一.皇長女の憂鬱
最後の一音の余韻が消えた刹那、うっとりと目を閉じていた女性たちが一斉に喝采の声を上げた。
「素晴らしいですわ、蓮瓔様!」
わざとらしいほどに大声で褒めそやす筆頭侍女に、皇長女・蘇 蓮瓔は鷹揚に頷いてみせた。その侍女に追随するように、公主付きとして後宮に仕える女性たちが、次々に感嘆の言葉を漏らす。
「秋の夕暮れの情景が、目に浮かぶようでしたわ……」
「十五歳にしてこの難曲を弾きこなされるなんて、さすがは公主様です!」
「『芸事の女神の寵児』と謳われる、琴華長公主様に勝るとも劣らずの……」
不意に不穏な空気が流れ、侍女たちが顔色を悪くする。
彼女たちのうちの一人が不自然に口を噤んだのは、蓮瓔が顔を顰めて、彼女を睨んだ為だろう。漂う気まずげな沈黙に溜め息をつき、蓮瓔は立ち上がった。
「……少し、疲れたわ。庭を散策したいの」
慌てて腰を上げた侍女たちに肩を竦め、蓮瓔はスタスタと歩き出した。そこは蓮瓔の私室に並ぶ稽古部屋で、外までは大きく廊下を回り込む必要があった。侍女たちは口々に蓮瓔を呼びながら、後に続く。
(まったく、叔母様の名前を不用意に出さないでと、あれほど言っているのに。母后様に聞かれたら……)
父の異母妹を、母は昔から苦手としていた。神経質で生真面目な母は、諸芸に秀で、周囲の誰からも一目置かれる、明るく爛漫な叔母とは決定的に合わないようだ。ただでさえ関心の薄い娘が、嫌厭する義妹に比されていると知れば、母はますます頑なになるたろう。
冠礼の儀の後、後宮を出る皇子とは違い、皇女は筓礼を終えたあとも、降嫁するまで母と共に暮らすしかない。これ以上、気まずくなるのは御免だった。
名君・光啓帝の長女、皇后の娘。この世で一番恵まれた女性である蓮瓔は、いつも不機嫌そうに顔を顰めていた。
光啓九年、初夏。
現帝の就任と共に積極外交に舵を切った大国・礼は、賢帝と名高い王の導きにより、安定した政情を保っていた。頻発する天災に起因する食糧不足は、相変わらず頭痛の種ではあるが、荒れた大地でも育つ穀物の成育研究に、光啓帝は熱心に取り組んでいる。
蓮瓔の父である光啓帝はかつて、伝統と規則を重んじる保守派だった。そんな父を変えたのは、腹に一物も二物も抱えた官僚たちという「現実」と、学問好きだったかつての寵妃だと言われている。
(あんな女の、何が良かったというの──)
蓮瓔は苦い表情で、唇を噛む。
女性の嗜みと言えば伝統的に、楽器や舞、詩作や絵画などの芸術や、裁縫などの家事を指す。父の寵妃であった女性は、そうした能力にはまったく恵まれていなかった。
だが、父がそんな女性を寵愛したこともあって、世間の先進的な女性は、学問にも熱心に取り組むようになった。そして、それを後押ししているのが、叔母の琴華長公主だった。
蓮瓔にとって、叔母は尊崇する芸事の師だ。けれども、まるで朱氏──今は沈氏となったが──を擁護するような行動だけは、どうしても受け入れられない。
(あの女のせいで、義兄様たちや私がどんな目に遭ったか。父皇様も叔母様も、忘れてしまったというの?)
苛々と物思いに耽りながら歩いていた蓮瓔は、廊下の曲がり角から飛び出してきた小柄な影に気付かなかった。
「きゃ……っ」
「痛っ!」
ぶつかった拍子に、何か硬いものが脇腹に当たり、蓮瓔は咄嗟に眉根を寄せた。
前屈みになりながら目線を落とすと、そこには、幼いながらも整った顔立ちの少女が座り込んでいた。彼女の周囲には、見たこともない書籍があちこちに散らばっている。
蓮瓔は露骨に舌打ちし、その少女と距離を取りながら言った。
「ちょっと、昭瑛! また廊下を走ってきたの? 淑女たるもの、足取りにも気を付けなさいと、いつも言っているでしょう!」
「も……申し訳ございません、お義姉様……」
おずおずと頭を下げたのは、異母妹の昭瑛だった。九歳という年齢に見合わない、完璧すぎて冷たくすら見える整った顔立ちに、そこだけ父譲りのやや三白眼気味の澄んだ瞳。
蓮瓔の大嫌いなあの女によく似ているという、大嫌いな義妹だ。
蓮瓔はじっと、足下の書籍を睨み付ける。彼女にはまるで理解出来ない、いかにも古めかしい作りの本ばかりだった。どうせまた、父の許可を得て、外廷の典部の書庫から借りてきたものだろう。
おろおろと声を掛けてくる背後の侍女たちには答えず、蓮瓔は眉間に皺を寄せ、冷えた声で義妹に言い放った。
「いつまで、そんなところに座り込んでるのよ。見苦しい。さっさと片付けなさい」
慌てて立ち上がる昭瑛を尻目に、蓮瓔は再び歩き出した。立ち竦んでいた蓮瓔の侍女たちが、小走りに彼女の後を追ってくる。
何もかもが気に入らない。思慮の浅い侍女たちも、おどおどしてばかりの六つ下の義妹も。皇太子である兄のことしか眼中にない母も、学問馬鹿の義妹を可愛がる父も。
どれほど女性の嗜みごとを極めようと、両親に見向きもされない自分自身も。
(大っ嫌い……)
蓮瓔は袖の中で拳を握り締め、殊更に背筋を伸ばして歩き続けた。




