十五.不穏
あの夜以降、蓮瓔は衝撃の連続のあまり、体調を崩して数日寝込んでいた。
父も、もちろん母も、見舞いにくることはなかった。それでも蓮瓔の心は、奇妙に凪いでいる。自室で療養していた数日で起こった出来事を、彼女は実兄である白晟からの文で知った。
姚忍妃は頑迷に罪を認めず、口を閉ざし続けているという。だが、皇長女暗殺の現場を、他ならぬ皇帝に見咎められたのだ。言い逃れは、不可能だった。今は、配下の宦官や侍女に犯させた余罪について、詳細な捜査が続けられている。そのうちの一つにして最も重い罪、皇太子暗殺未遂についての証拠が出れば、姚家は族滅を免れられないだろう。
兄の愛馬に毒を盛った蓮瓔の筆頭侍女・瑾萱は、獄中で死亡しているのが見つかった。服毒死だったそうだ。彼女は最後まで、蓮瓔からの指示であったと主張し続けた。
それらを生真面目な筆致で記した文は、兄らしい、ぎこちない気遣いの一文で締められていた。もう幾度も目を通した兄からの文を畳み、蓮瓔はぐったりと寝台に身体を預ける。
他ならぬ父帝が姚妃を告発したことによって、蓮瓔の無実は確実とされたが、それでも無責任な噂は消えない。蓮瓔付きの侍女たちの態度も、ぎこちないままだ。何より、当たり前に傍にいた侍女頭の裏切りは、蓮瓔に何度も悪夢を見させた。
あの夜の父の腕の暖かさも、その悪夢を完全には晴らしてくれない。
(崇義お義兄様に、会いたい……)
蓮瓔は胸の内でそう呟き、虚ろな目で天井を見上げた。部屋に差し込む陽は少しずつ赤くなり、室内を重苦しい朱に染めていく。
鬱屈した感情を持て余し、蓮瓔が天蓋付きの大きな寝台で寝返りを打った時だった。扉越しに、静かな声が響いた。
「蓮瓔……。起きている?」
蓮瓔は文字通り飛び起きる。その麗しい声は、先ほど思い浮かべた義兄・崇義のものに他ならなかった。
蓮瓔は暫時、自分が夜着から着替えておらず化粧もしていないことに躊躇うが、次の刹那には扉に飛び付いていた。
「っ……、お義兄様!」
もどかしく開いた扉の先には、慕わしい義兄が穏やかに微笑んで立っている。目を潤ませた蓮瓔の頭をさらりと撫で、崇義はほっそりとした身体を扉の隙間に滑り込ませた。驚く蓮瓔に、彼は小さく笑って言った。
「……父皇による調査が終わるまで、君の見舞いは禁じられているんだ。文のやり取りは問題ないんだけど、どうしても君の無事な姿を一目見たくて」
「義兄様……」
労りに満ちたその声に、蓮瓔は瞳を潤ませた。自らの無格好を詫び、侍女に茶を命じようとする彼女を、崇義はそっと制する。
「……侍女に聞かれると良くない話題になるかも知れない。悪いけれど、彼女たちには、外に出てもらっていても良いかな?」
蓮瓔は目を瞬かせた。
確かに、父から箝口令を敷かれているような内容もある。義兄の言うことも当然だと、彼女は素直に侍女たちを下がらせた。
部屋に二人きりとなり、「自分が義兄をもてなさなくては」と張り切る蓮瓔だったが、崇義は「まだ寝ていないと」と譲らない。渋々寝台に戻った蓮瓔に苦笑し、義兄は近くの椅子に腰掛けた。
「具合はどう?」
気遣う言葉に、蓮瓔は小さく首を傾げる。心配なのは義兄の方だった。普段よりも顔色が優れず、心労を掛けてしまったのではないかと不安になる。
「おかげさまで、もうすっかり。お義兄様こそ、大丈夫なの?」
「うん。しばらく体調を崩してたけど、昨日ぐらいから持ち直してね。今は元気だよ」
いつも通りの柔らかな言葉が、乾いた大地を潤す慈雨のように、心に染み入ってくる。だが、その笑顔はどこか儚く透き通っていて、蓮瓔はおずおずと手を伸ばし、彼の衣の裾を掴んだ。そうしていなければ、義兄の姿が消えてしまいそうな気がしたからだ。
崇義はわずかに目を瞠ったあと、穏やかに微笑んだ。
「……寝込んでいる間に、父皇の通達を聞いたよ。大変だったね」
まさか、あの姚忍妃が……と崇義は表情を雲らせた。
義兄の沈んだ声に、蓮瓔もキュッと唇を噛み締める。あの夜ぶつけられた憎悪が、嫌悪が胸に蘇り、胸がひきつれたように痛んだ。
彼女は俯き、小さく呟く。
「あんなにも、憎まれていたなんて……。想像もしていなかった」
「……無理もないよ。軽く話に聞いた程度だけど、めちゃくちゃな逆恨みだ」
宥めるように、崇義は蓮瓔の頬に薄い手のひらを添えた。蓮瓔はそっと目を伏せる。
観月宴の準備に行き詰まっていた時、彼女に向けられた言葉に、振る舞いに、救われたのは事実だった。目の前であれほどの悪意を叩き付けられながらも、彼女を憎みきれない自分がいる。
ポツポツと零す蓮瓔を、崇義は暖かな目で見守ってくれる。「蓮瓔は良い子だね」と、あやすような言葉に、蓮瓔はくすぐったくなって目を細めた。
しばし笑顔を浮かべていた崇義だったが、ふと彼はもの言いたげに視線を逸らした。
「ても……、やっぱり、私は許すことが出来ないかな。父皇を裏切って、蓮瓔を傷付けて。毒の刀なんて、もし父や君の身体を掠めでもしていたら……」
「……え?」
ドクリと鼓動が跳ねる。
蓮瓔は瞠目し、寝台の上で身を強ばらせた。
(何故……?)
何故、刀のことを義兄が知っているのだろう。
父帝はそのことを口外しないよう、蓮瓔たちに命じていたはずなのに。




