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09.戻る時はだいたい面倒だよな

街は、朝になっても静かではなかった。


空は薄く白み始めているのに、遠くではまだ火が上がっている。


崩れたビルの窓には黒い煤がこびりつき、道路には放置された車が斜めに並び、信号機は赤のまま点滅していた。


その中で、カエデは片膝をつき、軍用ポリタンクの口を押さえていた。


部下が横転した乗用車の給油口へホースを差し込み、手動ポンプを押している。


ごぼ、ごぼ、と鈍い音が鳴る。


ガソリンの匂いが、朝の冷えた空気に混ざった。


「急いで」


カエデは短く言った。


「長く止まると寄ってくる」


「了解」


部下たちは無駄口を叩かなかった。


昨夜から走り続けている。


装甲車は燃料切れ。


本部とは不安定な連絡。


街には感染者。


それでも、部隊はまだ崩れていない。


カエデが崩していない。


彼女は明るい髪を後ろで雑にまとめ、片手に小銃を持ったまま、周囲の路地を見ていた。


ビルの陰。


店の奥。


横転したバスの向こう。


動くものがあれば、すぐに撃つ。


迷いはなかった。


「隊長」


屋根の上に上がっていた見張りが、低く声を落とした。


「南東から車両。官邸側の警護車両と思われます」


カエデはそちらを見なかった。


「後にして。それより感染者は?」


「西側に十数体。速度は遅いです。まだこちらには気づいていません」


「なら先に燃料」


「ですが」


見張りの声が、少し詰まった。


「車両内に対象を確認」


カエデの指が止まる。


「対象?」


「銀河竜アッシュです」


一瞬、街の音が消えた気がした。


カエデはゆっくり顔を上げた。


「見間違いじゃないの?」


「映像、送ります」


端末に粗い映像が映る。


警護車両の後部座席。


そこに、窓へ頭を預けるようにして座る男がいた。


灰色の髪。


無駄に整った顔。


アッシュだった。


カエデは、笑わなかった。


「あれで死なないの? あいつ、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むの」


誰も答えなかった。


首相官邸は燃えた。


ミサイルとナパームで、跡形もなく焼かれたはずだった。


なのに、アッシュは生きている。


また。


何も背負わず。


何も知らないような顔で。


カエデは無線機を掴んだ。


「こちらカエデ。対象生存を確認。官邸側警護車両と移動中。指示を」


ノイズ。


応答なし。


「本部、応答して」


やはり、ノイズだけ。


部下が別回線を試す。


「駄目です。司令部、反応ありません」


「中継車は?」


「沈黙」


「予備回線」


「妨害か、回線喪失です」


カエデは無線機を下ろした。


部下の一人が慎重に言う。


「隊長、撤退を提案します。本部と連絡不能。燃料も補給中。感染者も接近しています」


カエデは、警護車両の映像を見たまま動かなかった。


「撤退?」


「はい。指示なしで警察部隊と交戦するのは危険です」


「さっきの攻撃、見たでしょ」


部下は黙る。


カエデの声は低かった。


「上が残した仕事を、こっちで処理するだけよ」


「対象は情報をどこかに隠し持っている可能性があります。確保が優先では」


「死んだら喋らないわ」


「それでは情報が――」


「情報を持ったまま警察に渡るよりはまし」


部下は、それ以上言わなかった。


カエデは立ち上がる。


顔から軽さが消えていた。


「道を作るわ。方向からみて最短で南側の橋を通るはず。もしくはそこを避けるなら旧商店街の迂回路」


「罠を張りますか」


「張る。前みたいに正面から追わない」


彼女は銃の安全装置を外した。


「以前のようにはいかないわよ」


警護車両は、静かに市街地を抜けていた。


車内には重い空気があった。


サクラは助手席で地図を見ている。


後部座席ではアッシュが、シートベルトに身体を預けていた。


「なあ」


「何?」


サクラは地図から目を離さない。


「川って、逃げる時は便利だけど、戻る時はだいたい面倒だよな」


「捨てた場所を思い出して」


「俺、捨てる時って未来の自分に相談しないタイプなんだよ」


「今、その未来の自分が困ってるね」


「過去の俺を呼び出して説教したい」


「会ったら逃げると思うよ」


「俺のこと分かってるな」


サクラは少しだけ笑った。


だが、笑みはすぐに消えた。


前方の道に、放置車両が並んでいる。


不自然だった。


横転した軽トラック。


斜めに突っ込んだバン。


道路脇に残されたポリタンク。


サクラの目が細くなる。


「止まって」


運転手がブレーキを踏もうとした瞬間、右前方から銃声が響いた。


タイヤが破裂する。


車体が大きく揺れ、横へ滑った。


「伏せて!」


サクラが叫ぶ。


次の瞬間、左側の建物二階からも銃撃が降った。


窓ガラスが砕ける。


警護車両の後続が壁に突っ込む。


隊員が飛び出そうとしたところを撃たれ、路上に崩れた。


アッシュは座席の下に転がる。


「まだ目的地にも着いてないのに、イベント始めるなよ!」


サクラは扉を蹴り開け、盾を持った隊員に叫ぶ。


「前面に盾! 二階左、制圧射撃! 後続、煙幕!」


隊員たちが動く。


だが、初撃でかなり削られていた。


カエデは、廃ビルの二階からそれを見ていた。


「やっぱり反応は早い」


無線に短く命じる。


「右の路地、撃たせて。逃げ道を消す」


「了解」


銃声が移る。


サクラ側の隊員が体勢を立て直す前に、別方向から撃たれる。


警察側の数は多い。


だが、今この瞬間は、カエデ側が戦場を作っていた。


サクラは車体の陰に身を寄せ、通信機を掴む。


「あなた、カエデという名前でしょ? 聞こえる?」


返事はない。


銃声と、遠くの呻き声だけが返ってくる。


それでもサクラは続けた。


「あの後すぐに素性を調べたよ。軍の特殊部隊エンペラードラゴン所属。現場指揮官。いくつかの作戦記録にも名前が残ってた」


少しの沈黙。


『……よく調べたわね』


「あなたがアッシュ君を追ってる理由までは、まだ分からないけど」


『分からなくていいわ』


「そう。じゃあ、本人に聞くね」


サクラは車内を振り返った。


アッシュは座席の下で、両手を頭の上に乗せていた。


「アッシュ君。カエデさんについて、何か言うことは?」


「名前を聞いても、命の危険しか思い出せない」


「過去の関係は?」


「その質問、今の銃撃より怖いな」


通信機の向こうで、女が笑った。


軽い声だった。


けれど、笑いの奥に冷たい棘がある。


『聞こえるわよ。まだ生きてたんだ』


サクラは通信機を握り直す。


「そっちこそ。撤退したと思ってた」


『嫌な男を見つけたら、予定って変わるの』


「それは任務?」


『さあね』


カエデの声が、少しだけ低くなる。


『私情を任務に混ぜるなって教わったけど、あいつだけは例外でいいと思ってる』


サクラは目を細めた。


「ずいぶん特別扱いだね」


『ええ。殺したいくらいには』


サクラは視線だけで隊員に指示を飛ばす。


盾の位置をずらす。


負傷者を引き込む。


その間にも、カエデの声は続いた。


『ずいぶん大事そうに守ってるじゃない』


「任務だから」


『任務だけで、その男の前に立てる?』


サクラは答えない。


カエデは笑った。


『ねえ。付き合ってる時、女の影がなかった? 連絡が途切れる夜。妙に機嫌がいい朝。知らない匂い。身に覚えあるでしょ』


「あるよ」


カエデの笑みが止まる。


サクラは静かに続けた。


「それが何?」


『強がるのね』


「強がりじゃないよ」


『あなたもそのうち捨てられるわよ。名前も、約束も、泣いた顔も忘れられる。あいつはそういう男』


「知ってる」


『それで守るの?』


「私がそうしたいから」


カエデの声が冷えた。


「馬鹿みたい」


サクラは少しだけ目を伏せた。


そして、通信越しに言った。


「あなた、本当は今でも好きなんだね」


一瞬、銃声が遠くなった。


カエデは黙った。


サクラは責めるような声ではなかった。


ただ、見たものを言っただけだった。


「憎んでるだけの人は、そんなに苦しそうに追わない」


『黙れ』


「好きだったことまで消そうとするから、苦しいんじゃない?」


銃弾が車体を叩いた。


カエデが撃ったのだ。


『分かったような口を利かないで』


「分かるよ」


サクラはマガジンを交換する。


「私も好きだから」


その言葉を合図にしたように、警察側が押し返した。


煙幕の中から隊員たちが進む。


盾が上がる。


銃声が整う。


カエデ側の一人が撃たれて倒れる。


別の隊員が引きずろうとして、さらに撃たれる。


戦場が崩れ始めた。


カエデは即座に位置を変える。


「下がって撃て! 距離を保ちなさい!」


しかし、銃声で感染者も寄ってきていた。


壊れた商店街の奥から、呻き声が増えている。


左右の路地に影が現れる。


カエデ側も、サクラ側も、同時に削られ始めた。


アッシュは車の陰にしゃがみ込みながら、その様子を見ていた。


銃声。


煙。


怒号。


女同士の会話。


ゾンビの足音。


彼は、かなり真剣な顔で考えた。


これは、自分が残っていて良くなる場面ではない。


むしろ、自分がいるから悪くなっている。


つまり、逃げた方がいい。


アッシュは低く這うように車両の陰を抜けた。


誰かが叫ぶ。


「対象が動いた!」


サクラが振り向く。


「アッシュ君!」


アッシュは手を振る余裕もなかった。


「悪い! 俺がいると話が大きくなる!」


「待って!」


待たなかった。


細い路地へ飛び込む。


だが、カエデは見逃さなかった。


「援護しろ、私は追うわ」


「隊長!」


「止めるな」


カエデは窓から飛び降り、着地と同時に走り出した。


路地は狭く、湿っていた。


アッシュは必死で走る。


腹が減っている。


足が重い。


息が切れる。


それでも前へ進む。


角を曲がった瞬間、横から影が飛びかかった。


カエデだった。


肩から突っ込まれ、アッシュの身体が地面に転がる。


背中を打つ。


息が詰まる。


「ぐっ……!」


カエデはその上に乗り、胸倉を掴んだ。


目が据わっている。


もう隊長としての顔ではなかった。


一人の女の顔だった。


「捕まえた」


アッシュは苦しげに笑おうとした。


失敗した。


「俺が何をした?」


カエデの目が見開かれる。


「本気で言ってるの?」


「候補が多い時は、確認から入るだろ」


カエデはアッシュの頬を殴った。


鈍い音。


視界が揺れる。


「殺される理由が多すぎて、代表を選べないだけでしょ」


カエデは低く言った。


「私が代表になってあげるわ」


「代表制にするなよ、俺の罪を」


もう一発。


アッシュの頭が地面に跳ねる。


「思い出せ」


「思い出す前に脳が揺れてるんだけど」


「揺らしてるのよ」


「優しくしてくれたら思い出す……かも」


カエデはさらに殴る。


「死んで思い出せ」


「死んだら思い出せないだろ」


「黙れ」


「せめて罪状を一個ずつ読み上げてくれ」


「日が暮れるわ」


カエデはアッシュの胸ぐらを掴み直した。


「何人置いてきた?」


「質問の範囲が広い」


「何人泣かせた?」


「覚えてたら今こうなってない」


「何人忘れた?」


アッシュは一瞬だけ黙った。


その沈黙が、カエデの怒りをさらに深くした。


「この屑」


彼女は銃を抜き、アッシュの額に押しつけた。


「終わりよ」


アッシュの顔から、ようやく軽さが消えた。


カエデの指が引き金にかかる。


引く。


カチッ。


乾いた音だけがした。


弾切れだった。


沈黙。


アッシュは目を開けた。


そして、心の底から言った。


「今の音、俺の人生で一番いい音だった」


カエデの顔が歪む。


「じゃあ、次は音がしない方法にする」


銃を捨てる。


拳を振り上げる。


「殴り殺す」


その瞬間だった。


背後から銃声がした。


カエデの身体が跳ねる。


彼女は振り返ろうとする。


もう一発。


肩口が裂け、膝が崩れた。


路地の入口に、サクラがいた。


血まみれだった。


脇腹を押さえ、片足を引きずりながら、それでも銃を構えている。


顔は真っ白だった。


だが、目はまだ死んでいなかった。


アッシュはサクラを見ず、心の底から叫んだ。


「ラッキー!!!」


彼はカエデの下から這い出る。


立ち上がる。


振り返らない。


そのまま走った。


サクラはそれを見て、ほんの少し笑った。


「はぁ……そういう人だよね」


カエデは地面に倒れたまま、アッシュの背中を見ていた。


「本当に……逃げるのね」


「うん」


サクラは壁にもたれ、ゆっくり座り込んだ。


「助けた女を置いて」


「知ってる」


「それでも、そんな顔をするの」


「間に合ったから」


カエデは荒い息を吐いた。


路地の外では、まだ銃声が続いている。


だが、近くの音は少しずつ遠くなっていた。


二人の周囲には、血の匂いと硝煙だけが残っている。


カエデは、サクラを見た。


「馬鹿ね」


「うん」


「本当に、馬鹿」


「でも、選んだのは私だから」


カエデは、目を細めた。


「……それが、私に足りなかったのね」


サクラは黙っていた。


カエデは天を見上げる。


ビルとビルの隙間から、薄い空が見えた。


「私は、あいつに選ばせようとしてた」


「うん」


「選ばれなかったから、全部あいつのせいにした」


「うん」


「好きだったことも、怒ってることも、殺したいことも、任務の下に隠した」


サクラは、小さく息を吸った。


「そうだね」


カエデは笑った。


血が唇の端から流れる。


「嫌な女」


「お互いに」


「あなたは、ずるいわ」


「私?」


「あいつを信じてたんじゃない。自分を信じてた」


サクラは目を伏せる。


「それしかできなかっただけ」


「私は、それができなかった」


カエデの声は少しずつ弱くなっていく。


「次に会ったら、足から撃つつもりだったのに」


サクラは微かに笑った。


「たぶん、また逃げるよ」


「……でしょうね」


カエデは遠くを見た。


アッシュが逃げた方向。


「最後まで、腹の立つ男」


「うん」


「でも、好きだった」


「うん」


「……それを認めるの、遅すぎたわ」


サクラは首を横に振った。


「間に合ったよ」


カエデは薄く笑う。


「嘘」


「優しさ」


「下手ね」


「知ってる」


カエデは、もう一度だけ笑った。


そして、動かなくなった。


サクラはしばらく、カエデの顔を見ていた。


それから、アッシュが逃げた方へ目を向ける。


「もう……逃げていいよ」


声は、もう届かない。


「私が、そうしたかっただけだから」


サクラは銃を下ろした。


目を閉じる。


その表情は、苦しそうではあったが、不思議と後悔は薄かった。


少し遅れて、彼女の呼吸も止まった。


同じ頃。


軍の臨時司令部は、別の戦場になっていた。


首相官邸への攻撃後、軍上層部は勝ったつもりでいた。


官邸は燃えた。


証拠は消えた。


首相も、秘書も、官邸職員も、まとめて消えたはずだった。


だが、彼らは一つ見誤っていた。


警察側は、もう迷わなかった。


官邸への攻撃は、最後の線を越えた。


軍が正統政府を焼いた。


その事実だけで、残った警察組織と反軍の一部部隊は動いた。


司令部の外周に、警察特殊部隊が突入する。


通信室が制圧される。


発電機が止められる。


通路が封鎖される。


軍上層部は混乱した。


「カエデ隊は?」


「通信途絶!」


「官邸の残存者は?」


「不明!」


「外周が突破されました!」


「何をしている、迎撃しろ!」


だが、護衛は少なかった。


多くの部隊を外へ出していた。


証拠を追うため。


警察を抑えるため。


感染者の処理のため。


その空白を、警察側は突いた。


会議室の扉が破られる。


盾を持った警察隊員が雪崩れ込む。


軍上層部の男たちは拳銃を抜こうとしたが、遅かった。


腕を撃たれ、床に押さえつけられ、結束バンドで縛られる。


司令官が怒鳴った。


「我々がいなければ秩序は戻らない!」


警察側の指揮官は、冷たく見下ろした。


「秩序を燃やした者が、秩序を名乗るな」


「貴様らに国を守れるのか!」


「国を焼いた人間に聞かれる筋合いはない」


司令官は床に押しつけられながら、まだ叫んでいた。


だが、誰も耳を貸さなかった。


軍上層部は、縛り上げられた。


一つの時代が、そこで終わりかけていた。


そのことを、アッシュは知らない。


彼は走っていた。


路地を抜け、崩れたフェンスを越え、誰もいない住宅街を抜ける。


息が切れる。


喉が焼ける。


足が痛い。


腹は空っぽ。


煙草もない。


それでも、生きている。


それだけは確かだった。


背後の銃声は、だんだん遠くなる。


サクラが生きているのか。


カエデがどうなったのか。


部隊が残っているのか。


何も分からない。


分からないから、走れる。


アッシュは塀にもたれ、肩で息をした。


「助かったのに、状況が良くなった気がしないの何なんだよ」


返事はない。


遠くで、感染者の呻き声が聞こえる。


別の方向から、サイレンのような音も微かに聞こえた。


アッシュは顔を上げる。


風の中に、水の匂いが混ざっていた。


川が近い。


彼が、黒い端末を投げ捨てた場所。


軍が追い。


警察が求め。


サクラが守り。


カエデが殺そうとし。


ハルカが燃えるきっかけになったもの。


その全部が、たぶんまだ水の底にある。


アッシュは、本当に嫌そうな顔をした。


「……本当に拾いに行くのかよ」


足を引きずるように歩き出す。


橋の下へ続く斜面が見えた。


川の音が近づいてくる。


アッシュは、ぼろぼろの服を見下ろした。


「女も軍も警察も、みんな俺を通して人生を燃やしすぎだろ」


少し黙る。


それから、小さく呟く。


「俺、ただの歌手なんだけどな」


誰も突っ込まない。


川は、朝の光を受けて鈍く揺れていた。


アッシュは、その流れの方へ歩いていく。


捨てたものを拾うために。


そして、たぶん。


自分が捨ててきたもの全部に、追いつかれるために。

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