二.婚約者と家族
「……公主?」
正面から顔を覗き込まれ、蓮瓔は咄嗟に息を飲み、上体を仰け反らせた。
間近で目を瞬かせているのは、李 世璋──蓮瓔の婚約者だった。実兄・白晟の幼友達で、蓮瓔とも昔からの顔馴染みである。青天の霹靂で婚約が結ばれたのは先月だったが、彼は変わらず気安い態度で蓮瓔に接してきていた。
「……近うございます、李公子」
「はは、そんなに嫌そうな顔をなさらずとも」
そう呟いた蓮瓔が嫌そうに顔を背けても、彼はカラカラと笑って受け流すばかり。蓮瓔は盛大に溜め息を零した。
世璋は、蓮瓔たちの母と同じ、趙家派の重鎮・李家の跡取りだ。李は朝堂で保守寄りの中立派を貫く、思慮深い一族だった。そんな家にあるまじく、自由闊達で先進的で人懐っこい彼が、蓮瓔は昔から苦手だった。
どうせ相手も蓮瓔のことなど、「友人にして、将来の主君の妹」としか見ていないだろう。現に、婚約しても彼はまるで変わらず、蓮瓔に対する態度も、きょうだいに対するもののようなままだった。今も蓮瓔が嫌がるのを分かっていて、意図的に距離を詰めてくる。
にこにこと笑って受け流そうとする世璋に、蓮瓔は口酸っぱく言い聞かせた。
「婚姻の儀が終わるまでは、適切な距離を保つべきです。私は皇長女、女性たちの手本であらねばならないのです」
いくら侍女の立ち会いがあるとはいえ、未婚の男女が同じ部屋で親密に近付くなど、淑女としては有り得ない。そんな蓮瓔の考えを知っていながら、世璋は敢えてそうした振る舞いを続けるのだ。
兄の一つ上、十九歳とは思えないほどの軽さに、蓮瓔は内心で頭を抱えることを止められなかった。けれど彼は、意に介さず飄々と嘯く。
「素晴らしいお心がけですね、公主様。私も御身をお支えする駙馬になる者として、精進せねば」
ともすれば浮ついて聞こえるこんな台詞も嫌味にならないのは、さすが李家の嫡男と言うべきか。世璋は照れる様子もなく、さらりと微笑む。
彼はこの若さで英玄試の第二試験を合格し、翌春の最終試験も及第間違いないと言われている。蓮瓔との婚姻の儀は、彼の合格を見越して翌春の吉日を予定していた。
(衣装や持参品の準備、伴う侍女の選別に、何より花嫁修行。……私だって、暇じゃないのよ)
馬鹿馬鹿しいと膨れる蓮瓔を、世璋はしばし含み笑いで見詰めていた。だが、やがて彼は恭しく頭を下げ、告げる。
「……名残惜しいですが、そろそろお暇します。また、近いうちに」
「──ええ、また」
蓮瓔の胸を過ぎったのは、彼がお世辞で口にした名残惜しさではなく、「やっと解放された」という安堵だった。完璧な淑女の礼で見送る蓮瓔を一揖し、世璋は案内の宦官に連れられて部屋を去って行く。
蓮瓔は大きく溜め息をついた。
祖父母である太上皇・皇太后に挨拶を済ませ、蓮瓔は離宮に足を向けた。
先帝夫妻の住まいの離れには、彼女の義兄の崇義が長年暮らしている。二十歳の皇長子ではあるが、生来身体が弱く、実弟が成人と共に任地に赴いた後も、彼は央廷での生活を許されていた。
先導しようとする宦官を制し、勝手知ったる足取りで離宮の寝室に向かった蓮瓔は、開けた扉の隙間から顔を覗かせて呼び掛けた。
「崇義お義兄様、入るわよ」
「どうぞ」
笙の音のように澄んだ声で応じ、崇義は寝台から身体を起こした。駆け寄った蓮瓔は、義兄の背を支えながら問い掛ける。
「お加減はどう? またしばらく寝付いておられたと聞いたわ」
「だいぶ落ち着いたよ。いつもすまないね」
柳の眉を下げ、義兄は苦笑した。
幼い頃から体質的に食べられない物が多く、線の細い彼は今も病気がちで、床についていることが多い。そのせいか色も白く、流麗な顔立ちと相まって、中性的な魅力を持つ義兄だ。病床の無聊を慰めるため歌や芝居に精通し、書や詩の腕前にも秀でている。諸芸を嗜む蓮瓔にとって、崇義は心穏やかに過ごせる親しい兄妹だった。
隅に控えていた侍女が差し出した湯呑みをそそくさと飲み干し、蓮瓔はおもむろに立ち上がる。
「──ねぇ、義兄様。先日助言いただいた『春鶯戯』の舞、少し動きを修正してみたの。見てくださらない?」
崇義は微かに目を瞠り、すぐに柔らかく頷いた。蓮瓔は喜色を浮かべ、いそいそと寝台から距離を取り、構えを取る。義兄の視線を受けながら呼吸を整え、彼女はすっと一歩を踏み出した。
春鶯戯はその名の通り、春風に遊ぶ鶯の動きや鳴き声を表現した舞だ。空を舞う鳥は休みなく羽ばたくため、軽やかで簡単そうに見えるが負荷は大きい。下手な舞い手では、途中で息切れを起こしてしまうほどだ。
義兄の崇義は身体が弱いからこそ、無駄のない身体の動かし方を心がけている。彼の教えは、この舞の習得に大いに参考になった。
鶯は可憐に舞い、自由に歌う。舞台の端から端までを駆け巡るが、ばたばたと品のない動きになってはならない。纏う領巾や襖の袖、裙の裾の動きすらも制御し、最も優雅に見えるように考える必要がある。最後は枝に休む鶯を模して、観客に背を向けて床に膝を着くのだが、これは吹き出した汗や上がった息を隠すための振りだろう。
絶え間なくたなびいていた領巾が、やがて地にふわりと落ちると、崇義は手を叩いて褒め讃えてくれた。蓮瓔は頬を紅潮させ、背後を振り向く。そうして彼女は、息を詰めた。
「──白晟、お兄様」
寝台に半身を起こした義兄の脇にはいつの間にか、実兄の白晟が立っていた。蓮瓔は途端に、口をへの字に結ぶ。
「いらしてたの」
「……お前が、舞に集中していたから。声を出さぬよう、義兄上に助言された」
抑えた声音の主は、同母兄にして皇太子の白晟だった。
央廷の皇太子宮に暮らす兄もまた、義兄の崇義を慕い、しょっちゅう顔を見せに来ているという。皇太子としての公務、将来の皇帝としての膨大な学問と研鑽、更には迎えたばかりの皇太子正妃との時間など、すべきことは山のようにあるだろうに。
せっかくの慕わしい義兄との時間に入り込まれ、蓮瓔は眉間に皺を寄せ、実兄を見上げた。
「公務はよろしいんですの?」
「ああ。父皇にも了承を得ている。……お前は?」
母の許可は取っているのか、という意味だろう。蓮瓔にも連日、寸刻みで手習いや、父の妃たちとの茶会の予定が組まれている。閉口する蓮瓔に、白晟は小さく息をついた。
「あまり、母后を困らせるな」
「……っ、分かっていますわ」
思わずかっとなって、蓮瓔は声を荒らげた。彼女に帯同してい筆跡侍女が、その剣幕にビクリと肩を揺らす。
蓮瓔と母の仲は良くない。幼い頃は可愛がってもらった記憶もあるが、物心着く頃には冷たく当たられるようになった。母の関心はいつも、実兄の皇太子としての評判にのみ向けられている。
気色ばんだ蓮瓔を宥めるように、長兄の崇義が淡く微笑んだ。
「白晟。蓮瓔は、私を案じて見舞いに来てくれたんだ。優しい妹を責めないでやってくれ。……春鶯戯、見事だったろう?」
「別に、責めたわけでは……」
学問の虫で、気難しいところのある兄も、崇義の前では借りてきた猫のように大人しくなる。密かに溜飲を下げた蓮瓔に、崇義はこっそりと片目を瞑ってみせた。
義兄は優しい。ままならぬ身体、幼くして母と別れ、義祖母に育てられた身の上を意にも介さず、皇長子としてきょうだい全員を慈しんでくれる。
(──嫁ぐなら、李公子のような軽薄な方じゃなくて、お義兄様のような方が良かった……)
そんなことを考えてしまい、蓮瓔ははたと目を見開く。
不思議そうに首を傾げた崇義に、蓮瓔は誤魔化すように微笑んて首を振った。




