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05.俺、意外と生きるよ

ヘリの機体は、夜の山肌を舐めるように飛んでいた。


高度は低い。


低すぎる。


窓の外には、黒い木々の梢がすぐ近くを流れていく。


ほんの少し操縦を誤れば、枝ではなく幹に触れる距離だった。


アッシュは後部座席で、固定ベルトを雑に握っていた。


「なあ」


「黙っていてください」


操縦席の女が答える。


さっきまで看護師の顔をしていた女。


白衣の下に防弾ベストを着込み、拳銃でサユリを撃ち、アッシュをヘリに押し込んだ女。


病院からアッシュを奪った女。


「黙ってると不安になるタイプなんだよ、俺」


「喋られると墜落しそうになります」


「もうだいぶ墜落寄りの高さだけど?」


「レーダーを避けています」


「女の次は軍かよ。俺の人生、追っ手のインフレが早すぎる」


女は計器を確認しながら言った。


「狙われているのはあなたではありません」


「俺じゃないの?」


「国家機密のデータです」


「恋愛トラブルの次に国家機密来るの、順番おかしくない?」


アッシュは少しだけ考えて眉を寄せた。


「それで俺、今ついでにミサイル撃たれそうになってるの?」


「狙われているのはデータです」


「じゃあ俺は何?」


「一緒に映っている人です」


「集合写真みたいに言うなよ」


「実際、軍の照準には一緒に入っています」


「最悪の集合写真だな」


女の声は冷静だった。


だが、手はわずかに硬い。


夜の山道をヘリで逃げる。


遠くには燃える病院。


外には軍。


中にはアッシュ。


普通なら、ひとつでも十分面倒な要素が三つ揃っている。


アッシュは窓の外を見た。


遠く、山の向こう側に小さな光が見える。


街か。


それとも軍の車列か。


どちらにせよ、あまり良い光ではなさそうだった。


「で、そのデータって何?」


「聞かない方がいいです」


「俺の人生、聞かない方がいいことを女が持ち込みすぎる」


「なら、今度こそ聞かないでください」


「今度こそって何だよ。俺、前にも何か持ち込まれた?」


女は答えなかった。


アッシュは肩をすくめる。


「まあいいけど。ところで煙草ある?」


「ありません」


「酒は?」


「ありません」


「俺を拉致したわりに、もてなしが雑だな」


「救出です」


「銃向けてヘリに押し込むの、救出って言うには角が立ってない?」


「あなたを置いていけば死んでいました」


「俺、意外と生きるよ」


「知っています」


その声だけ、少しだけ柔らかかった。


アッシュは彼女の横顔を見た。


操縦席の計器の光に照らされた顔。


どこかで見た気がする。


たぶん見た。


いや、見ていないかもしれない。


この手の女の顔は、だいたい覚えているようで、細部が混ざる。


特に、泣いた女と怒った女と銃を向けた女は、記憶の棚が同じあたりにある。


「なあ」


「何ですか」


「お前、名前なんだっけ」


操縦桿を握る女の指が、一瞬だけ止まった。


「……今ですか?」


「今。撃ち落とされる前に聞いといた方がよさそうだし」


「縁起でもないことを言わないでください」


「俺の人生、縁起でもない女ばっか寄ってくるから慣れてる」


女は少しだけ唇を噛んだ。


名乗るべきか。


どの名前を。


看護師として使っていた名前。


組織で与えられた名前。


任務用の偽名。


それとも、もうずっと使っていなかった、本当の名前。


ほんの数秒。


その数秒の間に、ヘリは山間を進んでいく。


遠くでは軍の追跡信号が近づいていた。


女は、静かに答えた。


「ユリカです」


「ユリカ」


アッシュは、ただ繰り返した。


軽く。


何の重みもなく。


確認するように。


ただ、名前を呼んだだけだった。


その一言で、ユリカの呼吸が止まった。


世界が、ほんの少しだけ遠ざかる。


轟音も。


警告音も。


夜の山も。


軍の追跡も。


全部、薄くなる。


彼女の中に残ったのは、昔の夜だった。


まだ世界が終わる前。


任務中の街。


雑踏。


遠くから聞こえた音楽。


本当なら、足を止めてはいけなかった。


人混みに紛れて情報を拾い、指定地点へ向かい、監視対象と接触する。


それだけの夜だった。


なのに、声が聞こえた。


銀河竜アッシュ。


ふざけた名前。


軽い男。


笑って、歌って、観客を掴む男。


ユリカは、任務を忘れて足を止めた。


自分が何者かも忘れた。


組織の道具でもなく。


潜入員でもなく。


番号でもなく。


ただ、一人の女として、ステージを見上げていた。


その夜、アッシュは彼女に笑った。


本気だったかどうかは分からない。


たぶん、本気ではなかった。


けれどユリカにとっては、それで十分だった。


一夜だけ。


たった一夜だけ。


彼女は、自分が道具ではなく、女として扱われたような気がした。


翌朝、アッシュは消えていた。


名前を覚えていたかどうかも怪しい。


それでも、ユリカはその夜を捨てられなかった。


「……もう一度」


気がつくと、ユリカはそう言っていた。


アッシュが首を傾げる。


「何を?」


「名前を」


「ユリカ」


「……はい」


アッシュが前を見た。


黒い山肌が、急に近い。


近い。


近すぎる。


「いや、返事はいいから前見ろ。山が来てる」


「え?」


「山が来てる!」


「山は来ません!」


「じゃあ俺たちが行ってる!」


ユリカが慌てて操縦桿を引いた。


機体が大きく揺れる。


低空飛行していたヘリは、木々の上をかすめた。


ローターが枝を切り飛ばす。


金属音。


警告音。


ユリカが歯を食いしばる。


だが、遅い。


機体の腹が斜面を擦った。


次の瞬間、ヘリは森の中へ落ちた。


同じ頃。


山のふもとに展開していた軍の臨時指揮車両では、別の緊張が走っていた。


モニターには、低空を移動する小さな光点。


盗まれたデータを載せたヘリ。


軍にとって、絶対に外へ出してはならないものだった。


「対象、山間部へ進入」


「低空飛行。レーダー回避を試みています」


「ロックまで?」


「五秒」


指揮官が短く言う。


「逃がすな。データを外へ出すな」


オペレーターが数字を読み上げる。


「三、二――」


そこで、声が止まった。


「待ってください。対象高度、急低下」


「何?」


「墜落します」


「撃ったか?」


「まだです」


「対空班は?」


「未発射です」


「別部隊は?」


「交戦報告なし」


指揮官はモニターを見た。


対象の光点が、山中で乱れ、落ちていく。


誰も撃っていない。


ミサイルはまだ発射していない。


機体に被弾反応もない。


それなのに、落ちた。


「……では、なぜ落ちた?」


誰も答えられなかった。


数秒の沈黙。


若い参謀が、硬い声で言う。


「まさか、ここが合流ポイントか?」


「自力で落としたと?」


「裏組織の回収班が近くに潜んでいる可能性があります。低空で降り、機体を放棄したのかもしれません」


指揮官の顔が険しくなる。


「特殊部隊を出せ。墜落地点を押さえる」


「了解」


軍人たちは、真面目に動き始めた。


誰も知らなかった。


ヘリが落ちた理由は、作戦でも、被弾でも、機体故障でもない。


女が名前を呼ばれて見惚れたからである。


ヘリは斜面を削るように滑り、木々をなぎ倒して止まった。


アッシュは座席に逆さま気味に引っかかっていた。


数秒間、何が起きたか分からなかった。


その後、痛みが来た。


「……ヘリって落ちると痛いんだな」


隣で、ユリカが苦しそうにベルトを外している。


額から血が流れていた。


「当たり前です」


「乗り物としてそこは改善してほしい」


「生きているだけ幸運です」


「俺、幸運を痛みで請求されるタイプなんだよな」


アッシュは何とかベルトを外し、機体の外へ這い出た。


夜の森は冷えていた。


どこかで燃料の臭いがする。


ヘリは完全に壊れているが、爆発はしていない。


低空だったことが、結果的に命を救った。


ユリカも外へ出る。


片足を引きずっていた。


アッシュはそれを見て、眉を上げる。


「その足、逃走プランに入れていいやつ?」


「歩きます」


「いいやつじゃない返事だな。俺、今から山道と女の根性に挟まれるの?」


ユリカは通信端末を確認した。


画面には、軍の通信波。


別方向からは、裏組織の暗号通信。


さらに遠くから、死者の呻き声も聞こえ始めている。


ヘリの墜落音で、周囲の感染者が寄ってきている。


「ここを離れます」


「離れたい気持ちはあるけど、俺の身体が山に対して前向きじゃない」


「ついてきてください」


「報酬は?」


ユリカは一瞬だけ彼を見た。


それから、短く言う。


「煙草も、お酒も、好きなだけ渡します」


アッシュの顔が少しだけ明るくなる。


「急に話が分かる女になったな」


ユリカは少しだけ笑った。


その笑みは、痛みをごまかすためのものだった。


「……一人で死にたくないの」


その声は、壊れたヘリの警告音にかき消された。


遠くで、何かが爆ぜる音もした。


アッシュは首を傾げる。


「何か言った?」


ユリカは首を振った。


「いいえ。走ります」


「走るのは契約内容に入ってた?」


「入れます」


「後出しが多い女だな」


「あなたほどではありません」


「俺の何を知ってるんだよ」


ユリカは答えなかった。


知っている。


少しだけ。


そして、何も知らない。


だから、追いかけてしまった。


二人は森の中を進み始めた。


ユリカは負傷している。


だが、訓練された動きだった。


銃を構え、周囲を見ながら、足音を殺す。


アッシュはその後ろを、かなり文句を言いながら歩いていた。


「山ってさ、遠くから見るからいいんだよ」


「黙って」


「近くで見ると土と虫と坂しかない」


「黙って」


「都会の女は山で男を落とすって聞いたことあるけど、物理だったとはね」


ユリカは振り返らない。


「静かにできませんか」


「できる男なら、ここまで女に追われてない」


「自慢しないでください」


二人は尾根道に出かけた。


ユリカはそちらへ向かおうとする。


だが、アッシュが急に手を伸ばして彼女の腕を掴んだ。


「そっちはやめとけ」


ユリカが振り返る。


「なぜです?」


「追う側が一番見たくなる道だから」


「では、どこへ?」


アッシュは斜面の下を指した。


「あっち」


「崖です」


「だからいいんだよ。普通の人は崖に逃げない」


「普通の人は死ぬからです」


「じゃあ俺たちは普通じゃないってことで」


「あなたと一緒にしないでください」


「今さら単独行動アピールされても困る」


アッシュは斜面の横を指差した。


暗くて分かりにくいが、木の根の間に古い作業道の跡がある。


かつて山仕事で使われた道らしい。


崩れているが、通れないほどではない。


ユリカは目を細めた。


「よく分かりましたね」


「こういう道、女から逃げる時に覚えるんだよ」


「その経験を誇らないでください」


「人生に無駄な逃走はない」


「無駄だったから今こうなっているのでは?」


「正論で足場崩すのやめて」


二人は作業道を下る。


その判断は正しかった。


少し遅れて、尾根道の方からライトの光が流れた。


軍の偵察ドローン。


ユリカは息を殺した。


アッシュも口を閉じた。


ドローンの光が、上の道をゆっくり舐めていく。


こちらには来ない。


数秒後、光は遠ざかった。


ユリカは小さく息を吐く。


「……助かりました」


「いいよ。今のは酒二本分くらいで」


「覚えていたら」


「生きてたら払う、覚えてたら払う、そういう女の約束ってだいたい払われないんだよな」


「では、今は生き残ってください」


「それも報酬に入る?」


「入ります」


「俺、結構働いてるな」


森の奥で、呻き声が聞こえた。


ゾンビだ。


墜落音に寄ってきたのだろう。


ユリカは銃を構える。


アッシュは周囲を見た。


感染者は一体ではない。


木々の向こうに、複数の影が揺れている。


「こっち」


アッシュは道を外れた。


「そちらは川です」


「だからいい」


「水音で足音を消す?」


「それもあるけど」


「けど?」


「ゾンビって、川に落ちるとだいたい面白い」


「戦術を娯楽で語らないでください」


それでも、ユリカはついてきた。


川沿いの石場へ出る。


足場は悪い。


だが、水音が大きく、足音はかなり消える。


背後から追ってきた感染者の一体が、斜面で足を滑らせ、川へ落ちた。


濁った水音。


アッシュが頷く。


「ほら、うけるわ」


「最低です」


「でも有効だろ」


「有効なのが嫌です」


そこへ、遠くから銃声が響いた。


軍か。


裏組織か。


どちらでも、良い知らせではない。


ユリカの顔が険しくなる。


「急ぎます」


「俺の人生、急ぐ理由だけは毎回豊富だな」


その頃。


墜落地点に、特殊部隊が到着していた。


先頭に立つ女は、まだ若い。


だが、部下たちは彼女の指示を待っていた。


小柄で、目つきが悪く、唇にはいつも相手を小馬鹿にするような笑みが浮かんでいる。


名前はカナデ。


政府系特殊部隊の部隊長。


感染兵装データの抹消と、裏組織工作員の捕獲を命じられていた。


カナデは墜落したヘリを見て、軽く口笛を吹いた。


「ロック前に勝手に墜落? なにそれ、こっちが撃つ前に自滅したの?」


部下が言う。


「合流ポイントの可能性があります」


「へえ。じゃあ賢いのか馬鹿なのか、死体を見れば分かるね」


「生存者の足跡、二名分です」


「工作員と、もう一人か」


「おそらく」


「データは?」


「機体内にはありません」


カナデは笑った。


「じゃあ逃げた方ね。面倒くさ」


彼女は銃を肩に預け、部下たちを見る。


「データは消す。工作員は生きていれば捕獲。抵抗したら撃っていいよ」


「了解」


「裏組織の回収班も来る。鉢合わせたら?」


「排除します」


カナデはにこっと笑った。


「いい子」


その笑みは軽かった。


だが、部下たちは誰も笑わない。


カナデが軽い時ほど、次に誰かが死ぬことを知っていた。


一方、裏組織も動いていた。


ユリカは墜落前に、極秘回線で逃走ルートを送っていた。


本来なら、山の南側にある廃材置き場で合流するはずだった。


だが、ヘリは落ちた。


予定より遅れている。


裏組織の回収班は、待機地点から動き出した。


彼らの目的は一つ。


データの回収。


ユリカの救出ではない。


アッシュの保護でもない。


データ。


それだけだった。


回収班のリーダーは、暗い森の中で端末を見た。


「ユリカは私情を挟んでいる」


部下が答える。


「対象の男ですか」


「ああ。病院から連れ出した」


「処理しますか」


「必要ならな。データを受け取った後、ユリカも拘束する」


「裏切りの可能性が?」


「私情を挟む工作員は、すでに半分裏切っている」


男は銃の安全装置を外した。


「データだけあればいい」


その頃、ユリカはアッシュの背後を歩いていた。


彼の鞄は、ヘリから持ち出したものだった。


中身はたいしたものではない。


少しの医療品。


水。


サユリが持たせた非常用の補給品。


そして、ユリカが密かに持ち出した小さな黒い端末。


従来型感染兵装の運用データ。


制御コード。


冷凍保存区画の起動システム。


命令応答形式。


複製されれば、別の組織でも死体兵を作れる。


軍が抹消したがる理由。


裏組織が欲しがる理由。


サユリが守りたかったもの。


ユリカが奪ったもの。


彼女は歩きながら、アッシュの鞄の口をそっと開けた。


アッシュは前を見ている。


気づいていない。


ユリカは端末を奥へ押し込んだ。


彼は気づいていない。


それでよかった。


気づけば、きっと嫌な顔をする。


面倒だと言うだろう。


重いと言うだろう。


どこかへ捨てるかもしれない。


それでもよかった。


アッシュが自分を忘れても。


自分の選択だけは、彼の逃亡劇に紛れ込む。


道具として生きてきた女が、最後に自分で選んだ証として。


ユリカは鞄から手を離した。


「どうした?」


アッシュが振り返る。


ユリカは首を振った。


「何でもありません」


「そういう女の何でもないって、だいたい後で不満を貯めて爆発するよな」


「爆発はもうしました」


「今日は何度目の爆発だ?多すぎて管理しきれない」


二人は森を抜け、開けた場所へ出た。


廃材置き場だった。


錆びた鉄骨。


壊れた重機。


崩れかけた倉庫。


そこに、黒い車が三台停まっていた。


裏組織の回収班。


ユリカの表情が少しだけ緩む。


助かった。


そう思いかけた。


だが、車から降りてきた男たちの顔を見て、その安堵はすぐに消えた。


銃口が、こちらへ向けられている。


リーダー格の男が言った。


「データを渡せ」


ユリカは一歩前へ出る。


「彼を先に保護してください」


「必要ない」


「約束が違います」


「こちらが必要としているのはデータだ」


男の銃口が、アッシュへ向いた。


「その男は処分する」


アッシュは一瞬で状況を理解した。


自分が撃たれる。


これはよくない。


非常によくない。


ユリカがアッシュの前に立つ。


「撃たせません」


「私情を挟むな」


ユリカは笑った。


疲れていて。


血を流していて。


それでも、少しだけ綺麗に笑った。


「最初から、私情です」


銃声が鳴るより早く、ユリカが撃った。


回収班の一人が倒れる。


次の瞬間、廃材置き場が銃声に包まれた。


アッシュはその場にいた。


三秒。


いや、二秒。


彼は思った。


これは俺がいていい場面ではない。


そして、走った。


全力で。


感謝も、別れも、覚悟もなかった。


ただ、銃口が自分に向いた瞬間、人間として非常に正しい判断をした。


「今のは、俺の出番じゃないな!」


叫びながら、廃材の陰へ飛び込む。


背後でユリカの声がした。


「走って!」


「もう走ってる!」


「止まらないで!」


「止まる理由がどこにもない!」


銃弾が近くの鉄板を叩く。


アッシュはさらに速度を上げた。


「俺がいると撃つ理由が増えるからな! 減らしてるんだよ、危険を!」


それは言い訳だった。


だが、かなり正しい言い訳だった。


ユリカは、彼の背中を一瞬だけ見た。


逃げていく。


振り返らずに。


あの日と同じように。


それでも、不思議と怒りはなかった。


「そういう人でしたね」


ユリカは小さく笑った。


そして、銃を構え直した。


裏組織の男たちがユリカを囲む。


ユリカは負傷している。


弾も少ない。


勝てる状況ではない。


それでも、足止めはできる。


アッシュが逃げる時間くらいは作れる。


それが、彼女の最後の任務ではない。


最後の私情だった。


数分後。


廃材置き場に、別の部隊が到着した。


カナデ率いる特殊部隊だった。


彼女は銃撃音の中、面倒くさそうに肩を回した。


「はい残念。合流地点、バレバレでした」


裏組織の男が振り向く。


「撃て!」


カナデは笑った。


「はい、声出した人から順番に撃ちまーす」


その直後、特殊部隊が一斉に動いた。


射撃は正確だった。


無駄がない。


裏組織の回収班は、数で勝っていた。


だが、質が違った。


カナデは遮蔽物を使いながら進み、倒れた男の銃を蹴り飛ばす。


「データは?」


男は血を吐きながら笑った。


「知らない」


「そっか。じゃあ知らないまま死んで」


銃声。


男は動かなくなった。


カナデは部下に指示する。


「荷物を調べて。車も端末も全部」


「了解」


「工作員は?」


「逃走中。血痕あり」


「追うよ」


カナデは少しだけ楽しそうに笑った。


「スパイちゃん、足遅くなってるはずだから」


ユリカは山を下っていた。


息が苦しい。


脇腹に熱がある。


さっきの銃撃で、一発受けていた。


致命傷ではない。


だが、長くは走れない。


森の中は暗い。


遠くでゾンビの声がする。


銃声もする。


アッシュの姿はもう見えない。


それでよかった。


逃げたのなら、それでいい。


彼は生きる。


きっと、文句を言いながら。


きっと、自分のことを忘れながら。


それでも、生きる。


ユリカは木にもたれ、荒い息を吐いた。


その時、背後から声がした。


「お疲れ、スパイちゃん」


ユリカは振り返った。


カナデが立っていた。


銃を向けている。


顔には、子供みたいな意地悪い笑み。


だが、目は冷たい。


「……軍の犬」


「犬って言うなら、もうちょっと上手く逃げてほしかったな。こっちは、散歩にもならなかったよ」


ユリカは銃を上げようとする。


だが、腕が重い。


カナデは少しも慌てない。


「データは?」


「さあ」


「持ってないね。じゃあ、誰に渡したの?」


「……さあね」


カナデは目を細めた。


それから、ほんの少し首を傾ける。


「アッシュ、見なかった?」


ユリカは笑った。


血の滲む唇で。


「さあね」


カナデは、楽しそうに笑った。


「嘘、下手。スパイ向いてないんじゃない?」


「……そうかもね」


「じゃあ、最後くらい上手に死になよ」


銃声が響いた。


ユリカの身体が崩れる。


地面に倒れた彼女の目に、黒い木々の隙間から夜空が見えた。


星は見えない。


世界が終わってから、空はずっと煙っている。


ユリカは、かすかに笑った。


アッシュ。


名前を呼んでくれた。


それだけで。


愚かだと分かっていても。


少しだけ、幸福だった。


彼女の手から力が抜けた。


カナデはしばらくそれを見下ろしていた。


表情は変わらない。


やがて、無線に手を当てる。


「工作員、処理。データなし」


部下から返答が来る。


『裏組織の回収班、全滅確認。車両、端末、所持品、すべて調査中。データは見つかっていません』


「工作員の所持品は?」


『空です。複製端末もありません』


カナデは黙った。


数秒。


それから、嫌そうに笑った。


「……まさか」


『隊長?』


「そのまさか、たぶん当たりだよ。嫌になるくらい」


カナデは銃を下ろし、森の奥を見た。


アッシュが逃げた方向。


「アッシュを探して」


『確保ですか? 処理ですか?』


カナデは少し考えた。


「まず確保。逃げたら足を撃っていいよ」


『殺害は?』


「それは私が決める」


少し間を置いて、カナデは笑った。


「久しぶりに会う元カレなんだから、挨拶くらいさせなさいよ」


その頃。


アッシュは川沿いを歩いていた。


かなり息が上がっている。


服は汚れ、靴は濡れ、髪には葉っぱがついていた。


「足は重い。靴は濡れた。だが俺はまだ格好いい。なら勝ちだ」


誰も答えない。


ユリカはいない。


銃声も遠くなった。


とりあえず、生きている。


アッシュはそれを重要視した。


かなり重要視した。


「よし」


一息ついて、彼は鞄を開いた。


「煙草……酒……食い物……」


探る。


水はあった。


包帯もあった。


サユリの病院で持たされたものだろう。


しかし煙草はない。


酒もない。


「拉致るなら嗜好品まで管理しろよ……」


その時、指先に硬いものが触れた。


取り出す。


黒い端末だった。


見覚えはない。


軍用のような刻印。


意味の分からない認証画面。


赤い警告表示。


英数字の羅列。


アッシュは数秒見た。


「うわ」


嫌な予感がした。


かなり嫌な予感だった。


これを持っていると、人生が面倒な方へ転がる。


そういう予感。


アッシュは端末を眺める。


ユリカの顔が、一瞬だけ頭をよぎった。


名前を名乗った女。


名前を呼ばれて、ヘリを落とした女。


銃口の前に立った女。


そしてたぶん、これを自分の鞄に入れた女。


なぜ入れたのか。


何を残したかったのか。


何を託したかったのか。


自分を忘れても。


自分の選択だけは、アッシュの逃亡劇に残るように。


アッシュは、そこまで察した。


そして、迷わなかった。


川へ投げた。


ぽちゃん。


黒い端末は、暗い水面に沈んだ。


「女の想い出と国家機密を一緒に入れるな。分別がなってない」


アッシュは手を払う。


「よし。俺は何も受け取ってない」


アッシュは両手を払った。


念のため、鞄の中をもう一度確認する。


煙草はない。


酒もない。


食料も少ない。


あるのは水と包帯と、面倒事の気配だけ。


「一カートンも、煙草と酒も、全部未払い。俺、今日だけで女に二回踏み倒されてるな」


川下で、何かが小さく光った。


端末が壊れたのか。


まだ生きているのか。


アッシュは見なかったことにした。


見れば関係者になる。


見なければ、たぶん通行人でいられる。


彼はそういう人生哲学を持っていた。


遠くで銃声がした。


アッシュは顔をしかめる。


「女の約束は軽いのに、女の事情は重い。しかも山道は長い。釣り合ってないだろ」


さらに遠くで、別の銃声。


続いて、誰かの叫び声。


アッシュは川沿いを歩き出した。


「今日、俺そんな悪いことした?」


もちろん、誰も答えない。


森の中で、軍の無線が飛び交っていた。


『データ未確認』


『裏組織回収班、壊滅』


『工作員、死亡確認』


『残る可能性は?』


カナデは、暗い山道で笑った。


「一番面倒で、一番馬鹿みたいな可能性」


部下が尋ねる。


『対象の男が保持していると?』


「たぶんね」


『名前は?』


カナデは銃を肩に担ぎ、楽しそうに答えた。


「アッシュ、銀河竜アッシュよ」


その名前を口にした瞬間、彼女の笑みが少しだけ深くなった。


「世界が終わっても、まだ女の荷物持ちやってるんだ。ほんと、最低で笑える」


彼女は森の奥へ歩き出す。


「探して。生きてるなら、絶対に文句言いながら逃げてる」


その予想は、正しかった。


ただし、ひとつだけ間違っていた。


アッシュはもう、何も持っていない。


世界を左右するデータも。


ユリカの選択も。


彼女が自分の人生をかけて残したかったものも。


全部、川に投げた。


なのに軍は、アッシュが持っていると思っている。


裏組織の残党も、そう思うだろう。


別の勢力も、いずれそう思う。


アッシュ本人だけが、本当に何も知らない。


川沿いを歩くアッシュは、濡れた靴を見下ろしてため息をついた。


「愛は重くてもいいけど、道まで険しいのはやりすぎだろ」


彼はそう呟き、夜の山道を進んだ。


背後では、ユリカの名前も、データの行方も、軍の命令も、すべてが燃え残った火種のように広がり始めていた。


そしてアッシュは、また逃げていた。


何も持たずに。


何も背負わずに。


ただ、追われる理由だけを増やしながら。

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