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07.女の持ち物って俺に似合うんだよな

北地区避難所は、小学校の跡地だった。


校門は横倒しにした車と机で塞がれ、その上からフェンスが何重にも巻かれている。窓には板が打ちつけられ、屋上にはライトを持った見張りが立っていた。


まだ、人がいる。


それだけで、ミナミの膝から力が抜けそうになった。


「お願い!」


バットを地面に置き、両手を上げる。


「開けて! 噛まれてない!」


ライトが顔を焼くように照らした。


バリケードの向こうから、男の声がする。


「一人か!」


「一人!」


「武器を離せ!」


「もう離した!」


ミナミは、地面に置いたバットから一歩下がった。


腕を広げる。


袖をまくる。


首筋も見せる。


「見て! どこも噛まれてない! お願い、入れて!」


バリケードの上の男は迷っていた。


疑っている。


けれど、ミナミがもう限界なのも分かっている。


足は震え、喉は枯れていた。


妹を埋めた土の感触が、まだ指の間に残っている。


煙草の匂いも、なぜか少しだけ残っている気がした。


あの男は、南へ行った。


自分は、北へ来た。


それでよかったはずだった。


「待ってろ」


男が言った。


「今、門を――」


銃声が鳴った。


男の頭が跳ねる。


ライトが落ちた。


ミナミは、何が起きたのか分からなかった。


次の銃声で、胸に熱い衝撃が走る。


息が止まる。


膝が折れた。


地面が近づく。


バリケードの向こうで、誰かが叫んでいた。


「撃たれた!」


「誰だ!」


「外だ! 外にいる!」


ミナミの視界の端に、女が立っていた。


金髪に近い派手な髪。


終末の中でも、崩れた化粧を直しているような女だった。


手には拳銃。


背後には、同じように武装した女たちがいる。


派手な女は倒れたミナミを見下ろし、軽く肩をすくめた。


「ごめんねー。感動の到着シーンっぽかったけど、ウチら的には回収前のお掃除タイムなんだわ」


手下たちがバリケードへ近づく。


斧。


バール。


金属パイプ。


校門に積まれた机が崩されていく。


中の避難民が叫ぶ。


「やめろ! 中に子供がいる!」


女は空へ向けて一発撃った。


乾いた音が、朝の空に広がる。


「だから便利なんじゃん」


女は笑った。


「まとめて中にいてくれるとか、効率良すぎ」


遠くで、呻き声が増えた。


銃声を聞いた感染者たちが、ゆっくり、けれど確実に集まり始めている。


派手な女は壊れかけた校門を見て、楽しそうに手を広げた。


「はい開店。ゾンビのお客様、奥までどうぞー」


ミナミは、地面に倒れたままそれを見ていた。


妹を埋めた。


バットを持って歩いた。


ようやく、避難所に着いた。


でも、助からなかった。


最後に、なぜかアッシュの顔が浮かんだ。


最低な男。


何も覚えていない男。


それでも、妹の墓を掘る時だけは、逃げなかった男。


ミナミは小さく息を吐いた。


「……ほんと、最悪」


その声は、誰にも届かずに息を引き取った。



一方、南へ向かったアッシュは、荒れた道路を歩いていた。


前に聞こえた声からは、全力で逃げた。


ファンか。


女か。


ゾンビか。


元カノか。


確認していない。


確認しない判断をした自分を、アッシュはかなり高く評価していた。


「声をかけられたら逃げる。今日の俺はかなり学習してる」


壊れた道路標識の下を通り過ぎる。


「何が何だかわからない相手に、会話から入る方が悪い」


しばらく進むと、大型倉庫が見えた。


元はショッピングセンターの配送拠点だったのかもしれない。


広い敷地。


高いフェンス。


入口にはバリケード。


車両を並べて作った壁は、まだ崩れていない。


なのに、人の声がしない。


アッシュは門の前で足を止めた。


「すみませーん。善良寄りの美男子が通りますよー」


返事はない。


「水か飯か煙草をくれたら、善良の割合を上げる準備はありますよー」


やはり返事はない。


アッシュは周囲を見る。


フェンスは残っている。


入口も生きている。


中は静かすぎる。


「無人。バリケード無傷。中は静か。普通なら罠だな」


少し黙る。


腹が鳴った。


「でも俺、罠より空腹の方が怖いんだよね」


アッシュは隙間から中へ入った。


敷地内には、争った跡があった。


倒れた机。


破れた毛布。


空の薬箱。


床に伸びた黒い筋。


だが、死体はほとんどない。


誰かが片づけたのか。


あるいは、片づける必要のあるものを、どこかへ運んだのか。


アッシュは少しだけ顔をしかめる。


「ここ、避難所っていうより、避難できなかった所だな」


それ以上は考えなかった。


考えても飯は出ない。


奥へ進む。


倉庫の中は薄暗い。


棚が倒れ、段ボールが破れ、床には食料の包装紙が散っている。


ほとんどは空だった。


だが、さらに奥。


管理室の先にある保管室だけは違った。


扉の鍵は壊れている。


中には物資があった。


缶詰。


水。


乾パン。


菓子。


カップ麺。


酒。


煙草。


ライター。


毛布。


簡易燃料。


アッシュは立ち尽くした。


しばらく、声も出なかった。


やがて、天井を見上げる。


「神様、やればできるじゃん。最初からやれよ」


一歩入る。


煙草の箱を見つけた瞬間、顔が明るくなった。


箱を手に取る。


「お前ら……俺を待ってたのか」


まず煙草。


火をつける。


深く吸う。


肺の奥に煙が落ちる。


世界が、少しだけまともになる。


次に酒。


蓋を開ける。


飲む。


缶詰を開ける。


食う。


菓子を破る。


食う。


また酒。


また煙草。


「避難所って、こういう意味だったのか」


アッシュは床に座り込み、満足そうに笑った。


「俺を避難させる所」


誰もいない。


泣く女もいない。


撃つ女もいない。


食べようとする女もいない。


ただ飯があり、水があり、酒があり、煙草がある。


「女が絡まないと、人生ってこんなに優しいんだな」


少し考える。


「まあ、目の前にいたら口説くのを我慢できないが」


それからまた飲んだ。


食った。


吸った。


昨夜から寝ていない。


病院では燃やされかけ、ヘリで空を飛んだと思ったら墜落し、山を下り、走り、逃げ、元カノに食われかけ、穴を掘り、煙草を吸って、また歩いた。


疲れが、一気に来た。


アッシュは酒瓶を抱え、煙草の箱をそばに置き、床へ寝転がる。


「今日はもう十分働いたな」


実際には、ほとんど逃げていただけだった。


それでも本人の中では、かなり働いたことになっていた。


目を閉じる。


数秒後には眠っていた。




次に目を覚ました時、アッシュは椅子に縛られていた。


頭が痛い。


口が酒臭い。


手首が痛い。


目の前には、派手な女がいた。


金髪に近い髪。


化粧の残った顔。


手には拳銃。


周囲には、女ばかりの武装集団。


机の上には、アッシュが消費した残骸が並べられていた。


空き缶。


空き瓶。


吸い殻。


菓子袋。


開いた缶詰。


女は笑顔だった。


笑顔だが、目は笑っていない。


「アッシュ」


「はい」


「てめえ、ウチらの拠点で何してんの?」


アッシュは数秒考えた。


「朝から美女に囲まれてる。俺、まだ夢の中?」


周囲がざわつく。


「は?」


「状況分かってんの?」


「いや、顔だけはマジでいいな」


「声もいい」


「でも縛られてそれ言うの、普通にキモくね?」


派手な女は、煙草をくわえたままアッシュの前にしゃがんだ。


「もう一回聞くね。てめえ、ウチらの拠点で何してんだ?」


アッシュは真面目に答えた。


「宿泊?」


女のこめかみが動いた。


「許可出した覚えないんだけど」


「チェックインの人がいなかったから、セルフで」


「酒、飲んだよね?」


「飲める状態だったからね」


「食料、食ったよね?」


「食べ物は食べられるために生まれてきたんだよ」


「煙草、吸ったよね?」


アッシュは少しだけ真剣な顔になった。


「煙草に関しては、出会った瞬間から運命だった」


女が銃口を向ける。


「殺されたい?」


「できれば、もう少し飲んでからがいい」


手下たちの中から、笑いが漏れた。


「こいつヤバ」


「反省の概念ある?」


「最低じゃん」


「でも顔はいい」


「顔で許すには被害が重すぎる」


派手な女は、ふっと笑った。


「変わんないね、アッシュ」


アッシュは目を細める。


「その言い方、元カノ?」


女の笑顔が止まった。


「リナだよ」


「リナ」


「駅前のライブバーで会って、ウチの部屋に転がり込んで、三日で酒と金と服と充電器を消費して、最終日に財布から一万抜いて消えた」


アッシュは記憶を探った。


「……充電器は返した気がする」


「一万は?」


「世界が終わったから時効じゃない?」


「終末を借金の免罪符に使う男、初めて見た」


「俺も初めて使った。手応えはある」


リナは笑った。


けれど、その笑いは少し歪んでいた。


「殺したいくらいムカつく」


アッシュは軽く微笑む。


「殺したいくらい覚えてくれてるってことは、思い出としては上質だったんじゃない?」


「その口、先に縫う?」


「歌う仕事だったから、口元への暴力は事務所を通してほしい」


「今どこの事務所にも守られてねえだろ」


「夢の中では全国区なんだけどね」


リナは顎を掴んだ。


「殺す前に歌わせる?」


手下が笑う。


「いいじゃん」


「処刑ライブ?」


「謝罪ソング作らせようよ」


「タイトルは?」


リナはアッシュを見る。


「財布から一万抜いてごめんなさい」


アッシュは眉をひそめた。


「売れないだろ、その曲」


「売るためじゃねえよ」


「じゃあ歌う意味が薄いな」


「こいつ本当に反省しねえ」


リナが銃を下ろした。


その代わり、楽しそうに笑う。


「決めた。殺す前に遊ぶ」


アッシュは椅子に縛られたまま、周囲を見た。


「殺す前に一曲って、順番がロックすぎるだろ」


リナが何か言いかけた時だった。


外から、声がした。


「楽しそうじゃん」


軽い声。


生意気で、冷たい声。


「こっちは全然楽しくないけど」


倉庫の入口に、人影が立っていた。


小柄な女だった。


特殊部隊の黒い装備。


肩にかかる髪。


銃を構える姿勢だけで、素人ではないと分かる。


その後ろには、武装した隊員たち。


女はアッシュを見た。


縛られている。


女に囲まれている。


酒と煙草の残骸の真ん中にいる。


そして本人は、どこか困ったようで、少し楽しそうですらある。


女は目を細めた。


「……何してんの、あんた」


アッシュは、即座に学習した。


名前を呼ばない。


下手に呼ぶと死ぬ。


でも、覚えている風にする。


「久しぶり。相変わらず入場が物騒だね」


女は鼻で笑った。


「名前、呼ばないんだ」


「こういう再会は、言葉より空気で味わうものだろ」


「忘れてるんでしょ」


「忘れてない。輪郭が少しぼやけてるだけ」


「それを忘れてるって言うの。馬鹿なの?」


カエデは鼻で笑い、銃口を少しだけ下げた。


「まあいいわ。カエデよ? 思い出した?」


アッシュは、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「……カエデ」


「今、名前を復唱しただけでしょ」


「名前って、呼ぶところから関係が始まるだろ」


「終わってるのよ。とっくに」


「じゃあ今のは延長戦?」


「尋問よ」


隊員の一人が小さく息を吐く。


「隊長」


女――カエデは、片手で制した。


「まだ撃たない。まだね」


リナが笑った。


「アンタも忘れられてんじゃん」


カエデはリナを見る。


「元カノ?」


リナが笑い返す。


「そっちこそ」


カエデは小さく顎を上げた。


「私は元カノじゃない」


「じゃあ何?」


「元被害者」


アッシュが口を開く。


「すぐ被害者するよな……女って」


銃口が三つ、同時にアッシュへ向いた。


カエデはにっこり笑った。


「黙れ、逃げ足だけ一流のクズボーカル」


アッシュは背筋を伸ばす。


「ボーカルへの偏見が強い」


リナが言う。


「クズボーカルは合ってる」


「二人とも初対面でハモるな。俺を通じて友情が生まれそうで怖い」


カエデの笑みが、少しだけ消えた。


「前は友情を壊したのよ」


倉庫の空気が一度下がった気がした。


リナが面白そうに眉を上げる。


「何それ」


カエデはアッシュを見た。


「ミズキ」


アッシュは言いかけた。


「水――」


そこで止まる。


今、間違えたら撃たれる。


リナの時で学んだ。


アッシュは、静かに表情を整えた。


「……懐かしい名前だな」


カエデは目を細める。


「今、思い出したフリしたでしょ」


「フリじゃない。記憶が今、客席から手を振ってる」


「抽象的に逃げるな」


カエデは一歩近づいた。


「ミズキは私の部下だった。真面目で、従順で、私の言うことをよく聞いた」


声は軽い。


けれど、奥が冷えている。


「なのに、あんたのライブに行ったあと、変わった。私に逆らうようになった。あんただけは譲れないって」


リナが低く呟く。


「うわ」


カエデは続けた。


「あんたは私にも声をかけた。ミズキにも声をかけた。別々に、違う顔で」


アッシュは曖昧に笑う。


「俺、知らない間に風紀を乱した?」


カエデの銃口が少し上がる。


「ミズキは死んだ」


笑いが消えた。


「避難民を逃がして、戻ってこなかった。最後まで馬鹿みたいに真面目だった」


カエデはアッシュを見る。


「何か言うことは?」


アッシュは黙った。


覚えていない。


顔も、声も、話した内容も曖昧だ。


ただ、ここで本当にそう言えば、死ぬ。


だから、彼は言った。


「……惜しい人を亡くした」


カエデの目が冷える。


「それ、誰にでも言える言葉ね」


「こういう時、言葉は難しい」


「顔、思い出せる?」


アッシュは答えない。


「声は?」


答えない。


「どんな話をしたかは?」


アッシュは薄く笑った。


「俺、ライブ後の会話って、だいたい煙と酒でぼやけるんだよ」


カエデは静かに笑った。


「やっぱり覚えてない」


リナが横から言う。


「今のは撃っていいわ」


カエデはアッシュから目を離さない。


「足なら検討中」


アッシュは椅子の上で身を引いた。


「元カノ会議で俺の足を議題にするの、やめない?」


カエデとリナが同時に言った。


「黙れ」


カエデは本題へ戻った。


「端末はどこ?」


アッシュの表情が、ほんの少しだけ変わる。


端末。


川の中に沈めたもの。


渡してはいない。


見せてもいない。


捨てただけ。


少なくとも、アッシュの中ではそういうことになっている。


だが、それを正直に言えば、自分の価値が下がる。


尋問が終われば、足を撃たれるかもしれない。


最悪、殺される。


だからアッシュは、笑った。


「安全な場所」


カエデが舌打ちする。


「どこ?」


「少なくとも俺のポケットではない」


「誰かに渡した?」


「渡してはいない」


「見せた?」


「見せるほど余裕がなかった」


「中身は?」


「難しい画面を見ると眠くなるタイプだから」


「複製は?」


「俺はしてない」


「他の誰かがした可能性は?」


「それを俺に聞くの、たぶん窓口間違えてる」


カエデは一歩近づき、アッシュの額に銃口を当てた。


「ふざけてる?」


「割と真面目に困ってる」


「端末の場所」


アッシュはカエデを見上げる。


「一度は愛を語りあった相手に向ける言葉じゃないよ、それ」


カエデの頬がぴくりと動いた。


一瞬だけ。


ほんの一瞬だけ、目が揺れた。


すぐに笑顔で隠す。


「任務よ。勘違いしないでくれる?」


「任務でそんなに俺の目を見る?」


「撃つ場所を選んでるだけ」


「照れるな」


「死ね」


リナが笑った。


「あはは、未練ない顔じゃないって」


カエデはリナを見た。


「黙って。略奪者が私に恋愛講座?」


「恋愛じゃなくて被害者講座」


「避難所襲ってる時点で、加害者に転職済みでしょ」


リナの顔から笑みが消える。


「この屑よりマシでしょ」


「比較対象が底辺すぎるのよ」


アッシュが口を挟む。


「二人で俺の信用を解体するな」


カエデが言う。


「あんたは昔からそう。都合の悪い話になると、言葉を薄めて、煙に巻いて、相手が怒り疲れるまで待つ」


リナがうなずく。


「分かる。怒ってるこっちが馬鹿みたいになるやつ」


「しかも、少し笑わせてくる」


「分かる。殺す前に一回笑っちゃうの腹立つ」


「最悪なのは、その後に逃げる」


「分かる!」


アッシュは黙った。


二人はアッシュの話をしている。


アッシュの悪口で盛り上がっている。


だが、今この瞬間、誰もアッシュ本人を見ていない。


カエデはリナを見ている。


リナはカエデを見ている。


手下たちは特殊部隊を警戒している。


特殊部隊はリナ一味を見ている。


アッシュは知っていた。


女同士が「こいつ最低」で繋がり始めた時、たいてい本人の拘束は緩くなる。


打ち上げでも。


楽屋でも。


修羅場でも。


自分の悪口が一番盛り上がっている瞬間こそ、退場の合図である。


縄は雑だった。


リナたちは略奪者であって、拘束は素人だった。


近くには割れた酒瓶。


アッシュは、少しずつ手首を動かした。


リナはカエデに言う。


「アンタ、任務ならその顔やめなよ」


カエデは笑う。


「どの顔?」


「昔の女の顔」


「撃つわよ」


「ほら、図星じゃん」


「あんたこそ、殺す気なら何でまだ生かしてたの?」


「殺す前に遊ぶって言ったじゃん」


「それを未練って言うのよ」


「違うし!」


アッシュの縄が切れた。


誰もまだ気づいていない。


出口へ向かう。


そこで、カエデが振り向いた。


「アッシュ」


リナも気づく。


「てめえ!」


アッシュは軽く手を上げた。


「盛り上がってるところ悪いけど、俺、次の会場あるから」


「待ちなさい!」


「アンコールはまた今度!」


アッシュは走った。


外へ飛び出す。


敷地の隅に止めてあったバイクを急いで確認する。


鍵が付いているものがあった。


エンジンがかかる。


「俺の話で盛り上がってる時って、だいたい俺を見てないんだよな」


アクセルを回した。


バイクが走り出す。


背後で怒声が上がる。


銃声もした。


だが、もう遅い。


アッシュは門を抜け、荒れた道路へ飛び出した。


アッシュが消えた瞬間、倉庫の空気が変わった。


カエデはリナを見た。


「殺さない理由、なくなったわね」


リナが銃を構える。


「は?」


カエデは笑った。


生意気な、挑発するような笑みだった。


「私のストレス発散に付き合いなさい。拒否権ないから」


次の瞬間、特殊部隊が動いた。


リナ一味も撃ち返す。


だが、差は明らかだった。


人数はリナたちの方が多い。


だが、統制がない。


遮蔽物の使い方も甘い。


弾の撃ち方も荒い。


対して、カエデの隊は無駄がなかった。


短く指示が飛ぶ。


射線が切られる。


一人ずつ、確実に落とされていく。


リナは棚の陰に転がり込み、悪態をついた。


「何なのよ、あのメスガキ……!」


「聞こえてるわよ」


カエデが横から現れた。


銃口がリナを捉えている。


リナは笑った。


血が口元に滲んでいた。


「アンタも結局、アッシュに振り回されてんじゃん」


カエデは否定しなかった。


「そうよ」


引き金に指をかける。


「だから腹が立ってるの」


リナは、少しだけ笑った。


「最低の元カレ持つと大変だね」


カエデは近づく。


「違うわ」


「何が?」


「最低なのは、彼氏だったことじゃない」


銃口が下がる。


リナの額に向く。


「まだ追ってることよ」


銃声。


リナは倒れた。


戦闘は長く続かなかった。


だが、音は十分すぎた。


外から呻き声が聞こえる。


一つではない。


いくつも。


隊員が走ってくる。


「隊長、リナ一味は制圧。ですが感染者が接近しています」


カエデは、アッシュが逃げた方を見る。


「追う」


「無理です」


カエデが振り返る。


「はぁ? 泣き言なら教育隊に送り返すわよ」


隊員は真顔で答えた。


「教育隊がまだ機能しているなら喜んで戻ります。それと、現実的に不可能です」


別の隊員が続ける。


「こちらは夜通し山を捜索しています。負傷者あり。車両燃料も残り少ない。今の銃撃で感染者が集まっています」


「アッシュはバイクです」


「ここで追えば、こちらが孤立します」


カエデは歯を食いしばった。


追いたい。


端末の場所を吐かせたい。


流出の有無を確認したい。


ミズキの顔を、思い出せと言いたい。


忘れたまま笑っているあの男の顔を、殴りたい。


撃ちたい。


撃ち殺したい。


けれど、部下を死なせるわけにはいかない。


カエデは小さく息を吐いた。


「……撤退」


隊員たちが動き出す。


カエデは最後に、道路の向こうを見た。


「次は逃げられないように足から撃つ」


少し間。


「その後で端末の場所を吐かせる」


さらに間。


「それから、ミズキの顔を思い出すまで楽にさせない」


隊員が小声で言った。


「隊長、尋問項目が私情混じりです」


カエデは振り返る。


「任務よ、文句ある?」


隊員は即答した。


「了解。任務です」


夜明けの道路を、バイクが走っていた。


アッシュは風を受けながら、機嫌よく笑っている。


ポケットには煙草。


少しの酒。


保存食。


全部、リナの拠点から持ち出したものだった。


背後では、まだ遠く銃声が聞こえる。


感染者の声も混ざっている。


アッシュは前だけを見ていた。


「飲んで食って逃げただけなのに、達成感がすごい」


アッシュは久しぶりに満足気に笑った。


「物資の循環に貢献して、元カノ同士の交流を促して、バイクの有効活用までしてる」


少し考える。


「俺、終末社会の潤滑油じゃない?」


さらに走る。


「問題は、また女の持ち物で逃げてることだけど」


一瞬気分が落ち込むがすぐに元に戻る。


「まあ、女の持ち物って俺に似合うんだよな」


最低だった。


アッシュは煙草をくわえる。


風で火がつかない。


何度かライターを鳴らす。


「それにしても性格悪いな、この世界の神様」


ようやく火がついた。


煙を吸う。


「生きてるだけでアンコール。俺の人生、だいぶロックだわ」


彼は知らない。


ミナミが死んだことを知らない。


リナが死んだことも、すぐ忘れるかもしれない。


カエデがミズキの名を背負って追っていることも、都合よく半分しか覚えていない。


端末は川の中。


だが、それを言えば自分の価値が下がる。


だから言わない。


誰にも渡していない。


誰にも見せていない。


だから問題は減った。


アッシュの中では、そういうことになっていた。


だが、カエデは信じない。


他の組織も信じない。


アッシュが情報端末を持っていると思う。


アッシュが何かを知っていると思う。


アッシュ本人だけが軽い。


何も持っていない。


何も背負っていない。


それでも、追われる理由だけは増えていく。


アッシュは煙草を指に挟み、朝焼けの道を見た。


「次こそ、女も軍もゾンビも国家機密もない場所で休みたいねえ」


少し間を置く。


「まあ、そういう場所ってだいたい酒も煙草もないんだけど」


バイクは、夜明けの道路を走っていった。

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