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04.まだ歌の途中なんだけど



警報は、最初、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。


歌の余韻が、まだ白い壁に残っていたからだ。


アッシュの声は止まっている。


けれど、病院の中にいた人間たちは、すぐには現実に戻れなかった。


廊下に出ていた看護師。

研究室で手を止めていた職員。

警備室で椅子にふんぞり返っていた若い警備員。


誰もが一瞬だけ、何の音か分からなかった。


それから、赤いランプが回り始めた。


低い電子音が、廊下に響く。


一度。


二度。


三度。


その後、短い間隔で鳴り続ける。


「……え?」


警備室で、髪を明るく染めた若い警備員が顔を上げた。


さっきまで拳を突き上げていた手が、半端な高さで止まっている。


モニターの端に、赤い点が出ていた。


一つ。


二つ。


五つ。


十。


二十。


それが、どんどん増えていく。


「……多くないすか?」


隣の警備員が、青ざめた顔で画面を見ていた。


「だから言っただろ」


「いや、音くらいで、こんなに来るんすか?」


「来るって言っただろ」


「でも、ライブってそういうもんじゃ……」


「ゾンビ相手にライブの常識を持ち込むな!」


赤い点は、画面の外側から流れ込むように増えていた。


北側道路。

地下道出口。

商店街跡。

駅前方面。

廃ビル群。


死んだ街のあちこちから、何かが病院へ向かっている。


さっきまで音楽だったものが、今は誘導信号になっていた。


若い警備員は、ゆっくり椅子に座り直した。


「……俺、怒られます?」


「怒られるだけで済むと思うな」


「世界終わってるのに?」


「今からお前の職場も終わるかもしれないんだよ!」


警備室の空気が一気に変わる。


外部スピーカーは切られた。


館内放送も止まった。


代わりに、緊急放送が流れる。


『外周センサー、複数反応。全職員は所定の防衛配置へ移行。繰り返す。全職員は――』


小ホールにも、その声は届いた。


アッシュはまだマイクを持っていた。


歌い終わった姿勢のまま、天井のスピーカーを見る。


「……アンコールにしては物騒だな」


サユリは立ち上がっていた。


顔色が変わっている。


さっきまでアッシュを見つめていた目が、ようやく現実に戻っていた。


「防衛?」


近くにいた職員が端末を確認する。


「街の感染者がこちらに向かっています。数は……現在も増加中です」


「外部スピーカーか?」


「起動履歴あり。警備室からです」


サユリの表情が固まる。


「誰が許可したの」


「確認中です」


「すぐに切って。全隔壁、正門側に防衛集中。地下区画への接続を遮断して。発電機の予備系統も――」


言葉は出ている。


だが、早口だった。


判断が散っていた。


アッシュはそれを見て、マイクを置いた。


「サユリ」


「今、話している余裕は――」


「無駄に焦るな」


サユリの動きが止まった。


アッシュはベッドから抜け出した時より、少しだけ背筋を伸ばしていた。


さっきまで煙草一本で動く男だったのに、こういう瞬間だけ、妙に声が低くなる。


「お前が慌ててる顔をしたら、下にいる連中はもっと慌てるだろ」


「……」


「何をするか決める前に、まず息をしろ」


アッシュは周囲をちらりと見た。


職員たちが、サユリを見ている。


彼女の判断を待っている。


アッシュは軽く肩をすくめた。


「大丈夫そうな顔をしてろ。実際に大丈夫かどうかは、その後で考えればいい」


たいしたことは言っていない。


状況も分かっていない。


何が何体来ているのかも知らない。


けれど、声だけは妙に落ち着いていた。


顔だけは、腹が据わっているように見えた。


サユリは一度、ゆっくり息を吸った。


それから、吐いた。


「……そうね」


目が戻る。


研究者の目だった。


「正門ルート以外を封鎖。上階の職員は中央棟へ集めて。地下区画は私の許可なしに開けないで」


「はい!」


サユリは端末を受け取り、画面を確認する。


指示が速くなった。


声も落ち着いた。


それを見て、アッシュは小さく頷いた。


内心では、何も分かっていなかった。


ただ、女が焦っている時は、一緒に焦らない方がだいたいうまくいく。


それだけだった。


数分後、迷彩服の男が小ホールに入ってきた。


肩には無線機。

腰には拳銃。

病院の職員とは違う、明らかに軍の人間だった。


「主任」


サユリが振り向く。


「状況は?」


「外周に集まっている感染者は現在二百を超えました。増加中です。街路からの接近ルートは絞れていますが、通常警備だけでは持ちません」


「正門前は?」


「防衛線は構築済みです。ただ、人手が足りない」


男は一瞬、アッシュを見た。


それから、サユリへ視線を戻す。


「従来型の投入許可をお願いします」


空気がわずかに重くなった。


その言葉を聞いた職員たちも、顔を強張らせる。


アッシュだけが、分かっていない顔をしていた。


「従来型?」


サユリは答えなかった。


迷彩服の男も、アッシュへ説明する気はなさそうだった。


「主任。今出さなければ、防衛線は押し潰されます」


「分かっているわ」


「では」


「……」


サユリは迷っていた。


アッシュに見せたくない。


それが、理由だった。


温かいスープを食べさせた病院。

清潔な白い部屋。

安全な場所。


そういう顔で、彼の前にいたかった。


けれど、地下にあるものは、そんな綺麗なものではない。


感染者を再調整した兵士。


恐怖を消し、痛みを消し、意思を削ったもの。


生きているとも、死んでいるとも言えない道具。


サユリは、アッシュにそれを見られることを恐れていた。


アッシュはサユリの顔を見た。


「出せばいいんじゃない?」


軽かった。


あまりにも軽かった。


サユリが目を向ける。


「何か分かって言ってるの?」


「いや、だいたい分かってない」


「……」


「でも、使えるものを使わずに全部失うのは、もったいないだろ」


アッシュは白い壁を見た。


清潔な病院。

温かい飯。

柔らかいベッド。

没収された煙草。


「きれいな顔して滅びるより、汚くても残った方がいい時もあるんじゃない?」


サユリは黙った。


アッシュは続ける。


「まあ、俺は飯が出てくる場所を失いたくないだけだけど」


最後の一言は、ひどく雑だった。


けれど、サユリの耳には違って聞こえた。


守るためなら、汚れることも選べる。


この人は、やっぱりそういう人だ。


サユリはそう解釈した。


都合よく。


美しく。


そして、間違えたまま。


「従来型を出して」


迷彩服の男が敬礼する。


「了解」


地下区画の隔壁が開いた。


冷凍保存室に、白い冷気が流れている。


並んだ棺のような保管筒。


その中に、人型のものが立っていた。


皮膚は青白い。

目に光はない。

首筋や腕には制御端子が埋め込まれている。


扉が順番に開く。


一体。


二体。


三体。


そこで終わらなかった。


白い冷気の奥で、保管筒のロックが次々に外れていく。


十体。


二十体。


三十体。


通路の奥まで並んだ棺が開き、濡れた音を立てて、従来型感染兵装が床へ降りていった。


最終的に、五十体近い死体兵が整列する。


誰一人、声を出さない。


息遣いもない。


ただ、命令を待つためだけに、青白い顔を正面へ向けていた。


職員が命令コードを送る。


「起動確認」


「筋反応正常」


「命令受信、問題なし」


「装備渡せ」


彼らは銃を受け取った。


何の感情もなく。


何のためらいもなく。


列を作り、正門方面へ進む。


アッシュはモニター越しにそれを見た。


しばらく黙ってから、言った。


「……白い建物から出てくるものじゃないだろ、あれ」


サユリは平然と答える。


「白い建物だからこそ隠せるのよ」


「隠す前提で話すなよ」


「表に出さなければ問題ないわ」


「今めちゃくちゃ表に出てるけど?」


正門前では、最初の衝突が始まっていた。


集まった感染者たちが、フェンスの外へ押し寄せる。


呻き声。

足音。

金網を叩く音。


警備兵が銃を構える。


だが、彼らの前に従来型が出た。


命令を受けた死体兵が、無言で発砲する。


銃声が連続した。


近づく感染者が倒れる。


一体倒れたところへ、後ろからまた別の感染者が乗り上げる。


従来型は動じない。


狙う。

撃つ。

弾倉を交換する。

前へ出る。


人間なら恐怖で下がる距離でも、彼らは下がらない。


噛まれても、腕を掴まれても、痛みに反応しない。


壊れるまで撃ち続ける。


「押し返しています!」


警備室から声が上がる。


司令官がモニターを見た。


「……ここまで安定するのか」


従来型は強かった。


倫理は終わっている。


だが、兵器としては完成していた。


アッシュも思わず感心した。


「死人が一番勤勉なの、社会の皮肉がすごいな」


「黙って見ていて」


「俺、今かなり褒めてるよ?」


「褒め方が最低なのよ」


防衛線は、少しずつ押し返し始めた。


集まった感染者が、正門前で削られていく。


銃声と電子命令だけが、規則正しく響く。


病院の中に、わずかな安堵が広がった。


だからこそ、余計な声が出た。


研究班の一人が、端末を持って駆け込んでくる。


「主任。GF-13の実戦投入許可を」


サユリの顔が険しくなった。


「駄目よ」


「しかし、外には大量の標的があります。火炎装備の試験には最適です」


「最終調整が終わっていない」


「従来型だけでは処理に時間がかかります。今なら比較データも取れます」


「十二号まで失敗しているのよ」


「だからこそ十三号です」


その言葉で、アッシュが反応した。


「十三号?」


研究員は画面を切り替えた。


調整室の映像が映る。


手術台のような固定台に、一人の女が拘束されていた。


身体には装甲補助具。

背面には燃料タンク。

腕部には火炎放射器のノズル。


顔は一部隠されていたが、目元だけは見えた。


ぎらついた目。


アッシュは首を傾げる。


「……あの女、どこかで見たな」


サユリが、静かに微笑んだ。


「ええ。あなたを殺そうとしていた女よ」


「え?」


「私が回収したの。素材として悪くなかったから」


アッシュは画面を見た。


しばらく黙った。


そして、納得したように頷く。


「俺を燃やそうとした女が、人類のために役立つなら美談じゃない?」


サユリが一瞬だけ満足そうな顔をする。


「ええ、役に立つ形にしてあげたの」


「愛が研究に変わったんだね」


「そういう言い方は嫌いじゃないわ」


「俺、間接的に世界救ってない?」


「あなたは何もしていないでしょう」


「人材を発掘した」


「狙われただけよ」


「狙われる才能も、才能のうちだろ」


サユリは小さく笑った。


だが、その笑みには勝ち誇った色があった。


私が処理した。


私が変えた。


私がアッシュを傷つける女を、アッシュの役に立つものへ作り替えた。


その顔を、廊下の端で若い看護師が見ていた。


さっき歌に聞き入っていた看護師だった。


彼女は何も言わない。


ただ、サユリの横顔を見ていた。


手にした書類を、少しだけ強く握りしめながら。


外の戦況は、さらに変わっていった。


従来型の戦果は予想以上だった。


正門前に集まった感染者は削られ続け、押し寄せる群れの勢いが落ちている。


司令官は指揮所で地図を見ていた。


「このペースなら、周辺区画ごと掃除できる」


副官が目を見開く。


「本気ですか?」


「弾薬は足りる。従来型はすでに前線に出した。ここで半端に戻しても、整備コストがかかるだけだ」


「使い切るつもりで?」


「どうせ傷だらけになる。なら、今夜のうちに街の感染者を可能な限り誘導し、処理する」


「誘導方法は?」


司令官は小ホールの方向を見た。


「歌だ」


再び、迷彩服の男がサユリの元へ来た。


正門前では、従来型が感染者を削り続けている。


だが、群れは尽きない。


街の奥には、まだいくらでも残っている。


男はしばらく黙っていた。


それから、低い声で言った。


「アッシュ氏」


「氏をつけられると、急に面倒な話の匂いがするな」


「もう一度、歌っていただきたい」


アッシュは眉をひそめた。


「ゾンビ相手に二曲目? 客層が終わってるんだけど」


「あなたの歌は届く」


「急に褒めるな。照れるだろ」


「人間だけではない。感染者にも届いている」


「それ、褒め言葉として受け取っていいの?」


男は真顔だった。


冗談ではない。


「死んだ街が、あなたの声に反応している。理性を失った者たちが、あなたの歌に引かれて動いている」


小ホールの空気が、妙な重さを帯びる。


司令官は続けた。


「これは兵器ではできない。命令でも、銃声でも、ここまで広くは誘導できない」


「……」


「あなたの歌なら、ゾンビにも届く」


一瞬、誰も喋らなかった。


言っている内容は最低だった。


だが、言い方だけは妙に美しかった。


アッシュはゆっくり口元を押さえる。


「やめろよ」


「何がです」


「ちょっといい話っぽくするな。俺、今かなり気分よくなりかけた」


サユリが横から言う。


「お願い、アッシュ」


「俺、病人らしいんだけど」


「さっきまで歌っていたわ」


「病人にも波がある」


司令官は一歩前に出た。


「これは作戦です。そして、この作戦にはあなたが必要です」


アッシュは目を細めた。


「ゾンビ相手にチケット代取れないの、普通に損じゃない?」


「報酬は出します」


「話が分かる軍人、嫌いじゃない」


サユリが横から言う。


「成功した場合、煙草を三本支給します」


アッシュの目が細くなった。


小ホールの空気が止まる。


「三本?」


「はい」


「三本とか安すぎだろ! 俺を舐めるな!」


サユリがすぐに口を挟んだ。


「なら、ひとカートンあげるわ」


アッシュの顔が変わった。


「よし、世界を救うか。煙草のために」


「そこは人類のためじゃないの?」


「人類は煙草を作った。つまり同じことだ」


再び、外部スピーカーの準備が始まった。


今度は勝手な操作ではない。


司令官の許可。

サユリの承認。

防衛線の再配置。


病院全体が、アッシュの歌を作戦に組み込んだ。


アッシュはマイクを握る。


さっきよりも気分が良かった。


観客は病院中。


外には死者の群れ。


軍人が自分を必要としている。


研究者も職員も、自分の声を待っている。


そして報酬は、煙草ひとカートン。


「いいねえ」


アッシュは笑った。


「世界が終わっても、俺の出番はなくならないらしい」


サユリが見つめている。


彼女の目は熱っぽかった。


「歌って」


「リクエストは?」


「あなたが一番、今の状況に合うと思う曲」


アッシュは少し考えた。


「じゃあ新曲だな」


「また?」


「俺の人生、素材だけは尽きないから」


「タイトルは?」


アッシュはマイクを指先で軽く叩いた。


スピーカーから、こつん、と乾いた音が返る。


それから、妙に澄ました顔で言った。


「――燃やされるほど愛されて」


サユリが一瞬、息を止めた。


「……素敵なタイトルね」


近くにいた職員が、何とも言えない顔をする。


司令官も黙った。


この状況でそれを歌うのか、という空気だけが小ホールに流れた。


マイクに声が入る。


外壁のスピーカーが震える。


アッシュの歌が、再び夜の街へ放たれた。


さっきよりも大きく。


さっきよりも遠く。


死んだ街の奥まで響くように。


ゾンビたちが振り向く。


路地から出てくる。


地下道から這い出してくる。


倒れた車の陰から、ゆっくり立ち上がる。


歌に引かれて、病院へ向かう。


正門前では、従来型感染兵装が迎え撃つ。


銃声が重なった。


弾丸が肉を裂く。


死体兵が隊列を組み直す。


警備兵が後方から支援する。


作戦は、成功しているように見えた。


研究室でも歓声が上がる。


「誘導率、上昇!」


「従来型、稼働維持!」


「処理数、想定値を超えています!」


司令官はモニターを睨んだまま頷く。


「このまま続けろ」


だが、別の場所でも、歌は届いていた。


調整区画。


GF-13の固定台。


白い照明の下で、アカネだったものが目を開けた。


命令コードが流れている。


待機。

待機。

待機。


だが、その奥に、別の声が響いていた。


アッシュの歌。


ふざけた歌詞。

軽い声。

最低な言葉。

それでも、忘れられない声。


アカネの喉が震えた。


「……アッシュ」


研究員が反応する。


「十三号、発声確認」


「感情核反応あり」


「成功か?」


数値が跳ねる。


研究員たちが顔を近づける。


「命令応答率は?」


「低下しています」


「再送しろ」


「待機命令、拒否」


「拘束圧を上げろ!」


金属音が鳴った。


拘束具が軋む。


GF-13の指が動く。


腕部の火炎放射器に燃料が送られる。


「安全ロックを――」


言い終わる前に、赤い警告が出た。


解除。


研究員の顔が引きつった。


「まずい」


次の瞬間、炎が走った。


白い調整室が、一瞬で橙色に染まる。


叫び声が上がる。


書類が燃える。

白衣が燃える。

端末が火花を散らす。


さっきまで実戦データに目を輝かせていた研究班が、逃げる間もなく炎に飲まれた。


GF-13が固定台から降りる。


足元で、焦げた研究員が呻いている。


だが、見下ろしもしない。


彼女の中に残ったものは、一つだった。


「アッシュ……」


廊下へ出る。


赤い炎を背負って。


「アッシュを……」


警報が変わった。


外周警報ではない。


内部火災。


区画破壊。


制御不能。


サユリの端末に緊急表示が走る。


彼女は画面を見た。


顔から血の気が引く。


「十三号……?」


アッシュはまだ歌っていた。


だが、サユリの表情を見て、途中で声を止めた。


「どうした?」


サユリは答えられなかった。


モニターに、炎の中を歩くGF-13が映る。


アッシュはそれを見た。


「あー」


少しだけ目を細める。


「俺の交際履歴、最終的に防火訓練になる率高くない?」


サユリは笑わなかった。


「逃げるわよ」


「俺、まだ歌の途中なんだけど」


「今はそれどころじゃない」


「一カートンは?」


「生きていたら渡す」


「生きてたら、って言うやつ大体払わないんだよ」


廊下の向こうで爆発音がした。


火炎放射器の炎が、曲がり角の壁を舐める。


職員たちの悲鳴。


警備兵の怒号。


銃声。


だが、GF-13は止まらない。


弾丸を受けても、動きが鈍るだけだった。


痛みを恐れない。


死を恐れない。


そして、従来型と違って、目的を持っている。


しかも、速い。


アッシュを殺す。


それだけで動いている。


司令官が指揮所で叫んだ。


「内部防衛を回せ!」


「無理です! 主戦力は正門側に出ています!」


「従来型を戻せ!」


「外の群れが突破します!」


「隔壁は?」


「火災で一部反応しません!」


病院は、一気に崩れ始めた。


外ではゾンビの群れ。


正門では従来型が撃ち続けている。


内部ではGF-13が炎を撒く。


発電系統の一部が落ち、廊下の照明が明滅する。


白かった病院が、赤と黒に汚れていく。


サユリはアッシュの手を掴んだ。


「こっち」


「手を引かれるのは嫌いじゃないけど、できればもっと平和な時がよかった」


「黙って走って」


「患者に走らせる病院、口コミ荒れるぞ」


「後で謝るわ」


「口コミに?」


「あなたに」


アッシュはそれ以上言わなかった。


サユリが本気で焦っているのが分かったからだ。


彼女は通路を選び、隔壁を開け、職員用の階段へ向かう。


途中で護衛が合流した。


迷彩服の男もいた。


肩から血を流している。


「主任、屋上へ。緊急ヘリを使います」


「施設は?」


「もう持ちません」


「従来型は?」


「正門で戦闘継続中です。回収は不可能」


サユリは一瞬だけ目を閉じた。


だが、すぐにアッシュを見た。


「行くわ」


アッシュは当然のように頷く。


「俺も行くよ」


「分かっているわ」


「いや、確認大事だろ。こういう時、置いていかれる男っているし」


「置いていくわけないでしょう」


「いい病院だな」


「今それを言うの?」


階段を上る。


下から熱が追ってくる。


遠くで、GF-13の声が聞こえた気がした。


「アッシュ……」


アッシュは顔をしかめる。


「名前を呼ばれるたびに寿命が縮む恋愛、初めてかもしれない」


「あなたの場合、初めてじゃない可能性があるのが嫌ね」


「俺も嫌になってきた」


屋上への扉が開いた。


夜風が流れ込む。


そこには緊急用ヘリがあった。


ローターはまだ止まっている。


護衛が周囲を確認する。


「クリア」


サユリはアッシュを押すようにしてヘリへ向かわせた。


その時だった。


銃声が鳴った。


護衛の一人が倒れる。


続いて、もう一発。


迷彩服の男が膝をつく。


サユリが振り向くより早く、三発目が彼女の脇腹を撃った。


「っ……!」


サユリが崩れる。


アッシュは振り返った。


屋上の入口に、若い看護師が立っていた。


さっき廊下で歌を聞いていた女。


手には拳銃。


白い看護服の下に、黒い防弾ベストが見える。


彼女は、もう泣きそうな顔をしていなかった。


静かに笑っていた。


「データだけのつもりでした」


サユリは血を押さえながら、彼女を見上げる。


「あなた……」


「本当に、データだけ持ち出して終わるつもりだったんです」


看護師は一歩、近づく。


その目は、サユリではなくアッシュを見ていた。


「でも、あなたが勝ち誇った顔をするのが悪いんですよ?」


サユリの表情が歪む。


「勝ち誇った……?」


「私のアッシュを見なさい、って顔をしていた」


看護師は笑った。


「見ているだけなら許してあげる、って顔もしていた」


サユリの目が見開かれる。


「あなた……」


「見ているだけで済むなら、最初からスパイなんてやってません」


アッシュは少しずつ後ずさった。


「えーと」


「動かないで」


「はい」


返事が早かった。


看護師はそのまま、アッシュの身体を自分の方へ抱き寄せた。


片腕をアッシュの胸元に回し、ぴたりと密着する。


まるで、サユリに見せつけるように。


「この人は、私が持っていきます」


サユリの目が見開かれた。


「離しなさい」


「嫌です」


看護師は、アッシュの肩口に頬を寄せた。


「一度、手放したんです。だから、今度はちゃんと連れていきます」


看護師がアッシュを見る。


その顔が、急に柔らかくなる。


「アッシュ」


「どちら様?」


看護師の笑みが固まった。


ほんの少しだけ。


「……やっぱり、覚えてないんですね」


「ヒントもらえる?」


「あなたに、初めて愛を教えてもらった女です」


アッシュは真剣に考えた。


真剣に考えたのが、むしろ最悪だった。


「候補が多いな……」


看護師の目に涙が浮かぶ。


でも、怒りではなかった。


悲しみでもなかった。


もっと拗れたものだった。


「いいです。今度は忘れられないようにしますから」


アッシュは小さく息を吐いた。


「最近、その手の予約が増えてるんだけど」


看護師は銃口を向けた。


「乗ってください」


「乗らないって言ったら?」


「撃ちません」


「優しい」


「足を撃ちます」


「優しくなかった」


サユリが手を伸ばす。


「アッシュ……行かないで……」


「呼ばないでください」


声が冷えた。


「もう、先生の患者じゃありません」


銃声が鳴った。


サユリの身体が崩れる。


白衣が、屋上の床に広がった。


アッシュは一瞬だけ、何かを言おうとした。


けれど、その前に、下から爆発音が響いた。


屋上の扉の向こうが赤く光る。


GF-13が近づいている。


炎の熱が階段室から漏れてくる。


看護師がアッシュの腕を掴んだ。


「早く」


「いや、俺、今日だけで女に拾われすぎじゃない?」


「黙って」


「はい」


アッシュはヘリに押し込まれた。


看護師が操縦席に乗る。


手際は良かった。


ただの看護師ではない。


スパイであり、訓練された人間だった。


サユリは床に倒れたまま、ヘリを見ていた。


看護師は床に倒れたままのサユリを一瞥した。


「先生が悪いんです」


ローターが回り始める。


風が屋上を叩く。


サユリの白衣が揺れる。


屋上の扉が吹き飛んだ。


炎が噴き出す。


GF-13が現れる。


焦げた装甲。

赤く光るノズル。

歪んだ顔。


彼女はヘリの中のアッシュを見た。


「アッシュ……!」


アッシュは窓越しにそれを見た。


「俺の人生、消防法に引っかかってない?」


看護師が操縦桿を握りながら言う。


「静かにして」


「はい」


GF-13が火炎放射器を構える。


その瞬間、ヘリが浮いた。


炎が屋上を舐める。


熱が機体の底をかすめる。


サユリの姿が、炎と風の向こうに遠ざかっていく。


病院は燃えていた。


外では従来型感染兵装が、まだ正門で撃ち続けている。


フェンスにはゾンビが群がっている。


白い建物は、夜の中で赤く染まっていた。


アッシュはヘリの窓からそれを見下ろした。


温かい飯。

柔らかいベッド。

没収された煙草。

歌を聴いていた人々。

自分を治そうとしていた女。


全部が小さくなっていく。


看護師が静かに言った。


「もう大丈夫です。私があなたを連れていきます」


アッシュはしばらく黙っていた。


それから、ぽつりと言った。


「……一カートン、受け取り損ねたな」


看護師の手が、一瞬だけ震えた。


「そこですか?」


「そこも大事だろ」


ヘリは燃える病院を離れていく。


屋上では、GF-13が炎の中で空を見上げていた。


サユリは倒れたまま、遠ざかる機体を見ていた。


そしてアッシュは、また別の女に拾われた。


世界が終わっても、どうやら彼の女難だけは終わらないらしかった。




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