十三.刃
「……ん」
身体の痛みと喉の強ばりに、蓮瓔の意識はふと引き戻された。小さく呟きを漏らし、彼女はのろのろと身を起こす。
(私ったら……。こんなところで眠ってしまっていたのね)
窓辺に腰掛けたまま物思いに耽り、気付けばそのまま眠ってしまっていたようだ。秋の夜風に当たり、無理な姿勢を続けたせいで、あちこちが痛む。
苦笑して軽く咳払いをした蓮瓔は、──不意に覚えた違和感に動きを止めた。
(──今、何か、風が流れたような……)
咄嗟に背後を振り返り、蓮瓔は息を飲む。
微かな月光に照らされた、自分以外に誰もいないはずの部屋。
だが月影に隠れるようにして、全身を黒で覆った人間が刀を頭上で構え、今まさに振り下ろさんとしていた。
「ひ……っ」
悲鳴を上げ地面に転がったのと、刀が振り下ろされたのはほぼ同時。鋭い直刃は虚しく空を切り、古びた椅子の背に半ば食い込んだ。
蓮瓔は慌てて身を起こし、顔面を蒼白にして駆け出す。刀を引くのに手間取る下手人の横をすり抜け、彼女は冷宮の一室を飛び出した。
(何なの、誰なの──!?)
幾度も転びかけながら、蓮瓔はでたらめに駆け回る。ようやく刀を取り外せたのか、先程の黒衣の人物が追ってくる気配を感じた。悲鳴を上げようにも、引き攣った喉は呼吸をするのに精一杯。蓮瓔はただ必死に、足を動かしていた。
(誰か……!)
無我夢中で駆け続け、いつのまにか前庭に降りていた蓮瓔の目の前でふと、第三の人影が揺らぐ。蓮瓔は恐怖に息を詰めた。
その影は、ゆらりと月の光の中に姿を現した。
「……なんだぁ? まさか、脱走する気か?」
締まりのない濁声と、浮腫の目立つ不健康な顔付き。それは、蓮瓔が蟄居を命じられた冷宮の棟付き、監視を命じられた宦官だった。呂律が回らず、全身に異臭を漂わせており、しこたま酒を飲んでいたことが分かる。
蓮瓔は顔を顰めつつ、ようやく声を張り上げた。
「助けて……っ」
「はあ? あんた、何、を……」
訝しげな酒焼け声が、不自然に途切れる。
茂みから飛び出してきた先程の影が、手にした得物を振りかぶり、無防備な宦官の背中を切りつけたのだ。宦官の饐えた体臭が、瞬く間に金臭いにおいに掻き消された。
(ああ……っ!)
「──ぎゃあぁぁぁッ!!」
痛みと驚きで絶叫した宦官は、──不意に目を瞠り、自らの背に両手を伸ばした。全身が壊れたように震え始め、その口元から血泡が吹きこぼれる。
彼は蓮瓔の眼前で崩れ落ち、不自然なほどにのたうち回った。
「──あ、が、ァ、ぐぁァァ……っ」
耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴と共に、宦官はビクビクと全身を跳ねさせる。呆然と見守ることしか出来ず、蓮瓔の背を冷たい汗が流れ落ちた。
(まさか、毒……?)
彼を斬りつけた人影が、どす黒い血でぬらりと光る刀身を掲げるのに気付き、蓮瓔は恐怖に顔を引き攣らせた。頭巾で顔を隠した相手の、唯一見えている口元がニタリと歪む。
次はお前だと、言わんばかりに。
(殺される……!)
蓮瓔は逃げ場を探して、再び駆け出した。だが、裸足の爪先が裙の裾を踏みつけて、無様に地面に転がってしまう。
「あ……っ」
強かに膝を打ちつけ、彼女は恐怖に戦く眼差しで背後を振り返った。
刀を手にしたその人物が、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。
未だ血を滴らせる刀が大きく振りかぶられるのを見て、蓮瓔は固く目を瞑った。
「──何をしているの!?」
荒れ果てた庭に鋭い女性の声が響き渡り、蓮瓔は目を開いた。今にも刃を振り下ろそうとしていた影が、そろそろと背後を伺っているのが見える。
ここで聞くはずのない、聞き覚えのあるその声の主の名を、蓮瓔は呆然と呟いた。
「姚……妃……?」
月影に姿を表したのは、間違いなく父の妃、母の縁戚である、姚 寧琳だった。
何故か漆黒の宦官服──後宮の御庭番たる影廠の黒衣を纏った父の妃が、憤然とこちらを見ている。肩は上下し、呼吸も荒い。
蓮瓔は震える手を伸ばし、恐る恐る彼女に呼び掛ける。
「助けに……、来てくれたの……?」
苦境にあった蓮瓔を気遣い、親しく接してくれた女性を、疑う理由などなかった。姚妃は蓮瓔を真っ直ぐに見つめ、──唇を歪める。
「──まさか」
姚妃は吐き捨てるように言った。堂々と刀を持った人物の横に並び、高慢そうに鼻を鳴らす。
「憎いあの女の娘であるお前は、私の目の前で殺せと命じていたのよ。……まったく、こんな簡単に逃げられるなんて」
「……申し訳ございません」
小さく呟いて刀を握り直したのは、姚忍妃付きの宦官だ。観月宴の前、幾度も訪ねた彼女の殿舎で、しょっちゅう顔を合わせた相手。よく見れば彼も、姚妃と同じ制服を着ていた。
姚妃は常の穏やかで優しげな様子をかなぐり捨て、顎を上げて蔑むこちらを見下ろす。彼女の発した言葉を受け入れられず、蓮瓔は小さく首を振った。
姚忍妃は嬉しげに顔を歪め、歌うように言う。
「……ああ。ずっと、その顔が見たかった。策略を練り続けて孤立させ、私を信じさせた甲斐があったわ」




