十四.漆黒の世界に響く雷鳴
ずっとずっと、母后に似た蓮瓔の顔を失意に歪ませたかった。
姚妃はそう告げて、昏く笑う。蓮瓔は全身を雷に打たれたような衝撃を覚え、呆然と呟いた。
「どう……して……」
「目障りなのよ。魯 愛凌も、貴女も。皇后がいる限り、私はどれほど陛下に尽くしても四妃止まり。──おまけに、あの女には皇太子と皇長女の母がいるのに、私には何もない」
女徳に優れ、皇后を熱心に慕う上級妃の仮面を脱ぎ捨て、姚忍妃は憎々しげに拳を握り締めた。夜目にも鮮やかなほど、その手は力が篭もりすぎて震えている。
(私たちはずっと、この人に憎まれていた……)
姚家と魯家は、同じ派閥に属する名家だ。母と彼女は一回り近く歳が離れているものの、二人が比較される場面は多かったのだろう。一方は皇家の跡取りを産んで皇后となり、もう一方は膨らまない胎を虚しく見つめ続けた。
どちらも皇帝の寵が篤いとは言えないものの、魯 愛凌の頭上には眩く輝く鳳冠がある。それは皇太子正妃だった身分と、健康に育った男児の存在の賜物だった。
姚妃は澱んだ瞳で蓮瓔を睨み付け、吐き捨てるように言った。
「……美貌も、才も、私の方が上。琴華長公主が後宮を出たあと、女の嗜みである芸事に於いて、誰よりも陛下の信を受けたのは、この私なの。もちろん、頭でっかちの周妃や、頭の軽い謝妃なんて、話にもならない。──それなのに」
子も成せず、同じ趙家派の皇后・魯氏が居る限り、姚氏の手に届くのは、妾の最高位たる雅妃だけ。名家の才ある令嬢としての自尊心が、それでは許さなかったのか。
(周囲に何を言われようと気にせず、自分らしく在れば良い。──そう思えるほど、私たち皆が強いわけじゃない)
少しずつ新しい価値観が浸透し始めたとはいえ、長い時代を経て根付いた伝統と儒の教えは、あまりにも強固だった。誰よりもその伝統に則った淑女であろうと努力し、けれど望むものは何一つ手に入らない。そのもどかしさと屈辱は、蓮瓔にも覚えがある。
それゆえに、姚妃は蓮瓔を憎んだ。彼女が持たぬもの全てを持つ者に良く似た女を。彼女が得られなかったものの象徴である、娘を。
(姚妃……)
「皇太子の命を狙って、貴女を犯人に仕立て上げる。二十年前の、澄蘭公主の事件を参考にしたの。子がそんな事件を起こせば、あの女も無事では済まされない。……でも、上手くいかなかった。ならせめて貴女には、冷宮で屈辱と絶望を味わい尽くさせて、殺そうと思った」
これほど楽しげに全てを暴露するのも、蓮瓔の絶望をより深めるためだろうか。
地にへたり込んだまま沈黙する蓮瓔を冷めた目で一瞥し、姚妃は事もなげに宦官に命じた。
「一撃で仕留めては駄目よ。最大限に苦しめて。──やっておしまいなさい」
残酷な命令を受けた宦官が、茫漠とした表情で蓮瓔を見下ろした。彼は躊躇うことなく刃を振り上げ、一歩、また一歩と蓮瓔に迫って来る。
月光を弾いて禍々しく輝く直刃を、蓮瓔は呆然と見上げた。
(どうして……、姚忍妃……)
通じ合えたと思っていた。互いに満たされない者同士、理解し合えたかも知れなかった。
蓮瓔は痺れたような頭で、そんな埒の明かないことを考える。親しげに接してくれた彼女の笑顔が脳裏を過ぎり、悪意に満ちた彼女の告白を未だ受け止めきれずにいる。逃げなければと思うのに、足に根が生えたように動けない。
ギラリとした光を放つ刃が自分に向かって振り下ろされるのを、蓮瓔は為す術もなく見つめていた。あんなものに斬り付けられれば、どれほどの血が出るのだろうか。
ああ、でも。
(あれに斬られてしまえば、もう、楽になれる──)
誰にも愛されない悲しみも、惨めさも、誰にも愛されない虚しい自分も、全て捨ててしまえる。
不意に甘美な誘惑に囚われ、蓮瓔は唇を震わせた。
彼女を斬り捨てるよう命じた姚妃は、薄らと微笑みながら、固まったまま動かない蓮瓔を見下ろしていた。
毒をに濡れた刃が、真っ直ぐに蓮瓔に振り下ろされる。
「──下手人を捕らえよ!」
夜陰を切り裂くような鋭い声音が、突如冷宮の庭に轟いた。暗がりに五爪の龍が躍る。
息を飲む蓮瓔の視線の先で、漆黒の官服を纏った男たちが瞬く間に、刃を手にした宦官を取り囲んだ。瞬きの間に宦官は取り押さえられ、毒の刀も取り上げられる。姚妃が何かを叫びかけるが、それよりも早く、別方向から現れた黒衣の宦官集団が彼女を羽交い締めにした。
(玄以鋭と、影廠……?)
彼らは皇帝を支える両輪、官から成る玄以鋭と、宦官から成る影廠たちだった。普段は犬猿の仲である彼らが、一切の無駄のない動きを繰り広げている。彼らを指揮するのは、深黒の衣を凛然と身に付けた父帝。
蓮瓔は声も出せず、ただ父を見上げていた。
視線に気付いた父が、微かに蓮瓔に向かって頷いてみせる。だが、父は直ぐに冷ややかな面持ちに戻り、妾の一人に向き直った。
「他ならぬこの私の耳が、そなたの自白を聞き遂げた。……なんという愚かな真似を」
悪夢の中にいるような面持ちで父の言葉を聞いていた姚妃だったが、自分を捕らえる腕の持ち主に気付き、途端に喚き出した。
「……離しなさい! 宦官ごときが、私に触れるなど……っ」
「──連れて行け。逃げられぬように、全員でしっかりと拘束してな」
敢えて挑発するような父帝の物言いに、姚忍妃は言葉にならない金切り声を上げる。だが彼女はやがて、無抵抗な主席宦官と共に、問答無用で連れ去られて行った。
それを横目で見送った父は身を屈め、がっしりとした逞しい腕を蓮瓔に差し伸べる。蓮瓔はおずおずと、その手と、その腕が続く肩先、龍顔へと目線を移した。
久しぶりに間近で見る父の眼差しは、ただひたすらに、穏やかだった。
「──立てるか? 瓊瓊よ」
それは幼い頃の蓮瓔の愛称──名の昭瓊にちなんだ呼び名だった。朧気な記憶の中、その愛称を口にして微笑む父母の姿が見えた気がして、蓮瓔はくしゃりと顔を歪める。
「おと……う、さま」
「端女の一人に、影廠の子飼いの女官を忍ばせていた。……間に合って良かった」
安堵したようにそう呟く父の腕に力強く抱かれ、蓮瓔は声を放って泣き出した。




