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03.俺は自分を安売りしない主義でね

目を覚ますと、天井が白かった。


白い。


あまりにも白い。


世界が終わってから見るには、少し清潔すぎる白だった。


アッシュは数秒それを眺めてから、ゆっくり瞬きをした。


波の音はしない。

焦げた匂いもしない。

煙草の匂いもしない。


代わりに、消毒液の匂いがした。


「……死んだ?」


自分の声は出た。


つまり、たぶん死んではいない。


アッシュは身体を起こそうとして、すぐに肩を押さえられた。


「まだ起きちゃ駄目」


女の声だった。


聞き覚えがあるような、ないような。


顔を向けると、白衣の女がそこにいた。


整った顔。

乱れていない髪。

落ち着いた目。

世界が終わった後にしては、服装があまりにもまともだった。


「サユリ?」


「思い出した?」


「いや、昨日聞いた名前を使ってみただけ」


「混乱は残っているみたいね」


「俺の発言を全部症状にするの、いい加減やめない?」


サユリはアッシュの額に手を当てた。


「熱はないわね」


「俺の心は燃えている」


「そういう軽口が出るなら、意識ははっきりしている」


「軽口を医療指標にするなよ」


アッシュは周囲を見回した。


病室だった。


ベッド。

点滴台。

心電図モニター。

白いカーテン。

清潔なシーツ。


窓の外にはフェンスが見える。


その向こうに、さらに鉄柵。

監視塔。

照明。

銃を持った警備員。


「……病院?」


「そうよ」


「病院って、要塞だったっけ?」


「感染症対策よ」


「ここだけ別世界だ」


アッシュは身体を起こした。


今度はサユリも止めなかった。


窓の外には、世界が終わった後とは思えない秩序があった。


照明が生きている。

空調が効いている。

廊下を人が歩いている。

非常用シャッターも見える。

どこかで発電機の低い音がしている。


街から遠くないはずなのに、ここだけ妙に生きていた。


アッシュは一瞬だけ真面目に考えた。


ここは何なのか。

なぜこんなに設備が残っているのか。

なぜこの女は、崩壊前と変わらない顔で立っているのか。


その時、サユリがトレーを持ってきた。


温かいスープ。

焼いたパン。

卵。

果物。


アッシュは考えるのをやめた。


「ここ、いい病院だな」


「急に順応したわね」


「人間、温かい飯の前では疑問を捨てる生き物なんだよ」


「あなた竜じゃなかった?」


「空腹時は人間寄りになる設定だ」


サユリは少し笑った。


「食べられる?」


「食べられる。むしろ今、世界を救うより食べたい」


「じゃあ、ゆっくりね」


サユリはスプーンを持った。


アッシュはそれを見た。


「え?」


「口、開けて」


「自分で食える」


「患者は安静」


「患者って便利な身分だな」


「そうよ。だから大人しくしてて」


アッシュは数秒黙った。


それから、口を開けた。


スープは温かかった。


「……うまい」


「よかった」


「サユリ」


「何?」


「俺、しばらくここでいいかも」


サユリの目が細くなった。


嬉しそうだった。


けれど、その嬉しさは少し深すぎた。


「ええ。ずっといていいのよ」


「そこまで長期契約の話はしてない」


「治療が終わるまでは」


「治療って何を?」


「あなた」


「俺を治したら、むしろ価値下がらない?」


「大丈夫、私好みにしてあげる」


「今の台詞、普通に怖いな」


サユリは答えず、次の一口を差し出した。


アッシュは食べた。


うまかった。


怖さより飯が勝った。


食後、アッシュは病衣のポケットを探った。


何もない。


当然だった。

海に落ちたのだから。


だが、サユリが机の引き出しから濡れた煙草の箱を取り出した。


「これを探してる?」


「おお」


アッシュの顔が明るくなった。


「奇跡だな。世界はまだ俺を捨ててない」


「駄目」


サユリは煙草を引っ込めた。


「え?」


「吸っちゃ駄目」


「俺の精神安定剤」


「肺には毒よ」


「俺の肺より、まず世界を治してくれない?」


「無理言わないの。それに私、タバコ無理だって言わなかったっけ?」


アッシュは記憶を探った。


サユリ。

候補が三人いる。


そのうち一人は煙草が平気だった気がする。

一人は駄目だった気もする。

もう一人は煙草よりアッシュを燃やそうとしていた。


「……言ったっけ?」


「言った」


「何年前?」


「覚えてないの?」


「頭打った設定、まだ有効?」


「都合よく使わないで」


サユリの声は柔らかい。


だが、煙草を持つ手は動かなかった。


「治療中は禁煙」


「俺の自由は?」


「治療中です」


「自由の竜なんだけど」


「今は患者」


「種族ランク下げられたな」


「安静にしていたら戻るわ」


「戻るものなの?」


サユリは煙草を白衣のポケットにしまった。


完全に没収だった。


アッシュは枕に背中を預け、天井を見た。



飯は温かい。

ベッドは柔らかい。

空調は効いている。

女は世話を焼く。


だが、タバコを吸えないことが自由の竜としては屈辱だった。


ただ、昨日まで海水を飲みかけていたので、黙った。


その日の夜。


サユリは研究室にいた。


白い照明。

並んだモニター。

ガラス越しの隔離室。

資料の束。


彼女は画面に映る検査結果を見ながら、ペン先を止めていた。


けれど、見ているのは数字ではなかった。


アッシュの顔写真だった。


海岸で彼を見つけた時、サユリは本当に運命だと思った。


波打ち際に倒れている男。


濡れた灰色の髪。

焦げた服。

傷だらけの身体。

それでも、顔だけはひどく綺麗だった。


戻ってきた。


神様が返してくれた。


そう思った。


ただ、神様は残酷だった。


返してくれたアッシュは、少し壊れていた。


サユリの知っているアッシュは、もっと優しかった。


軽口は言う。

けれど、その奥には誠実さがあった。

誰よりも寂しがり屋で、誰よりも人を傷つけないように笑う人だった。


サユリの中では、そうだった。


何も言わずに消えたことも、彼女の中では別の意味を持っている。


私が悪かった。


研究に夢中になって、少し目を離したから。

彼を一人にしたから。

寂しさを言えない人なのに、寂しいまま放っておいたから。


彼は、私を責めずに出ていったのだ。


そう思うことで、サユリはアッシュが逃げたという事実を綺麗に消していた。


「今度は、ちゃんと見ているから」


サユリは小さく呟いた。


今度は治す。

今度は逃がさない。

今度は外の汚い世界に返さない。


それにしても、彼の服は焦げていた。


ゾンビではない。


感染者に襲われたなら、あんな風にはならない。


火。

爆発。

人間同士の争い。


サユリの目が冷たくなった。


「誰かが、巻き込んだのね」


あんなに純粋な人を。


研究室のドアが開いた。


「主任、実験結果が出ました。確認をお願いします」


部下が端末を差し出した。


サユリは一瞬で表情を戻した。


「見せて」


画面には、複数の検体データが並んでいた。


感染進行率。

筋出力。

神経反応。

命令応答率。

射撃精度。

冷凍保存後の再起動率。


どれも、従来型感染兵装のものだった。


開発そのものは成功している。


感染者を再調整し、痛覚を切り、本人の意思を削り取り、最低限の命令だけを理解する兵士に変える。


すでに感染しているため、再感染による変異は起きない。

恐怖もない。

痛みもない。

疲労への反応も鈍い。


命令すれば歩く。

命令すれば撃つ。

命令すれば止まる。

命令すれば死ぬまで前に出る。


銃火器の扱いも、単純なものなら可能だった。


そして保管も容易だ。


冷凍保存区画に入れておけばいい。


電力さえ維持できれば、腐敗も劣化も抑えられる。

食料もいらない。

睡眠もいらない。

不満も言わない。

凍った棺の中で、必要な時が来るまで眠り続ける。


兵器としては、完成していた。


少なくとも、従来型は。


「従来型の稼働率は安定しています」


部下が端末を操作しながら言った。


「冷凍保存区画の電力供給も問題ありません。再起動率、命令応答率、銃器操作の成功率、すべて基準値内です」


「でしょうね」


サユリは淡々と答えた。


「従来型はもう完成しているもの」


彼女は画面を送った。


次に表示されたのは、別の項目だった。


GF計画。

Grafted/Feral Type。


接合野生型感染兵装。


従来型の欠点を補うための、次世代型。


従来型は安定している。

だが、遅い。


命令は聞く。

だが、応用が利かない。


敵を撃つことはできる。

だが、遮蔽物を使い、位置を変え、狙いを修正し、相手の動きに合わせて撃つことはできない。


死体に近すぎるのだ。


だから、上はもっと強い兵士を求めた。


痛みを感じず。

感染を恐れず。

命令に従い。

なおかつ、生きた人間のように動ける兵士。


従来型より速く。

従来型より賢く。

従来型より正確に殺せるもの。


「勝手なことを言うわよね」


サユリは小さく呟いた。


部下は何も言わなかった。


GF型は、理論上は優れている。


自由意思は奪う。

だが、理性の残骸は残す。


人格は削る。

だが、反応速度に必要な癖は残す。


恐怖、怒り、執着、敵意、記憶の断片。


それらを完全には殺さず、戦闘能力に変える。


成功すれば、従来型とは比べ物にならない。


身のこなしは速くなる。

銃の狙いは正確になる。

遮蔽物を利用できる。

状況を判断できる。

対象を追跡できる。


ただし、問題があった。


自我を削りすぎれば、従来型と変わらない。


残しすぎれば、命令を聞かない。


感情を消せば、性能が落ちる。

感情を残せば、暴走する。


「十二号まで、すべて失敗」


サユリは画面に並ぶ結果を見た。


ロールアウトはした。

実戦テストも行った。

だが、最後には全機が破棄処分になっている。


弱すぎたもの。

鈍すぎたもの。

命令を理解できなかったもの。

理解しすぎて逆らったもの。

暴走したもの。

壊れたもの。


どれも、兵器にはならなかった。


「足りないのよ」


サユリはペン先で端末を叩いた。


「強い核が」


「核、ですか」


「ええ。壊しても残るもの。命令より深く、痛みより強く、死んでも消えないもの」


その時、研究室のドアが開いた。

彼女は一瞬だけ目を閉じた。


今夜アッシュに慰めてもらおう。


そう思った時だった。


別の警備員が研究室に駆け込んできた。


「主任、侵入者です」


サユリは目を開ける。


「侵入者?」


「武装しています。取り調べ中ですが、妙なことを口走っていて……」


「映像を」


モニターに、取調室の映像が映った。


椅子に縛られた女がいる。


髪は乱れ、顔には煤の跡。

目だけが異様にぎらついている。


アカネ。


彼女は自白剤を打たれ、聞かれてもいないことまで喋っていた。


『火をつけてやった』


『車も爆破した』


『あいつを殺すつもりだった』


『でも殺していいのは私だけ』


『アッシュは私を捨てた』


『だから燃やしてやるつもりだった』


サユリは黙って聞いた。


一度も表情を変えなかった。


だが、目だけが少しずつ細くなる。


警備員が言う。


「この女、対象者……アッシュ氏を追ってきたようです。爆発後、海に落ちたところを見ていたらしく、漂流方向を追跡。海岸で主任が回収した場面も見ていたと」


「そう」


「ここへ潜入した目的は、アッシュ氏の殺害と思われます」


「そう」


サユリの声は穏やかだった。


だからこそ、部下たちは何も言えなくなった。


モニターの中で、アカネが笑っている。


『あいつは私が燃やすの』


『他の女に拾われるくらいなら、灰になった方がまし』


サユリの唇が、ゆっくり歪んだ。


「ちょうど、被験者が足りなかったの」


取調室のアカネが、モニター越しにこちらを睨んだ気がした。


サユリは立ち上がる。


「生体制御区画へ移して」


「主任、本気ですか?」


「ええ」


「適合検査がまだ」


「執着が強い。痛みにも強そう。人を殺そうとした経験もある。素材として悪くない」


「まさか、GF型に?」


「ええ」


「危険です。十二号まで全機失敗しています」


「だから十三号が必要なの」


サユリは端末に指を滑らせた。


新しい試験体登録欄が開く。


Grafted/Feral Type-13。

GF-13。


「この子を十三号にするわ」


「適合検査がまだです」


「今からするの」


「ですが、精神汚染のリスクが」


「制御できれば問題ないわ」


「制御できなければ?」


サユリは微笑んだ。


「制御できるように作るのが、私たちの仕事でしょう」


アカネは手術台に固定された。


白い照明が顔に落ちる。


手首、足首、首、胴。

すべてベルトで縛られている。


それでも暴れていた。


「離せ! あいつを殺す! アッシュを殺すのは私だ!」


サユリはマスクをつけながら、アカネを見下ろした。


「アッシュを燃やそうとしたのね」


「殺す! あいつは私を――」


「じゃあ、あなたは燃えにくい身体になりましょうか」


アカネの動きが止まった。


「……は?」


「安心して。あなたは無駄にしないわ」


サユリの声は優しかった。


「あなたの怒りも、殺意も、執着も、全部役に立つ。アッシュを傷つけようとした分、ちゃんと私のために使ってあげる」


「ふざけるな!」


「ふざけてないわ。私はいつも真面目よ」


「殺す……あいつを……殺す……!」


「ええ。その気持ちだけは、残してあげる」


機械音が鳴る。


薬液が落ちる。


アカネの瞳孔が揺れた。


「生きてるのか死んでいるのか、分からないくらいがちょうどいいの」


サユリは言った。


「十三号」

「あなたはきっと、良い兵器になる」


手術室の扉が閉まった。


その向こうで、アカネの叫び声が細く伸びた。


しばらくして、サユリはアッシュの病室へ戻った。


白衣は綺麗なままだった。


手には夕食のトレーを持っている。


アッシュはベッドの上で寝転がり、天井を見ていた。


「遅かったな」


「少し仕事があったの」


「世界終わっても残業あるの、嫌すぎるな」


「あなたは休んでいて」


「休む才能なら無駄にある」


サユリは椅子に座り、トレーを置いた。


「はい、口を開けて」


「自分で食えるって」


「患者は安静」


「患者の権利は?」


「治療を受ける権利があるわ」


「拒否権は?」


「症状によるわね」


「無敵かよ、医療」


サユリはスプーンを差し出した。


アッシュは少しだけ迷い、結局口を開けた。


食事はうまかった。


温かい。

味がする。

ちゃんと人間の飯だった。


「うまいな」


「よかった」


「煙草は?」


「駄目」


「食後の煙草まで奪うのは、文明への反逆だろ」


「文明は禁煙に向かっていたわ」


「滅びた理由、そこじゃない?」


「違うと思う」


サユリはまた一口差し出す。


アッシュは食べる。


飯はうまい。

女は優しい。

病院は安全。

しかし煙草だけがない。


でも、やはり俺は世界が終わっても偉い。


そう思った。


食事の後、サユリはふと思いついたように言った。


「久しぶりに歌ってくれない?」


アッシュは目を細める。


「観客は?」


「私」


「贅沢な客だな」


「足りない?」


「いや、俺は自分を安売りしない主義でね」


「そう」


サユリは少し考えるように首を傾げた。


「じゃあ、歌ってくれたら一本だけ煙草を吸っていいわ」


アッシュは上体を起こした。


「どこで歌えばいい?」


「早いわね」


「芸術家は条件が合えば動きが速い」


「煙草一本で?」


「一本を笑う者は、この世界を生き残れない」


「安売りしないんじゃなかったの?」


「これは安売りじゃない。煙草の価値が上がっただけだ」


サユリは微笑んだ。


「マイクなら用意できるわ、小さなスピーカーも、照明は簡易だけど」


アッシュはベッドから足を下ろした。


「……この病院、何でもあるな」


「感染症対策よ」


「ライブ機材も?」


「精神的ケア」


「便利すぎるだろ、感染症対策」


さっきまで病人のふりをしていた男が、少しだけ背筋を伸ばす。


簡易照明が病室横の小ホールを照らした。


観客はサユリ一人。


それでも、アッシュは笑った。


「客席ひとつで俺を呼ぶとは、いい趣味してる」


サユリが静かに拍手する。


「だから、ちゃんと歌って」


「リクエストは?」


「あなたが一番、今歌いたい曲」


「じゃあ新曲だな」


「タイトルは?」


アッシュは少し考えた。


「終末ヒモ暮らし」


サユリは瞬きした。


「……どういう曲?」


「愛と配給制の歌」


「あなたらしいわ」


「俺ってそんな便利な概念だった?」


アッシュは笑って、マイクに口を近づけた。


歌が始まった。


軽い曲だった。


最低な歌詞だった。


終末に拾われ、飯を食い、女に世話を焼かれ、煙草を失い、それでも俺は生き延びてると歌う曲。


なのに、声だけは本物だった。


消毒液の匂いがする白い部屋に、アッシュの声が響く。


ふざけた言葉が、妙に綺麗な旋律に乗る。


世界が終わった後、人々は音を小さくして生きていた。


叫べば見つかる。

笑えば壊れる。

泣けば戻れなくなる。


だから、歌は久しぶりに熱唱した。


サユリは椅子に座り、アッシュを見つめていた。


私のアッシュ。


帰ってきた人。

治すべき人。

守るべき人。

逃がしてはいけない人。


歌っている彼は、やはり特別だった。


その時、廊下の向こうで若いナースが足を止めた。


手には書類。

仕事中のはずだった。


けれど、アッシュの歌に聞き入っている。


目が少し潤んでいた。

頬も赤い。

口元がほんの少し開いている。


完全に見惚れていた。


サユリはそれを見て、静かに笑った。


嫉妬はある。


もちろんある。


けれど、怒るほどではない。


だって、あの子は何もできない。


見ているだけ。

聴いているだけ。

手を伸ばせない。

声もかけられない。

近づくことも許されない。


アッシュは自分のものだ。


自分が見つけた。

自分が連れ帰った。

自分が治している。

自分の病院にいる。


あの子は、我慢しているだけ。


かわいい。


サユリは、そう思った。


見ているだけなら許してあげる。


彼がどれだけ素敵か分かるのは当然だもの。


でも、勘違いはしないでね。


これは私の人。


あなたたちは、聴かせてもらっているだけ。


サユリは館内放送のスイッチを見た。


私だけが聴くのもいい。


でも、どうせなら皆に分からせたい。


この人が、どれだけ特別なのか。

そして、どれだけ手の届かない人なのか。


少しだけ、見せつけてあげたい。


少しだけ、我慢できなくなる顔が見たい。


サユリは指を伸ばした。


館内放送に切り替わる。


アッシュの歌が、病院中に流れた。


白い廊下に。

ナースステーションに。

研究室に。

警備室に。

地下区画へ続く通路に。

休憩室で缶詰を食べていた職員の耳に。


人々が顔を上げた。


誰かが作業の手を止める。

誰かが廊下へ出る。

誰かが小さく笑う。

誰かが泣きそうな顔をする。


終わった世界で、音楽は久しぶりだった。


アッシュはそれに気づいていない。


ただノリノリだった。


観客が増えた気がする。


マイクの返りが少し変わった。


施設の空気が動いた。


それだけで分かった。


「お、増えた?」


アッシュは歌の合間に笑った。


「いいねえ。終末でも拡散力あるじゃん、俺」


サユリは満足そうに彼を見つめた。


聴きなさい。


これが、私のアッシュよ。


その頃、警備室でも歌は流れていた。


夜勤だった。


上司はいない。


若い警備員ばかりが詰めている。


モニターには外周フェンス、正門、裏口、駐車場、各隔壁の映像が並んでいる。


だが、誰も真剣には見ていなかった。


アッシュの歌が流れているからだ。


その中で一人、髪を明るく染めた若い警備員が椅子を揺らしていた。


パンク系の男だった。


「いや、普通に良くないすか?」


「見張れ」


「見てますって。画面、めっちゃありますもん」


「そういう意味じゃない」


「てか、世界終わっても夜勤って何なんすかね」


隣の警備員が溜息をつく。


「またそれか」


「いや、言いたくもなりますって。給料出るんすか、これ」


「食料は出てるだろ」


「それ給料じゃなくて餌じゃないすか」


「言い方」


「安全と缶詰と寝床と、たまに酒。もう物々交換じゃないすか。俺ら、文明崩壊後のバイトっすよ」


「黙ってろ」


「しかも若いやつばっか夜勤。上の人ら、判断が必要な時に備えて休むって何すか。判断が必要な時、俺ら死んでますよ」


誰も否定しなかった。


少しだけ空気が重くなる。


だが、アッシュの歌がサビに入った。


ウェーイ系の男は急に立ち上がった。


「やっぱライブは音量っすよ」


「座れ」


「いや、もったいないって。館内だけとか陰キャすぎるでしょ」


「外部音響はいじるな。主任命令だ」


「主任もノってるでしょ、これ」


「そういう話じゃない」


「外にも流せるんすよね? 非常用スピーカー」


「駄目だ。外に響く」


「響いた方がライブじゃん」


「民間人に施設がバレる」


「民間人なんか入れないんでしょ?」


「そういう問題じゃない」


「じゃあ何の問題っすか」


「ゾンビだよ」


ウェーイ系の男は笑った。


「音くらいでそんな来ます?」


「来る」


「でも今日くらいよくないすか? 世界終わってからずっと夜勤ですよ?」


「よくない」


「給料も出ない。上司もいない。酒も薄い。娯楽もない。そんでやっとライブ来たんすよ?」


「来てない。館内放送だ」


「実質ライブっす」


「違う」


「違わないっす。俺、今かなり生きてる感じしますもん」


彼は勝手に操作盤へ手を伸ばした。


隣の警備員が慌てる。


「おい、やめろ!」


「ちょっとだけっすって」


「馬鹿、本当にやめろ!」


「大丈夫っすよ。こういうのは勢いなんで!」


ボタンが押された。


外部警報スピーカーが起動する。


警報器レベルの出力。


病院の外壁に設置されたスピーカーが、一斉に震えた。


アッシュの歌が、夜の街へ放たれる。


「うお、すっげ!」


ウェーイ系の男は拳を突き上げた。


「マジでフェスじゃん!」


隣の警備員は青ざめていた。


「お前、終わったぞ」


「世界ならもう終わってますって!」


病院の中では、まだ歌が続いていた。


サユリはアッシュを見ている。

若いナースは廊下の端で頬を赤くしている。

研究員たちは手を止めている。

職員たちは久しぶりの音楽に顔を上げている。


誰もまだ、外を見ていなかった。


病院の外。


夜の街。


横転した車。

焼けたコンビニ。

割れたガラス。

血の跡が残る交差点。

地下道の暗がり。


そこにいたものたちが、ゆっくり顔を上げた。


音が聞こえる。


歌が聞こえる。


病院の場所を知らなかった死者たちが、初めて同じ方向を見る。


一体が歩き出す。


別の路地で、もう一体が振り向く。


地下道の奥から、複数の足音が重なる。


アッシュの歌は、フェンスを越え、道路を越え、死んだ街の奥まで届いていく。


警備室では、若い警備員がモニターも見ずに叫んでいた。


「やっぱライブは音量っすよ!」


その頃、街が病院へ向かって歩き出していた。

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