06.かなり危険じゃない?
山の夜は、思ったより寒かった。
街の灯りは遠く、木々は墨を流したように黒い。獣道は濡れてぬかるみ、斜面を下るたび、靴の中で水が嫌な音を立てた。
アッシュは、何度目か分からないため息をつく。
「俺、何かした?」
誰もいない夜道に、声だけが落ちた。
「俺、ただ歌って、飯食って、煙草を要求してただけなんだけど」
濡れた靴を見下ろす。
「それがなんで病院は燃えるし、ヘリは落ちるし、軍と元カノに追われる話になるんだ」
返事はない。
ユリカはいない。
煙草もない。
酒もない。
あるのは水と包帯と、全身にまとわりつく疲労だけだった。
「美しい男に生まれるって、思ったより過酷だわ」
足元の石を蹴る。
石は斜面を転がり、暗い川の中へ落ちて小さく跳ねた。
「そろそろ世界の方から謝ってほしいんだけど」
当然、世界は謝らない。
代わりに、遠くで銃声がした。
一発。
続けて、数発。
軍か。
別の組織か。
あるいは、もう何を撃っているのか分からなくなった誰かか。
アッシュは音のした方を見た。
そして、迷わず逆方向へ歩き出す。
「音がした方へ行くやつ、だいたい死ぬからな」
その直後だった。
森の奥から、声がした。
「……アッシュ……」
足が止まる。
夜の木々の間に、人影があった。女の声。かすれて、湿って、妙に近い。
アッシュは一瞬で身構えた。
「また女かよ」
心の底から嫌そうな声だった。
人影が近づいてくる。
長い髪。
破れた服。
片足を引きずるような歩き方。
アッシュはじり、と一歩下がる。
「先に言っとくけど、俺は今、煙草も酒も持ってない。あと記憶もだいぶ品切れ気味だ。昔の約束とか言われても困るぞ」
女は答えない。
ただ、口を開いた。
「あ……しゅ……」
「怖い呼び方するな。名前を呼ぶなら、せめて色気のある声で頼む」
月明かりが、その顔を照らした。
濁った目。
腐りかけた頬。
血で汚れた口元。
もう、生きた人間の顔ではなかった。
ゾンビだった。
アッシュは、心底ほっとした。
「なんだ。普通のゾンビか」
肩から力が抜ける。
ゾンビ女は呻きながら手を伸ばしてくる。
「あ……しゅ……」
「はいはい、昔俺のファンだったんだろうな。応援ありがとうな」
アッシュは軽く手を振った。
「でも今は握手会やってないんだ。世間的にソーシャルディスタンスが大事な時期でね」
ゾンビ女がよろめきながら迫る。
アッシュは横へ飛んだ。
勢いを殺せなかったゾンビは足を滑らせ、斜面を転がり落ちていく。
ドスン、と重い音が山に響いた。
アッシュは、下でもがくゾンビ女を見下ろす。
「昔のファンにこんなこと言うのもなんだけど、山でのイベントは向いてないな」
ゾンビ女はなおも手を伸ばしていた。
「あ……しゅ……」
「名前覚えててくれるのは嬉しいよ。俺はたぶん覚えてないけど」
アッシュは背を向ける。
「じゃあな。次はもっと治安のいい会場で会おう」
歩き出した足取りは、さっきより少しだけ軽かった。
ゾンビはいい。
単純だ。
噛みに来る。
それだけだ。
泣かない。
撃たない。
燃やさない。
ヘリも落とさない。
国家機密も鞄に入れない。
「ゾンビって、実はかなり誠実なんじゃないか?」
そんなことを考えながら、アッシュは山道を下り続けた。
やがて、木々の隙間から朝日が差し始める。
山道の先に、舗装された道路が見えた。
街道だった。
かつては車が通っていた道。
今は、終末の日の渋滞がそのまま置き去りにされていた。
乗用車。
軽トラック。
バス。
大型トラック。
横転した車もあれば、ドアを開けたまま放置された車もある。割れた窓ガラスの内側には血の跡が残り、道路の端には何かを引きずったような黒い筋が伸びていた。
街から逃げようとした人間たちの残骸。
車列は、墓標のように道を塞いでいた。
アッシュはそれを見て、少しだけ真面目な顔になる。
「これ、誰が違反切符切るんだろうな」
すぐに軽口へ戻った。
車列の間を歩き、中を覗く。
食料はない。
水もない。
財布はあったが、今となっては紙束だ。
スマホもいくつか転がっていたが、どれも電源は入らなかった。
「これだけ財布があって、煙草一本買えないの納得いかないな」
さらに進むと、後部座席に半分だけ残ったスナック菓子を見つけた。
袋は開いている。
中身は湿気っている。
横には血がついている。
アッシュは静かに戻した。
「今の俺でも、これは元カノより怖い」
その時、道路脇の軽自動車の陰に倒れた原付が見えた。
小型のスクーターだ。
車体には傷があるが、まだ壊れてはいなさそうだった。
近づく。
鍵が刺さっている。
アッシュの顔が明るくなった。
「いいねえ。人類、最後にいい仕事したな」
原付を起こし、キックを踏む。
一度目はかからない。
二度目も沈黙。
三度目で、エンジンが震えた。
ぶるん、と小さな音を立てて、原付が生き返る。
アッシュは空を見上げた。
「女の約束より信頼できるな、鍵付きの乗り物」
後方で呻き声がした。
車の陰からゾンビが出てくる。一体ではない。車列の中に、まだ何体か残っていたらしい。
「悪いな、最前列でも噛むのは禁止だ」
アッシュは原付にまたがり、アクセルを回した。
原付は車列の隙間を抜けて走り出す。
風が顔に当たる。
遅い。
だが歩くよりは速い。
かなり速い。
アッシュは久しぶりに笑った。
「いいねえ! このくらいの速度で女難から逃げたい人生だった!」
ゾンビの呻き声が後ろへ流れていく。
横転した車の脇を抜け、割れたバス停を過ぎる。道は山を下り、少しずつ街へ近づいていった。
黒かった空の下に、建物の影が増えてくる。
郊外の住宅地だったのだろう。
今は灯りも少なく、ところどころで煙が上がっていた。
原付は順調だった。
少なくとも、三十分くらいは。
急にエンジンが咳き込んだ。
がくん、と車体が揺れる。
「おい」
もう一度アクセルを回す。
ぶるる、と弱い音。
そして、沈黙。
原付は道の途中で完全に止まった。
アッシュはしばらく黙り、メーターを見る。
燃料は空だった。
「文明」
静かに言う。
「見捨てるの早くない?」
蹴り飛ばしたい衝動はあった。
だが、やめた。
今の自分よりは役に立った。
それだけは認めるべきだった。
アッシュは原付を道端に寄せる。
「短い付き合いだったな。お前はいい女だったよ」
少し考え、付け加えた。
「いや、女扱いすると後が怖いから、いい乗り物だったよ」
そして、また歩き始めた。
街は近い。
山はほとんど降りた。
遠くに住宅地が見える。店もある。小さな橋も、壊れた信号も。
うまく行けば、食料も水も見つかる。
もしかすると煙草もある。
アッシュは少しだけ希望を持った。
その希望は、数分後に面倒な形で裏切られた。
道端に、女が倒れていた。
若い女だった。
髪は乱れ、服は汚れ、片手が道路へ投げ出されている。うつ伏せで、ほとんど動かない。
アッシュは足を止めた。
見た。
若い。
たぶん生きている。
たぶん綺麗。
つまり、面倒くさい。
アッシュは、そっと進路を変えた。
女を大きく迂回する。
足音を殺す。
見なかったことにする。
「ここで助ける男は偉い。そして俺は偉くない」
そう呟いた瞬間、足首を掴まれた。
「ひっ」
情けない声が出た。
倒れていた女の手が、アッシュの足首を掴んでいる。指は冷たかった。
女がゆっくり顔を上げる。
「アッシュさん……ですよね?」
アッシュは即答した。
「違います」
「顔を見て言ってください」
「顔を見たら思い出す可能性があるだろ」
女は痛そうに眉を寄せた。
「やっぱり……忘れてるんですね」
「その導入、最近かなり聞いてる」
「私です」
「誰だよ。ファンか?」
「違います」
女は身体を起こそうとする。
アッシュは足を引こうとしたが、妙に力が強い。
「デートの途中で、私を置いて消えたじゃないですか」
アッシュは黙った。
記憶を探る。
デート。
置いて消えた。
候補が多すぎる。
「……場所は?」
「映画館です」
「映画館か」
「覚えてますか?」
「映画館で女を置いて消えたことは、何回かある」
「最低です」
「俺もそう思う」
女の目に涙が浮かぶ。
「ひどいです。ずっと待ってたのに」
「待たせた自覚はあるけど、ここまで待つとは思わないだろ」
「アッシュさんは、何も変わってないんですね」
「いや、変わったよ。今は煙草がない」
「そういうところです」
女はアッシュの足首を離し、ふらつきながら立ち上がった。
整った顔だった。
終末前なら、きっと目立つ女だったのだろう。
ただ、肌は少し青白い。
目も時々、焦点がずれる。
アッシュはそれに気づいた。
気づいたが、口には出さない。
出すと関係者になる。
「悪いけどさ」
一歩下がる。
「世界は変わったんだ。もう元の関係には戻れない」
女は悲しそうに見つめてくる。
「私たち、付き合ってたんですよ?」
「そういう記録が俺の中で曖昧なんだよ」
「最低」
「それは否定しない」
「じゃあ、謝ってください」
「ごめん」
「軽い」
「重く謝ると責任が発生する」
女の視線が離れない。
アッシュはさらに下がった。
「じゃあ、俺はこれで」
「待って」
「待てない。俺は今、いろんな勢力に追われてる気がする」
「私も一緒に行きます」
「それはもっと追われる理由が増えるやつだな」
「置いていくんですか?」
「置いていくっていうか、それぞれの人生を尊重したい」
「また逃げるんですね」
「逃げるって言うな。生き残りに行くと言ってくれ」
アッシュは歩き出した。
女もついてくる。
足取りは弱い。
なのに、遅れない。
あれだけ道端に倒れていたのに、妙にしっかり歩いている。
何かがおかしかった。
「なあ」
アッシュは前を向いたまま言う。
「お前、名前なんだっけ?」
女の足が止まった。
「……本当に覚えてないんですね」
「ヒントをくれ」
「ミオです」
「ミオ」
アッシュは繰り返す。
「いい名前だな」
「そうやって、前も言いました」
「俺、語彙が少ないんだよ」
「あと、私はファンじゃありません」
「そこまだ気にしてたの?」
ミオは黙って歩いた。
沈黙が、妙に湿っていた。
呼吸が荒い。
時々、喉の奥で変な音が鳴る。
アッシュが横目で見ると、ミオは少しだけ笑った。
「アッシュさん」
「何?」
「私の家、すぐそこなんです」
「家?」
「はい。食べ物もあります。水もあります」
アッシュの足が止まった。
「煙草は?」
「分かりません。でも探せばあるかも」
「行こう」
「早いですね」
「人間、希望には素直であるべきなんだよ」
ミオは嬉しそうに笑った。
その笑顔だけは、普通の女に見えた。
住宅地へ入る。
静かな町だった。
車は放置され、窓の割れた家もある。それでも、山の中よりはずっと人間の気配が残っていた。
ミオの家は、少し古い二階建てだった。
門扉は閉まり、玄関には鍵がかかっている。
ミオはポケットから鍵を出した。
手が震えていた。
鍵穴に、なかなか入らない。
アッシュはそれを見る。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
「かなり大丈夫じゃない手つきだけど」
「お腹が空いているだけです」
「食料あるのに?」
ミオの手が、一瞬だけ止まった。
すぐに鍵が回る。
「入ってください」
玄関の中は暗かった。
だが、荒れてはいない。
靴は揃っている。
棚も倒れていない。
文明崩壊後の家にしては、妙に綺麗だった。
ミオは奥のリビングへ案内する。
カーテンは閉まっていた。
テーブルには缶詰がいくつも並んでいる。
保存食。
ペットボトルの水。
乾パン。
栄養補助食品。
レトルト食品。
かなりの量だった。
アッシュの目が輝く。
「いい家だな」
「ありがとうございます」
「水もある」
「はい」
「保存食もある」
「はい」
「缶詰もある」
「はい」
アッシュはテーブルを見た。
そして、ミオを見る。
「じゃあ、なんで道で倒れてたんだ?」
部屋が静かになった。
外から、遠くの呻き声が聞こえる。
ミオはテーブルの前で立ち止まっていた。肩が小さく震えている。
「……足りないんです」
「何が?」
「缶詰じゃ」
ゆっくり、彼女が振り向いた。
顔が変わっていた。
目の焦点はずれ、口元が引きつり、唇の端から涎が垂れている。指先は歪み、爪が床を引っかくように伸びていた。
笑っている。
けれど、それは人間の笑顔ではなかった。
「足りないんです」
ミオの声は涙混じりだった。
「お腹が、ずっと空いてて」
「ミオさん?」
「人の匂いがすると、分からなくなるの」
「それ、だいぶ人類側としては困る体質だな」
「アッシュさん」
ミオが一歩近づく。
喉の奥で、獣のような音が鳴った。
「私のこと、忘れたんですよね」
「覚えようとしてる最中ではあった」
「じゃあ」
ミオの口が裂けるように開く。
「食べたら、覚えてくれますか?」
アッシュは反射で後ろへ飛んだ。
椅子が倒れ、缶詰がテーブルから転がり落ちる。
ミオが跳んだ。
速い。
普通のゾンビではない。
床を蹴り、低い姿勢で飛びかかってくる。
アッシュはリビングの入口へ転がるように逃げた。
「そういう意味で足りないって言ったのかよ!」
ミオの爪が壁紙を裂く。
アッシュは廊下へ飛び出した。
「缶詰食え! 缶詰! 人間より保存が利くぞ!」
背後から、ミオの声が追ってくる。
「アッシュさん!」
「呼び方だけ元カノなのやめろ!」
玄関へ走る。
靴を履く暇はない。
アッシュはそのまま外へ飛び出した。
夜風が顔に当たる。
門扉を押し開ける。
そこで、固まった。
家の前に、女が立っていた。
ミオと同じ顔だった。
同じ髪。
同じ目元。
同じ背格好。
だが、こちらは生きている。
目は濁っていない。
手には、金属バット。
アッシュは彼女を見る。
背後では、捕食者になったミオが廊下を走ってくる音がする。
前には、同じ顔の女がバットを握っている。
アッシュは静かに言った。
「……もういい」
女が眉をひそめる。
「え?」
アッシュは両手を少し上げた。
「これはもう、俺の美貌でも処理できない」
バットが振り上げられる。
アッシュは目を閉じた。
次の瞬間、鈍い音がした。
ぐしゃり、という嫌な音。
だが、痛みは来ない。
目を開ける。
バットで殴られていたのは、後ろから飛びかかってきたミオだった。
ミオの身体が玄関前の石畳に転がる。
同じ顔の女は、バットを握ったまま荒い息をしていた。
肩が震えている。
目には涙が浮かんでいた。
怒り。
悲しみ。
恐怖。
覚悟。
その全部が混ざった目だった。
アッシュは恐る恐る言う。
「……助かった?」
女がアッシュを睨んだ。
「なんで」
声が震えている。
「なんでアッシュが、私の家にいるの?」
アッシュは一瞬で理解した。
ここは、ミオの家ではない。
この女の家でもある。
同じ顔。
双子。
そして、どちらにも覚えがある気がする。
最悪だった。
非常に最悪だった。
「待て」
アッシュは両手を上げる。
「説明できる」
女はバットを握り直した。
「じゃあ説明して」
アッシュは倒れているミオを見る。
バットを持つ女を見る。
もう一度、ミオを見る。
「……双子って、難しいよな」
女の目が冷えた。
「死ね」
「説明の途中だろ!」
女はバットを振った。
アッシュは横へ跳ぶ。
バットが門柱に当たり、鈍い音を立てる。
「危ないだろ!」
「危ない目に遭わせてきたの、誰だと思ってるの!」
「俺?」
「分かってるなら殴られて!」
「分かってるから避けてる!」
倒れていたミオが、ぐぐ、と動いた。
完全には止まっていない。
女はそちらを見る。
その顔が、壊れそうになる。
「ミオ……」
妹の名前を呼ぶ声だった。
アッシュは女を見る。
「お前は?」
女はバットを握りしめたまま答える。
「ミナミ」
「ミナミ」
「覚えてないんでしょ」
「候補はかなり絞れた」
「死ね」
「最近、それ言われる頻度高いな」
ミナミはミオへ近づいた。
バットを持つ手が震えている。
ミオは地面に倒れたまま、かすれた声で笑った。
「……ごめん、お姉ちゃん」
ミナミは息を詰める。
「ミオ……」
「私、我慢してたの。ずっと。人を食べたくて、でも、駄目だって思って」
ミオの目から涙が落ちた。
「でも……アッシュさんなら、食べてもいいかなって」
空気が止まった。
アッシュが、自分を指差す。
「待て。俺の扱い、恋愛対象から食材に変わるの早すぎない?」
ミナミが泣きながら睨む。
「黙って」
「いや、黙るけど。元カノに非常食扱いされたの初めてなんだけど」
「初めてで済むと思ってるの?」
「今の、かなり怖い返しだな」
ミオは苦しそうに手を伸ばした。
「ごめん……ごめんね……私……また……」
「喋らないで」
ミナミの声は震えていた。
「もういいから」
「お腹……空いて……私……人を……」
「喋らないで!」
ミナミが叫ぶ。
それでも、バットは振り下ろせない。
アッシュは一歩下がった。
これは、関わると重い。
かなり重い。
しかも、自分はだいぶ原因側にいる気がする。
「じゃあ、姉妹の感動的な時間を邪魔するのも悪いし」
ミナミがアッシュを睨む。
「逃げる気?」
「俺がいると話がこじれるだろ?」
「逃げる気でしょ」
「こじれる前に消えるのは優しさだろ」
ミオが、ゆっくりアッシュを見る。
目がまた濁り始めていた。
「アッシュさん……」
「俺を見るな。お前の中の食欲が元気になる」
ミオの肩がびくびく震える。
ミナミは歯を食いしばった。
「妹が感染したって聞いたの」
アッシュは黙った。
「変異種だって。普通のゾンビじゃない。時々戻る。でも戻っても、すぐまた人を食べたがる」
ミナミの声が低くなる。
「だから、今日は覚悟を決めて来た」
バットを持つ手に力がこもった。
「妹を殺すために」
ミオが小さく泣いた。
「お姉ちゃん……」
ミナミの顔が歪む。
「なのに」
彼女はアッシュを見る。
「なんで、あなたがいるの」
アッシュは少し考えた。
「俺も知りたい」
「ふざけないで」
「ふざけてない。山を下りて、原付が止まって、道端の女に掴まれて、保存食があるって言われたらここにいた」
「それを普通は釣られたって言うの」
「俺は被害者だ」
ミナミはバットを下ろさない。
「ねえ、ミオにも手を出してたの?」
アッシュは沈黙した。
「私にも手を出したよね」
アッシュはさらに沈黙した。
ミナミの目が据わる。
「黙るな」
「沈黙も回答の一種かなって」
「最低」
「それは知ってる」
「姉妹って知ってた?」
「途中で気づいたかもしれない」
「途中?」
「人生って、途中で気づくこと多いだろ」
ミナミは、今度こそ本気でバットを振り上げた。
その瞬間、ミオが跳ねる。
人間の声ではない叫びを上げ、ミナミへ飛びかかった。
ミナミは反応した。
だが、遅い。
アッシュは近くに落ちていた缶詰を蹴った。
転がった缶詰がミオの足元に当たり、体勢をわずかに崩す。
ミナミのバットが、その頭を横から打った。
鈍い音。
ミオが地面へ倒れる。
今度は、動かなかった。
ミナミはバットを握ったまま固まっていた。
呼吸が荒い。
涙が頬を流れている。
「……ミオ」
返事はない。
ミナミはその場に膝をついた。
バットが手から落ちる。
金属音が、夜の住宅地に転がった。
アッシュはそれを見ていた。
何かを言うべきか。
何も言わないべきか。
珍しく迷った。
そして、言った。
「……俺のおかげで一発入ったな」
ミナミが、ゆっくり顔を上げた。
「今、それ言う?」
「慰め方の選択肢が少なくて」
「最低」
「知ってる」
「本当に最低」
「二回言うなよ。効くときは効く」
「効いてるの?」
「少し」
ミナミは笑った。
泣きながら。
壊れたように。
「変わらないね」
アッシュは答えない。
ミナミは倒れた妹を見る。
「ミオは、あなたのこと好きだった」
「そうなの?」
「本当に忘れてるんだ」
「かなり曖昧」
「私も好きだった」
「……そこは、覚えている気がする」
「都合いいね」
「俺の記憶、だいたい都合でできてる」
ミナミは小さく笑った。
そして、バットを拾う。
アッシュは一歩下がった。
「まだ殴る?」
「殴りたい」
「そこは過去形にしてほしい」
「でも今は、妹を埋めたい」
声は静かだった。
アッシュは住宅街の道を見る。
遠くで、呻き声が増えている。
さっきの騒ぎと血の匂いで、周囲のゾンビが寄ってきているのだろう。
「あまり時間ないぞ」
「分かってる」
「埋めるなら、早めに」
「手伝って」
「俺?」
「あなたが関係ない顔するのは、さすがに許さない」
アッシュは庭と、道と、ミナミの持つバットを順番に見た。
逃げ道はある。
あるが、バットの射程もある。
それに、家の中には保存食と水がある。
煙草もあるかもしれない。
アッシュは静かに息を吐いた。
「……分かった」
ミナミが少し驚いた顔をする。
「本当に?」
「ただし先に言っておく。俺は穴掘りで女にいいところを見せたことがない」
「今、そういう話じゃない」
「あと、深い穴は無理だ。俺の人生、基本的に浅く広くやってきたから」
「最低」
「手伝うって言ってるだろ」
ミナミは物置からスコップを持ってきた。
一本だけだった。
アッシュはそれを見て、真顔になる。
「俺の分は?」
「手で掘って」
「この扱い、過去の清算として重すぎない?」
「まだ軽い方よ」
結局、ミナミがスコップで土を崩し、アッシュが板切れでそれを避けた。
途中で何度も休もうとした。
「そろそろ十分じゃない?」
「浅い」
「終末世界の墓に深さを求めるなよ。土地も人手も足りてないんだぞ」
「黙って掘って」
「はい」
ミオの身体を運ぶ時、ミナミは泣きそうになった。
アッシュは何か言おうとして、やめた。
優しさではない。
ここで言葉を間違えたら、たぶん本当に殴られると思ったからだ。
土をかけ終えた時、ミナミは小さな缶詰を土の上に置いた。
アッシュは反射的に口を開いた。
「それ、食えるぞ」
ミナミが睨んだ。
「言うと思った」
「いや、今の世界で缶詰を墓に置くの、かなり富豪の弔いだろ」
「黙って」
「はい」
アッシュは一度うなずき、それから小声で付け足した。
「せめて空き缶にしない?」
「黙って」
「はい」
二人は家へ戻った。
リビングは荒れていた。
缶詰が転がり、椅子は倒れ、壁にはミオの爪痕が残っている。
ミナミは棚からリュックを取り出した。
保存食。
水。
包帯。
懐中電灯。
ライター。
それらを手早く詰めていく。
ライターを見た瞬間、アッシュの目が少し輝いた。
「煙草は?」
ミナミは無言で引き出しを開けた。
古い煙草の箱が一つ出てくる。
アッシュの顔が本当に明るくなった。
「あるじゃん」
「父のよ。古いけど」
「古い愛より古い煙草の方が信頼できる時代だ」
「最低」
「今のはちょっと良いこと言ったつもりだった」
ミナミは煙草とライターをアッシュへ投げた。
「持っていきなさい」
アッシュは受け取る。
「いいの?」
「妹を埋めるの、手伝ったでしょ」
「報酬制だったのか」
「そう思った方が、あなたは受け取りやすいでしょ」
アッシュは少しだけ黙った。
そして、煙草の箱をポケットへしまう。
「助かる」
ミナミはリュックを背負った。
「私は北の避難所へ行く」
「北?」
「まだ人が集まってるって聞いた。安全かは分からないけど、ここにはもういられない」
「それはそうだな」
アッシュは玄関を見る。
外の呻き声は近い。
そろそろ出るべきだった。
ミナミが彼を見る。
「あなたは?」
「俺は南かな」
「北じゃないの?」
「元カノと同じ避難所に行くの、かなり危険じゃない?」
ミナミはバットを握った。
「殴るよ」
「まだ北と南で迷ってる」
「……一緒に来ないんだ」
アッシュは答えなかった。
ミナミは少しだけ笑った。
諦めたような笑いだった。
「知ってた」
「悪いな」
「謝るんだ」
「軽いやつなら」
「最低」
「それも知ってる」
ミナミは玄関の扉へ向かう。
アッシュも続いた。
外には、数体のゾンビが近づいていた。
ミナミはバットを構える。
アッシュは逆方向を見る。
道は二つ。
北へ向かう道。
南へ降りる道。
アッシュは煙草を一本くわえた。
ライターで火をつける。
久しぶりの煙が、肺に入った。
世界が少しだけまともになる。
ミナミが呆れたように言う。
「この状況で吸う?」
「この状況だから吸うんだよ」
「本当に変わらない」
「変わったよ」
アッシュは煙を吐いた。
「少しだけ、穴掘りがうまくなった」
ミナミは、泣きそうな顔で笑う。
「馬鹿」
「よく言われる」
ゾンビが近づく。
ミナミは北へ走った。
アッシュは南へ歩き出す。
一度だけ、ミナミが振り返った。
「アッシュ!」
アッシュも振り返る。
ミナミはバットを握ったまま、言った。
「次に会ったら、ちゃんとぶん殴るから!」
アッシュは煙草を指に挟み、軽く手を上げた。
「予約が多い男だな、俺」
ミナミは何かを言いたそうにした。
けれど、言わなかった。
ミナミは北へ走っていった。
アッシュは南へ歩き出す。
ポケットには古い煙草。
手にはライター。
腹は減っている。
足は痛い。
服は汚れている。
そして、今日またひとつ、世界の教訓が増えた。
ゾンビは単純。
そう思っていた。
噛みに来る。
呻く。
走るやつもいる。
それだけなら、まだ分かりやすい。
だが、違った。
倒れている。
助けを求める。
食料があると言う。
家に誘う。
昔の話をしてくる。
そして最終的に食べようとしてくる。
アッシュは煙草をくわえたまま、真剣な顔で呟いた。
「ゾンビ、お前もそっち側だったのか……」
女。
軍。
裏組織。
変異体。
元カノ。
そして、ゾンビ。
信用できないものが、また一つ増えた。
「最初はゾンビの方がマシだと思ったんだけどな」
煙を吐く。
「嘘つくゾンビは駄目だろ。ゾンビ界のルール違反だろ」
遠くで、呻き声が聞こえた。
アッシュは足を止める。
女の声ではない。
たぶんゾンビだ。
少し前なら安心していた。
だが、今は違う。
もしかしたら、あいつも倒れたふりをするかもしれない。
食料があると言うかもしれない。
昔の約束を持ち出すかもしれない。
最悪、双子かもしれない。
アッシュは煙草を指に挟み、昼の道の向こうを見た。
「……今日は、女でもゾンビでもありませんように」
少し考える。
「できれば、煙草の自販機がありますように」
もちろん、そんな都合のいいものはない。
代わりに、道の先で何かが動いた。
人影だった。
女か。
ゾンビか。
元カノか。
新しい何かか。
アッシュはしばらく見つめたあと、迷わず逆方向へ歩き出した。
「よし。今回は学んだ」
一歩。
二歩。
三歩。
その背中に、遠くから声が届く。
「アッシュ……?」
アッシュは空を見上げた。
「この世界、俺のこと好きすぎない?」
そう言って、彼は走り出した。




