閑話.皇太子と母
「──それでは、母后。私はそろそろ……」
「まだ良いでしょう? あんな恐ろしい目に遭ったんですもの、公務なんて……」
「そういう訳にも参りません。国内外から、重要な人間が集まっているのですから」
縋りつくような母の眼差しを振り切り、皇太子・白晟は立ち上がった。頭を下げ、そのまま強引に部屋を出る。
通い慣れた殿舎の廊下の片隅で、白晟は重い溜め息をついた。
妹が皇太子の殺害を指示した疑いで、冷宮に身を移された。
有り得ない話だった。無責任な放言をする者も多いが、父帝も白晟自身も、妹の無実を確信している。
蓮瓔は一本槍で、融通の利かない娘だ。密かに白晟に思うところがあったとすれば、こんな卑怯な手を使わず、自ら短刀を兄の腹に突き立てるだろう。そして、返す刀で自分の喉を突く。
彼女に冷宮での蟄居が命じられたのは、半分は宮城に集った面々に痛くもない腹を探らせないためで、残り半分は妹の身を守るためだった。具体的には、今回の事件を企んだ黒幕と、母の手から。
(何故母后は、こんなに変わってしまわれたのか……)
人一倍周囲の目を気にする母が、衆目の中、大声を上げて取り乱した。白晟が「理想的な皇太子」になることを熱望していたのに、公務も何もかも投げ出して、自分の傍に居てほしいと懇願している。冷宮に入れられた娘の存在など忘れ去っているような振る舞いに、白晟は困惑を禁じ得なかった。
白晟たちが幼い頃、母はあんな風ではなかった。
厳しく、堅苦しいところもあるが、愛情深い母だった。蓮瓔が朱家の企みに巻き込まれた際には付きっきりで看病し、子を守るためになりふり構わないような人だった。それなのに。
(どうすべきか……)
皇族としての体面を考えても、一刻も早く蓮瓔を解放してやりたい。だが、娘を目の前にした母が、果たして平静でいられるのだろうか。
これ以上の醜聞は、避けなければならない。
(……すまない、蓮瓔)
妹の気丈さに賭けるしかない。所詮、皇太子でしかない白晟に、父の決定を覆すことは出来なかった。
後宮の遥か北、固く閉ざされた冷宮。そこに一人きりでいる妹の身を案じ、白晟は無力さに打ちひしがれながら目を伏せた。




