08.怒ってる時の方が、お前は本物っぽいな
皿の上には、肉が乗っていた。
焼き目がついている。
野菜も添えられている。
湯気も立っている。
終末の食卓にしては、あまりにもまともだった。
アッシュは椅子に座ったまま、フォークで肉を切った。
「……うまいな」
向かい側の女が、柔らかく笑った。
「よかった」
名前はモモカ。
どこで会ったのか。
どこまで関係があったのか。
アッシュの記憶では、かなり曖昧だった。
ただ、彼女はアッシュの名前を知っていた。
アッシュの顔を見て泣きそうになり、震える手で家に招き入れ、温かい食事を出した。
終末になってから、こういう女は珍しくない。
珍しくないが、ありがたい。
少なくとも、今のアッシュにはそうだった。
煙草はない。
酒もない。
腹は減っている。
そんな状態で出された温かい肉料理を前にして、警戒心が働くほど、アッシュは強い男ではなかった。
「ずっと逃げてたんでしょう?」
モモカは言った。
「ちゃんと食べて」
「その言い方、だいぶ俺を理解してるな」
「忘れないよ」
「俺は忘れてる可能性が高いけど?」
「知ってる」
モモカは笑った。
その笑い方が、少しだけ静かすぎた。
けれど、アッシュは気にしなかった。
気にするには、肉がうまかった。
「これ、何の肉?」
「聞かない方がいいと思う」
「終末料理としては、かなり誠実な返答だな」
アッシュはもう一口食べた。
味は悪くない。
むしろ、かなりいい。
少し濃いめの味付けが、疲れた身体に染みる。
「モモカ」
「何?」
「お前、料理うまいな」
モモカの手が、ほんの少し止まった。
「……そんなこと、今さら言うんだ」
「今さらでも言わないよりいいだろ」
「言われた方が、困ることもあるよ」
「料理の感想で困るなよ。俺、いま珍しく善良な客だぞ」
「善良?」
「少なくとも、まだ皿は割ってない」
「基準が低いね」
そう言って、モモカも自分の皿にフォークを入れた。
肉を切る。
口へ運ぶ。
噛む。
飲み込む。
次の瞬間、モモカの表情が変わった。
「……っ」
フォークが皿の上に落ちる。
乾いた音。
アッシュは顔を上げた。
「ん?」
モモカは口元を押さえていた。
最初は、むせたのかと思った。
だが違う。
彼女の顔色が、みるみる変わっていく。
血の気が引くのではない。
別のものに塗り替えられていくようだった。
「おい」
アッシュはフォークを止めた。
「大丈夫か?」
モモカは答えない。
椅子が床を引っかく。
身体が前のめりに崩れる。
喉から、ひゅう、と嫌な音が漏れた。
「……なんで」
「何が?」
「なんで……こっち……」
モモカは震える手で、自分の皿を指差した。
アッシュはその皿を見た。
自分の皿と、たいして変わらない。
肉。
野菜。
ソース。
けれど、モモカは明らかにその皿を見ていた。
まるで、自分が食べるはずではなかったものを見るように。
アッシュは首を傾げる。
「こっち?」
モモカが、苦しげに息を吸う。
「それ……アッシュの……」
「俺の?」
アッシュは、自分の前の皿を見る。
そして、少し考えた。
思い出す。
数分前。
モモカが台所から料理を運んできた時のことだ。
皿は二つあった。
片方は、モモカの手元に。
もう片方は、アッシュの前に置かれようとしていた。
だが、その瞬間、アッシュは思った。
モモカの方の盛り付けが、妙に綺麗だった。
肉の置き方。
野菜の位置。
ソースのかかり方。
全体の見た目。
自分の飯の盛り付けが汚いわけではない。
ただ、モモカの皿の方が、少しだけ完成度が高く見えた。
だから、モモカが水を取りに席を立ったほんの一瞬で、アッシュは皿を入れ替えていた。
深い理由はない。
ただ、そちらの方が自分にふさわしい気がしたからだ。
アッシュは、今さらのようにモモカを見た。
「……ああ」
モモカの目が揺れる。
「まさか……」
「いや、そっちの方が綺麗な盛り付けに見えたから」
モモカの顔に、怒りが浮かんだ。
後悔ではない。
悲しみでもない。
もっと、失敗した人間の顔だった。
アッシュはようやく理解した。
ゆっくりと、椅子を引く。
「お前、俺に何食わせようとしてた?」
モモカは答えない。
答えられない。
喉から、湿った音が漏れ始める。
指が曲がる。
爪がテーブルを引っかく。
瞳の奥から人間の光が抜け、代わりに濁った欲だけが浮かび上がってくる。
アッシュは立ち上がった。
一歩下がる。
さらに一歩。
「いや、待て。俺、普通に飯食ってただけなんだけど」
モモカがテーブルに爪を立てた。
皿が揺れる。
肉が床へ落ちる。
モモカは、それを見もしない。
濁った目でアッシュだけを見る。
「ア……シュ……」
「呼ぶな。今の声はだいぶ違う意味で刺さる」
モモカが跳ねるように立ち上がった。
アッシュは椅子を蹴って後ろへ飛ぶ。
「うわあああああああ!」
叫びながら玄関へ走った。
後ろでテーブルが倒れる音がした。
食器が割れる。
モモカの呻き声が追ってくる。
アッシュは靴を履く余裕もなく、片方だけ引っかけた状態で外へ飛び出した。
庭に置いていたバイクへ走る。
エンジンがかかるまでの数秒が、人生でかなり長く感じた。
「頼むぞ。ここで機嫌を損ねたら、俺が食後のデザートになる」
エンジンが吠えた。
アッシュはすぐにアクセルを回す。
背後で、玄関の扉が壊れる音がした。
モモカだったものが、道路へ這い出てくる。
アッシュは振り返らない。
バイクは夜道を走り出した。
しばらくして、ようやく呼吸が戻る。
アッシュは片方だけ裸足に近い足元を見て、顔をしかめた。
「料理の見た目で人生が分かれる日が来るとはな」
冷たい風が顔に当たる。
腹は減ったまま。
食事はできなかった。
殺されかけた。
そして、相手は勝手に壊れた。
アッシュは低く息を吐く。
「モモカ……あっちの飯の方が綺麗だったから交換しただけなのに、なかなか物騒なものを用意してたな」
少しだけ沈黙。
そして、真剣な顔で呟いた。
「笑顔で手料理を出す女は、だいたい愛か毒のどっちかを盛ってる」
その結論だけを胸に、アッシュは夜の道を逃げていった。
数日後。
アッシュは、かなり痩せていた。
正確には、痩せたというほど時間は経っていない。
だが、顔色は悪く、目の下には疲れが溜まり、歩き方も少し雑になっていた。
理由は単純だった。
食料がない。
水も少ない。
煙草は切れた。
酒など夢のまた夢。
そして何より、女を避けるようになった。
これが致命的だった。
終末世界でアッシュが生き延びてきた理由の多くは、本人の逃げ足と口先と、なぜか彼を拾ってしまう女たちの存在で成り立っていた。
だが、モモカの一件以来、アッシュは女の施しを信用しなくなっていた。
遠くで女の声がしたら避ける。
手を振る女がいたら迂回する。
倒れている女は見ない。
食事を差し出す女がいたら、反射的に逃げる。
結果。
飯がない。
「俺の生命線、今までだいたい怪しい女の善意だったんだな。知りたくなかった」
アッシュは壊れたバス停のベンチに座り、空の缶詰を見下ろしていた。
中身は昨日、最後まで舐めた。
今は何もない。
「女を疑うと安全になる。安全になると飢える。人生の設計、誰がした?」
返事はない。
少し離れた場所で、ゾンビがふらふら歩いている。
アッシュはそちらを見た。
「お前はいいよな。食欲に正直で」
ゾンビは答えない。
アッシュは立ち上がった。
足元が少しふらつく。
「せめて煙草くらい落ちてないかね。終末サービスとして」
道路の向こうに、ガソリンスタンドが見えた。
屋根は半分崩れ、店内のガラスは割れている。
アッシュは一瞬だけ期待した。
煙草。
食料。
水。
何かあるかもしれない。
そう思って歩き出した瞬間、背後からエンジン音が響いた。
重い音。
普通の車ではない。
アッシュは振り返る。
道路の先に、装甲車がいた。
黒い車体。
銃座。
前面に取り付けられた無骨な装甲板。
その上に、小柄な女が顔を出していた。
カエデ。
彼女は朝焼けの中で、銃を肩に担ぎ、楽しそうに笑っていた。
「やっと見つけた」
アッシュは数秒、何も言わなかった。
そして、静かにバイクへ目を向けた。
まだ燃料はある。
たぶん。
「逃げ足だけは、本当に惚れた頃から変わらないわね」
カエデの声が飛ぶ。
アッシュはバイクにまたがった。
「褒め言葉として受け取っていい?」
「追いついたら、撃ち殺してあげる」
「昔より愛情表現が直線的になったな!覚えてないけど!」
バイクが走り出す。
装甲車も動く。
重い車体が道路を削るように加速した。
アッシュは住宅地の細い道へ逃げ込む。
装甲車は曲がりきれない。
だが、カエデは諦めない。
別の道から回り込む。
アッシュが横転したワゴン車の脇を抜けると、後方で轟音が響いた。
装甲車がそのワゴン車ごと押し潰したのだ。
「嘘だろ!」
アッシュは叫んだ。
カエデは無線越しに笑う。
「障害物に隠れたつもり?」
「車を盾にしたら車ごと踏みつぶして来る元カノ、初めてなんだけど!」
「いい経験になったじゃない」
「経験の種類が全部ひどい!」
バイクは倒れた標識の間を縫う。
装甲車は歩道へ乗り上げ、塀を砕きながら追ってくる。
アッシュはバックミラー越しにそれを見た。
「俺を追うために装甲車出すの、未練の排気量がでかすぎるだろ!」
後方で、カエデが笑った。
「まだくだらないこと言える元気があるなら、もう少し本気を出していいわね」
「おいおい、嘘だろ?」
バックミラーを確認するとカエデが自動小銃を構えていた。
銃声が飛ぶ。
アッシュは車体を傾ける。
弾が背後のガードレールを叩き、火花が散る。
道路は徐々に郊外へ向かっていた。
壊れた看板。
放置されたトラック。
焦げた民家。
逃げ道はある。
だが、アッシュの腹には何もない。
腕にも力が入らない。
視界の端が少し白い。
それでも、逃げる。
逃げることだけは、身体が覚えている。
しばらくして、バイクが咳き込んだ。
アッシュの顔から血の気が引く。
「おい」
エンジンが揺れる。
もう一度アクセルを回す。
だが、音が弱い。
バイクは何度か震えたあと、道路の端で止まった。
燃料切れだった。
装甲車が後ろから距離を詰めてくる。
カエデは勝ち誇ったように降りた。
「終わりね」
アッシュはバイクを見た。
装甲車を見た。
カエデを見た。
「終わり方として、だいぶ泥臭いな」
カエデが銃を再び構える。
その時、部下の一人が装甲車の計器を確認して、固まった。
「隊長」
「何?」
「こちらも燃料が切れています」
カエデの笑顔が止まった。
アッシュは一目散に駆け出した。
風だけが道路を抜けていく。
アッシュは走りながら振り返る。
「俺を追う前に、まず燃料計と話し合えよ」
カエデの眉がぴくりと動く。
「走れ」
部下が聞き返す。
「は?」
「走って追うわよ」
アッシュ振り向かずに答える。
「いや、そこは諦める流れじゃない?」
カエデは答えない。
アッシュは今のうちに距離を稼ぐ。
カエデたちは車から降り走り出した。
「徒歩で元カレ追跡する特殊部隊、絵面が終わってるぞ!」
「黙って走れ!」
「逃げてる側に指示するな!」
銃声が鳴る。
アッシュは廃車の陰に飛び込む。
弾が車体を叩く。
足が重い。
腹が痛い。
喉が渇く。
それでも、止まれない。
カエデたちは速い。
訓練された走りだった。
だが、装備が重い。
アッシュは軽い。
軽いというより、何も持っていない。
それだけが長所だった。
「俺、荷物がない人生で初めて得したかもしれない!」
誰も笑わない。
アッシュは交差点を曲がる。
その先に、別の人影があった。
黒い装備。
盾。
サブマシンガン。
複数。
アッシュは足を止めかけた。
「今度は何?」
左右から隊員が出る。
一瞬でアッシュの周りを固める。
盾が前に出る。
銃口はカエデ側へ向けられる。
アッシュはその中央に押し込まれた。
「待って。俺、どこの景品?」
隊員は答えない。
後方から、カエデの部下が銃を上げようとした。
「待ちなさい」
カエデが止めた。
それまでの軽い表情が消えている。
目だけが鋭い。
彼女は相手の装備を見た。
盾の規格。
射線の作り方。
立ち位置。
退路の残し方。
民間の武装集団ではない。
訓練されている。
それも、軍とは違う種類の動き。
「警察ね」
盾の後ろから、男の声が返る。
「銀河竜は我々が保護する」
カエデは笑わなかった。
「その男をこちらに渡しなさい」
「拒否する」
「拒否するなら、こちらは排除する」
「この配置で?」
カエデは周囲を見た。
退路は一つだけ残されている。
それ以外は盾で塞がれ、遮蔽物を利用されている。
アッシュへの射線はない。
撃つなら、まず警察の盾を割らなければならない。
その間に、こちらも撃たれる。
カエデは舌打ちした。
感情だけなら、今すぐ撃ちたかった。
アッシュの足を撃つ。
できれば膝。
もっと言えば、逃げる気力ごと折りたい。
だが、隊長として見るなら違う。
ここで撃てば部下が死ぬ。
今は無理だ。
「下がるわ」
部下が驚く。
「隊長、しかし――」
「さっきの銃声で、もう寄ってきてる」
カエデは道路の奥へ目を向けた。
建物の陰で、何かが動いている。
一体ではない。
音に釣られた死体たちが、ゆっくりとこちらへ集まり始めていた。
「ここで警察と撃ち合えば、アッシュを殺す前に挟まれる」
「ですが」
「二度言わせないで」
カエデの声が冷えた。
「私はあいつを撃ちたいの。部下を餌にしたいわけじゃない」
部下たちは黙った。
カエデは最後に、盾の隙間からアッシュを見る。
「次は、もっと静かな場所で会いましょう」
アッシュは息を切らしながら答えた。
「できれば、人が多くて明るくて、警察署の隣で頼む」
カエデは笑わず、背を向けた。
特殊部隊は撤退していく。
アッシュは膝に手をつき、息を吐いた。
「助かった……のか?」
「一応ね」
後ろから女の声がした。
優しい声だった。
アッシュは警戒した。
女の声。
優しい。
つまり危険。
彼はゆっくり振り返る。
そこに、警察装備の女が立っていた。
整った顔立ち。
落ち着いた目。
柔らかい声。
ただし、手には拳銃。
身のこなしは完全に現場の人間だった。
「久しぶりね、アッシュ君」
アッシュは一瞬、身構えた。
また女か。
また過去か。
また面倒事か。
だが、次の瞬間、目を細める。
この女は、覚えている。
珍しく。
「……サクラ」
サクラは肩の力を抜いた。
「よかった。そこは出てくるんだ」
「全部忘れたら、俺という名作が成立しないだろ」
「かなり失くしてるけどね」
「残ってるものを褒めろよ」
「うん。えらいえらい」
「雑に褒めるな。少し嬉しいだろ」
だが怒らない。
慣れている顔だった。
「歩ける?」
「飯があれば歩ける」
「先に話」
「飯の後に話でも人類は滅びないと思うけど」
「もうかなり滅びてるよ」
「じゃあ今さら焦らなくても」
サクラはアッシュの腕を軽く掴んだ。
優しいが、逃げられない力だった。
「少し、お話を聞かせてほしいな」
アッシュは空を見た。
「今日の女は、みんな俺に要求が多い」
「今日だけ?」
「最近ずっとだな」
アッシュは、警察特殊部隊に囲まれながら連れていかれた。
首相官邸は、まだ形を保っていた。
ただし、かつてテレビで見たような整然とした場所ではなかった。
周囲にはバリケード。
敷地内には警護車両。
門の内側には警察の特殊部隊と官邸警備が立ち、建物の窓には土嚢が積まれている。
国の中心というより、籠城中の砦だった。
アッシュはそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「ここ、国の偉い人の家だろ?」
サクラが答える。
「今は最後の拠点の一つ」
「俺、そんな大事な場所に入っていいの?」
「今さら遠慮するの?」
「いや、俺が入った場所ってだいたい後で燃えるから」
「縁起でもないこと言わないで」
「経験則なんだけどな」
サクラは答えず、彼を奥へ促した。
廊下には職員が走っている。
壁には地図。
端末。
無線。
発電機の音。
官邸の奥の小さな会議室に、女がいた。
黒いスーツ。
まとめた髪。
疲れているのに、背筋は崩れていない。
首相秘書、ハルカ。
彼女はアッシュを見た瞬間、わずかに表情を揺らした。
「……アッシュ」
アッシュは警戒した。
まただ。
この呼び方。
この間。
過去のある女の間。
だが、ハルカの目には怒りがなかった。
代わりに、痛みのようなものがあった。
「久しぶりね」
アッシュは数秒で判断した。
ここで「誰?」は危険。
「久しぶり」
サクラが、横で微妙な顔をした。
たぶん、察している。
ハルカは椅子を勧めた。
「座って。時間がないの」
「その椅子、安全?」
「ただの椅子よ」
「俺の人生、ただの椅子から始まって縛られることがあるんだよ」
「今回は縛らないわ」
「“今回は”って言った?」
アッシュは警戒しながら腰を下ろした。
ハルカは向かいに座る。
サクラは横に立ったまま。
部屋には三人だけだった。
ハルカは少しだけ視線を落とした。
「あなたを手放したこと、ずっと後悔していた」
アッシュは内心で固まった。
重い。
だが、誰か分からない。
正確には、顔に覚えはある。
名前も今聞いた。
けれど、何をどうした関係だったのかが曖昧だ。
アッシュは慎重に言葉を選んだ。
「……人は、手に持てるものの数が決まってるからな」
ハルカの目が揺れた。
救われたような顔だった。
サクラは、横で小さく溜め息を吐いた。
アッシュは何も見なかったことにした。
「本題に入るわ」
ハルカは端末を開く。
「あなたは軍に追われていた。理由を聞かせて」
アッシュは話した。
病院で目を覚ましたこと。
サユリという女がいたこと。
施設が異様に整っていたこと。
歌わされたこと。
病院が燃えたこと。
スパイだった女に連れ出されたこと。
その女がヘリを操縦し、墜落したこと。
山を逃げたこと。
いつの間にか、鞄に黒い端末が入っていたこと。
カエデたちに追われたこと。
ハルカは途中で一度も口を挟まなかった。
サクラも黙っていた。
最後に、ハルカが聞く。
「その端末の中身は見た?」
「知らない。難しそうな画面だった」
「今、その端末はどこ?」
「川」
ハルカの指が止まる。
サクラも、初めて露骨に目を丸くした。
「川?」
「捨てた」
「……捨てたの?」
「銀河竜は自由なんだよ。軍の秘密を背負って山道を歩く生き物じゃない」
会議室が沈黙した。
ハルカは手で額を押さえた。
サクラは口元を引き結ぶ。
アッシュは少しだけ不満そうに続ける。
「俺に持たせた時点で、その端末はもう迷子だろ」
「でしょうね」
サクラが言った。
「今、納得するところ?」
「納得しないと頭が痛くなるから」
ハルカは息を整えた。
「その端末は、極めて重要な証拠だった可能性が高い」
「そういうのは最初に赤文字で書いておくべきだろ」
「あなたが読まないでしょう」
「読まないな」
「でしょうね」
ハルカは端末を閉じた。
「質問を変えるわ。あなたは、感染者を兵士として使う部隊を見た?」
アッシュの顔が少しだけ変わった。
「青白い連中か?」
ハルカとサクラの目が鋭くなる。
「見たのね」
「いや、あれアンタら側のものだろ? 俺は関係ない」
ハルカは低く息を吐いた。
「やはり、見ている」
「見ただけだぞ。触ってない。歌は聞かせたかもしれないけど」
「……歌?」
サクラが聞く。
アッシュは視線を逸らした。
「そこは話すと長くなる」
「あとで聞く」
「聞かなくていい話って、人類にはあると思う」
ハルカは立ち上がり、壁の地図を見た。
「ここから先は、あなたに知ってもらう必要がある」
アッシュは嫌な顔をした。
「俺、知らない方がいい話を聞かされる流れ、多くない?」
「今回は聞いて」
ハルカの声は、今までより硬かった。
「今回の感染拡大は、自然に起きたものではない可能性が高い」
アッシュは黙った。
ハルカは続ける。
「この国の軍部の一部と、特定の医療研究機関。それに、複数の外国軍部と研究組織。彼らは感染者の兵器化を進めていた」
サクラが小さく頷く。
「従来型感染兵装。感染者を再調整して命令可能な兵士にする計画」
「計画段階じゃなかった」
ハルカは言う。
「すでに運用されていた。あなたが見たものが、その証拠よ」
アッシュは眉をひそめた。
「じゃあ、世界がこうなったのは」
「事故だけではないわ。少なくとも、一部の人間は利用するつもりだった」
「それ、計画じゃなくて集団で火をつけただけじゃない?」
ハルカは否定しなかった。
サクラも何も言わない。
アッシュは椅子にもたれた。
「人類って、上が間違うとすぐ滅ぶんだな」
ハルカは地図を指す。
「今、首相官邸は軍の一部と対立している。私たちは証拠を必要としていた。でも証拠がない。軍もそれを分かっているから、表立った全面衝突は避けていた」
「で、その証拠が川にあるかもしれない」
「そう」
「俺が捨てた川に」
「そう」
アッシュは顔をしかめた。
「俺、捨てたものとは綺麗に別れる主義なんだよ」
「行ってもらうわ」
ハルカは即答した。
「サクラの部隊をつける。あなたは場所を案内して」
「断ったら?」
サクラが優しく言った。
「優しく連れていくよ」
「優しく、の意味が信用できない」
「手錠は最後にする」
「今かなり優しくない情報が出たな」
ハルカはアッシュを見る。
「お願い。あの端末が残っていれば、多くのことが変わる」
アッシュは答えなかった。
面倒だった。
非常に面倒だった。
だが、ここで逃げるにも出口がない。
しかもサクラがいる。
警察特殊部隊もいる。
飯は出してもらっていたが煙草はない。
状況は、相変わらずアッシュに優しくなかった。
その頃。
軍の臨時司令部では、空気が凍っていた。
カエデの報告が上がっていた。
アッシュは警察特殊部隊に保護され首相官邸に護送された。
端末の所在は不明。
アッシュは端末の場所を明かさなかった。
警察側はアッシュを確保し、撤退した。
軍上層部の男たちは、沈黙していた。
一人が低く言う。
「官邸側に渡ったと見るべきだ」
別の男が顔を歪める。
「裏組織なら潰せた。外国なら黙らせる手段もあった」
「だが正統政府が握れば終わりだ」
「我々は秩序を回復する軍ではなく、世界を焼いた犯人になる」
「兵が従わなくなる」
「生存者もついてこない」
誰も、すぐには結論を口にしなかった。
しかし、誰もが同じ結論を見ていた。
証拠が官邸から出れば、新しい秩序など作れない。
軍の支配も、復興の名目も、すべて崩れる。
だから消す。
証拠ごと。
証人ごと。
官邸ごと。
司令官が言った。
「攻撃準備」
部下が息を呑む。
「首相官邸ですか」
「そうだ」
「実行すれば、後戻りできません」
「もう後ろは燃えている」
司令官は地図を見る。
「ミサイルの飽和攻撃を行う。更に残存者が出ないよう、ナパームも投下する」
沈黙。
そして、命令が走った。
その頃、首相官邸の奥で、ハルカは一人、端末の画面を見つめていた。
画面には、各防衛線の状況が並んでいる。
弾薬残量。
負傷者数。
通信不良。
避難民の移送予定。
どれも、悪い数字だった。
けれどハルカが見ていたのは、数字ではなかった。
アッシュの顔だった。
久しぶりに見たその男は、何も変わっていなかった。
軽くて、無責任で、こちらの罪悪感をまるで理解していない。
だからこそ、胸が痛んだ。
昔、ハルカは自分の価値をよく知っていた。
男たちが何を見ているのかも知っていた。
能力。
若さ。
顔。
身体。
声。
ほんの少しの隙。
ほんの少しの期待。
それらを、ハルカは高く売った。
出世するために。
踏まれる側ではなく、踏む側の近くに立つために。
それを恥じたことはない。
必要だったからだ。
けれど、必要なものほど、自分を少しずつ削っていった。
誰かに見られるたび、自分の中に値札が増えていく気がした。
そんな時に、アッシュと会った。
アッシュは、値踏みをしなかった。
いや、正確には何も考えていなかっただけかもしれない。
彼はハルカの価値を見抜かなかった。
政治家の卵としても、使える女としても、誰かの所有物としても見なかった。
ただ、綺麗な女として見て、面倒な女として扱い、退屈しない相手として笑った。
それが、腹立たしいほど楽だった。
ある夜、ハルカが高価なドレスを着て戻った時、アッシュは言った。
「それ、汚したら俺が払えないやつだな」
褒めるでもなく、口説くでもなく、ただそう言った。
ハルカは怒った。
アッシュは笑った。
「怒ってる時の方が、お前は本物っぽいな」
その一言を、ハルカは今でも覚えている。
だが、彼を選べば上へ行けない。
少なくとも、当時のハルカはそう思った。
自分は、誰のものでもない女として振る舞う必要があった。
手に入りそうで入らない。
期待させるが、確定させない。
男たちにそう思わせることで、道は開いた。
アッシュがそばにいると、その計算が乱れる。
嬉しいから。
救われてしまうから。
だから、切った。
「あなたといると、私が安くなる」
そう言った。
アッシュは少しだけ黙った。
そして、笑った。
「高い女は維持費も高いからな」
それが別れだった。
ひどい別れだった。
けれど、アッシュは怒らなかった。
追っても来なかった。
たぶん、別の女のところへ行った。
それもまた、ハルカには罰のようだった。
世界が終わった時、ハルカはようやく気づいた。
自分が高く売ったものは、全部燃えた。
地位も。
人脈も。
男たちの評価も。
国の形さえ、今は崩れかけている。
残ったのは、あの日の言葉だけだった。
あなたといると、私が安くなる。
違った。
アッシュといる時だけ、ハルカは値段のない自分でいられた。
だから、彼に謝りたかった。
謝って、許されたいわけではない。
ただ、自分があの言葉を間違えていたと、言いたかった。
部屋の外で、足音が近づく。
サクラの部隊が、出発の準備を進めている。
ハルカは立ち上がった。
もう、時間はない。
謝罪を長く語る余裕もない。
許されたいと言う資格もない。
それでも、何も言わずに送り出せば、また同じことを繰り返す気がした。
あの時と同じように、自分の都合で切って、自分の言葉だけを胸の奥に残す。
そんな別れ方だけは、もうしたくなかった。
だからこそ、短く言うしかなかった。
廊下に出ると、非常灯の赤い光が壁を薄く染めていた。
遠くで無線が鳴っている。
誰かが弾薬箱を運び、誰かが避難経路の確認を叫んでいる。
国の中心は、もう国の中心というより、逃げ遅れた人間たちが最後に息を合わせる場所になっていた。
その奥。
首相官邸の地下通路前で、サクラは部隊を整えていた。
アッシュは壁にもたれ、眠そうに立っている。
実際には眠いのではなく、やる気が起こらず力が入らない。
ハルカが近づくと、サクラがすぐに振り返った。
「出発準備は?」
「整いました」
大型の警護車両がウィンカーを出した。
ハルカはアッシュを見る。
「もう一度だけ確認するわ。川の場所は覚えているのね?」
「だいたい」
「だいたい?」
「山道で死にかけてた時の記憶って、だいたい風景が全部似てるんだよ」
サクラが小さくため息をつく。
「覚えているところまででいい」
「ずいぶん優しいな」
「あなたに完璧を求めるほど、私も夢見がちじゃないよ」
「信頼されてるのか見限られてるのか、判断に迷うな」
ハルカは少しだけ笑った。
それから、アッシュへ向き直る。
「あなたを選べなかったことを、ずっと後悔していた」
アッシュはハルカを見た。
今度も、正確には思い出せなかった。
ただ、彼女が本気で言っていることだけは分かった。
だから、アッシュはそれらしい言葉を選んだ。
「選べなかったものほど、あとから綺麗に見えるからな」
ハルカの目が潤んだ。
救われたように見えた。
サクラは何も言わない。
アッシュも、それ以上は言わなかった。
ハルカは一歩下がる。
「行って」
サクラが頷く。
「必ず戻ります」
アッシュは小さく言う。
「戻る前提の用事って、だいたい戻れないんだよな」
サクラが腕を掴む。
「そういうこと言わない」
「はい」
一行は地下通路から官邸を離れた。
地上へ出る。
朝の光は薄く、空は灰色だった。
官邸は少し離れた場所に見える。
まだ立っている。
まだ、人がいる。
ハルカも、そこにいる。
その時、空が鳴った。
サクラが座席から顔を上げる。
音は一つではない。
遠くから飛んでくる、重い音。
次の瞬間、首相官邸の上空が白く弾けた。
続いて、赤い炎が建物を飲み込む。
爆風が遅れて届いた。
地面が揺れる。
窓が割れ、黒煙が立ち上がる。
さらに二発。
火の雨が降る。
首相官邸は、一瞬で要塞ではなく火柱になった。
サクラが立ち尽くす。
部隊員たちも息を呑む。
アッシュは燃える官邸を見ていた。
ハルカの顔が、一瞬だけ頭をよぎった。
罪悪感を抱えた女。
自分に何かを謝りたかった女。
自分がほとんど覚えていなかった女。
アッシュは少しだけ黙った。
それから、低く言った。
「この世界、別れ際に火を使いすぎだろ」
サクラは答えなかった。
拳を握りしめている。
歯を食いしばり、泣きもしない。
ただ、顔だけが白くなっていた。
アッシュは視線を逸らしかけた。
だが、サクラが彼の腕を掴む。
「行くよ」
「どこへ」
「あなたが捨てた場所」
アッシュは燃える官邸を見た。
もう戻れない。
ハルカも、首相も、あの中の人間たちも、おそらく助からない。
そして、軍はもう止まらない。
すべては、川に沈んだ端末へ向かっている。
アッシュは心底嫌そうに息を吐いた。
「俺、捨てたものを拾いに行く人生だけは嫌だったんだけどな」
サクラは車両の外を警戒しだす。
その隣でアッシュは瞳を閉じた。
背後では、国の中心が燃えていた。
前には、アッシュが捨てた川がある。
そして、そのさらに先には。
また別の面倒事が、きっと待っている。




