり替えたと……」
(酒……?)
蓮瓔は一瞬戸惑ったが、今も感じる頭痛や胸のむかつきは、確かに酒によるものだと言われれば納得がいく。蓮瓔は未だ覚束無い身体を起こそうとして、しかしすぐに枕に頭を落とした。
「公主様!」
慌てた瑾萱に身体を支えられ、蓮瓔は恐る恐る頭を浮かせた。彼女の差し出す杯に口をつけ、喉を通過する何とも言えない苦い液体に眉根を寄せる。
「……」
「我慢なさってください。吐き気を抑える薬です」
苦味と甘味、しょっぱさの混ざった絶妙に不味い液体を四苦八苦しながら飲み下すと、心做しか不調が和らいだ気がした。蓮瓔は再び寝台に横たわり、ぼんやりと天井を見上げる。
蓮瓔が初めて酒精を口にした日の翌日。話を聞いた義兄の崇義が、苦笑して言ったものだった。
『瓊瓊も、もうそんな年なのか……。いや、もう蓮瓔と呼ばないといけないね。身体に合わない強い酒を無理に飲めば、生命が危うくなる。気を付けるんだよ』
昨夜の宴で酒類を用意した司食労の女官や、あの場で蓮瓔の給仕を担当した侍女は、すり替えの罪を懸命に否定したという。けれど、警戒を怠、皇女たる蓮瓔を危険に晒し、恥をかかせた罪は重い。両名とも即日、外廷の地浄付きに降格を命じられた。
地浄は、宮中の苦役を担う「宦官の墓場」。そこに飛ばされることは、社会的な死を意味する。
蓮瓔はきつく目を瞑った。
先ほどの不味い薬のお陰で多少ましになったが、頭痛と嘔気は尚もしつこく、蓮瓔を苛み続けた。寝台から動けずにいる彼女を、瑾萱は付きっきりで看病してくれている。
昼もかなり過ぎ、蓮瓔がようやく身を起こして、粥を口に出来るようになった頃。別の侍女が、部屋の外から瑾萱を呼んだ。
「皇女様、失礼いたします。瑾萱様、ご相談が……」
「……どうしたの?」
瑾萱が素早く身を翻して、扉に向かう。彼女はしばらく部屋の外で話をしていたようだが、やがて苦虫を噛み潰したような顔で戻ってきた。
「公主様。昭瑛皇女様が、お見舞いにいらしたと……」
侍女が義妹の名を口にした瞬間、蓮瓔の顔から表情が消えた。
今、最も会いたくない人間の一人であるその名に、蓮瓔は反射的に眉根を寄せる。その顔を見た瑾萱は、何とも言えない表情を浮かべた。
昭瑛は、父の皇太子妃だった朱 玲穎の娘だ。後宮を追われて間もなく懐妊が発覚した朱氏は、市井で彼女を産んだ。
(あの子が宮城に来た日のことは、今でも覚えている……)
生後すぐに朱氏と引き離され、宮城に連れてこられた昭瑛は、父の命で皇后・魯氏に育てられることになった。母は黙って虹翔殿に迎え入れたが、比例するように、蓮瓔に対する態度は日に日に冷たさを増していった。
夢に見た、あの日の光景。今も、父の愛を深く受ける義妹。
蓮瓔は奥歯を噛み締め、声を絞り出した。
「会いたくない。……具合が悪いの」
「公主様……」
労わるような声で瑾萱が呟き、頷いて再び部屋を出て行った。蓮瓔は一人、奥歯を噛み締めた。
そのまま蓮瓔はうとうとと微睡んでいたが、すぐに先ほどの侍女が戻ってきて、再び瑾萱を呼びつけた。戸惑うように応じる筆頭侍女の声に、扉の向こうにいる人物を想像し、蓮瓔は思わず声を荒らげる。
「しつこいわよ、昭瑛! 具合が悪いと──」
「──なんですか、声を荒らげて。品のない」
冷ややかな声に耳を打たれ、蓮瓔は息を詰めて身を起こした。
開かれた扉の向こう、青ざめた表情の瑾萱の脇から姿を見せたのは、母后だった。自殿の中でも隙なく身を整え、鳳冠を被った母は、当然のような顔で部屋に入ってくる。
そして寝台の脇に立ち、圧するように蓮瓔を見下ろした。
「皇長女としての自覚に、欠けているのではなくて? 昨夜も衆目の中、あのような失態を晒して」
「……申し訳ございません」
『──大丈夫? 昭瓊』
心配そうにこちらを覗き込む母の幻が、脳裏を過ぎる。蓮瓔は咄嗟に、母から目線を逸らした。
けれど母はいまだ収まらないのか、淡々と小言を続ける。
「口にするものには注意なさいと、何度も言ったでしょう。酒瓶が新しくなっていたにも関わらず、無警戒に一息に飲むなんて。お前はどうして、そう迂闊なのです。……先日は、琴にも何か仕掛けられていたそうね」
「……」
言葉を返せないでいる蓮瓔に不満げに鼻を鳴らし、母は肩を竦めて踵を返した。けれど、二、三歩して、ふと足を止めてこちらを振り返る。
母子の目が合い、母はすっと目を細めて言った。
「……ほとぼりが冷めるまで、宮中行事には顔を出さなくて良いわ。また恥をかかされたら、たまったものではない」
容赦のない母の言葉に、蓮瓔は全身が冷たくなるのを感じていた。
母のこうした言動には慣れている。
それなのに、やけに堪えるのは、身体が弱っているせいだろうか。蓮瓔を慈しむ母の幻影を、夢に見たせいだろうか。
(そう。あれは、ただの夢……)
「──かしこまりました、母后様。申し訳ありませんでした」
呟くように答えた蓮瓔を一瞥し、母は今度こそ黙って部屋を出ていった。




