02.俺を裏切るの?
ゾンビパニックが始まって、一週間が経った。
世界は終わった。
少なくとも、テレビはそう言っていた。
もっとも、そのテレビも三日前から何も映していない。画面には緊急放送の文字だけが焼きついたように残り、時々、ノイズが走るだけだった。
その前で、アッシュはソファに寝転がっていた。
「アッシュ君」
キッチンから、ミサトの声がした。
「んー?」
「お水、今日の分はこれだけだからね」
テーブルの上に、ペットボトルが一本置かれる。
半分しか入っていない。
アッシュはそれを見て、眉をひそめた。
「世界が終わったのに、水まで俺を裏切るの?」
「少ないよ。だから大事に飲んで」
「銀河を名乗ってる男が、水を半分で我慢する時代かあ」
「銀河竜でも水は飲むでしょ」
「自由の竜が、飲み水を許可制にされてるんだけど」
「自由に飲んだら死ぬよ」
アッシュは黙った。
ミサトは真顔だった。
アッシュは黙った。
この女は、意外と厳しい。
食料は一日三回ではなく二回。
煙草は一日一本。
酒は非常時用。
風呂は禁止。
身体を拭くための水も、ミサトが管理する。
その代わり、アッシュは外に出なくていい。
物資の回収もしなくていい。
ゾンビと戦わなくていい。
廊下の物音に怯えながら、武器を持って玄関に立つ必要もない。
ミサトが全部やる。
アッシュの仕事は、夜に歌うことだった。
「今夜も歌ってね」
「喉が潰れたら、俺の価値が半分くらい落ちるよ?」
「小さくでいいよ」
「俺の歌声、基本的に世界へ向けて放つものなんだけど」
「私は好き」
ミサトはそう言って、少し笑った。
その笑い方が重かった。
アッシュを見ているのに、アッシュの向こう側に何かを見ているような目だった。
「あと、寝る時はちゃんと隣にいて」
「昨日もいたよ」
「途中で離れた」
「トイレ」
「戻ってくるまで不安だった」
「俺、トイレまで管理されるの?」
「外がこうなってから、ドアが閉まる音が怖いの」
ミサトはアッシュの横に座った。
距離が近い。
「だから、朝まで抱きしめてて」
「俺は抱き枕じゃないんだけど」
「知ってる」
「知ってるなら」
「でも、お願い」
アッシュは天井を見た。
重い。
とても重い。
だが、外に出なくていい。
「まあ、いいか」
アッシュは手を伸ばして、ミサトの肩を抱いた。
ミサトは目を閉じた。
その顔は、ひどく安心していた。
まるで世界が終わったことより、アッシュがここにいることの方が大事だと言いたげだった。
実際、そうなのだろう。
アッシュはそういう女を、何人か知っていた。
たいてい面倒で、たいてい便利だった。
数日後。
食料はさらに減った。
テーブルに置かれた皿には、缶詰の豆が少しと、乾パンが二枚。
アッシュはそれを見て、さすがに顔をしかめた。
「ミサト」
「何?」
「これ、朝飯?」
「昼も兼用」
「文明、後退しすぎじゃない?」
「近くのコンビニはもう空だった。下の階の部屋もほとんど誰かに漁られてた」
「遠くの方が残ってるよ。たぶん。俺は行かないけど」
ミサトの手が止まる。
「遠くは危ないよ」
「危ないのは近くも同じだろ」
「でも」
「他人の家、見てくればいいじゃん」
ミサトがアッシュを見た。
「それ、盗みだよ」
アッシュは乾パンをかじった。
「盗みじゃないよ。世界からの再分配」
「……」
「生きるためだろ?」
「……生きるため」
「そうそう」
アッシュは軽く笑った。
「うん、ミサトは賢い」
ミサトは視線を落とした。
納得したというより、納得したことにした顔だった。
「分かった。行ってくる」
「助かる」
「何か欲しいものある?」
「煙草」
ミサトは黙った。
「食料じゃなくて?」
「食料も」
「先に言って」
「終末に必要なのは水、火、煙草。あと俺」
「アッシュ君、本当に酷い」
「でも好きだろ?」
ミサトは小さく息を吐いた。
「……好き」
負けた声だった。
昼過ぎ、ミサトはリュックを背負って部屋を出た。
鍵が閉まる音がする。
アッシュはしばらくソファで寝ていたが、腹が減って起きた。
部屋は静かだった。
外からは、遠くの悲鳴と、どこかで鳴り続けている車の警報音が聞こえる。
一週間。
最初は本当に終わったと思った。
今も終わっている。
ただ、人間は案外しぶとい。
どこかで発電機が動き、どこかで火が上がり、どこかで物資を奪い合っている。
滅亡にも生活音がある。
アッシュはベランダに出た。
街は汚れていた。
道路には乗り捨てられた車。
割れたガラス。
黒い煙。
ふらふら歩く人影。
人なのか、もう人ではないのか、遠目では分からない。
「世界は滅びてもいいけど、煙草まで付き合わなくてよくない?」
そう呟いた時だった。
マンションの下に、人影が見えた。
女だった。
階段の方へ向かっている。
動きはしっかりしている。ゾンビではない。
アッシュは手すりに肘をつき、目を細めた。
「……どっかで見たな」
顔までは見えない。
けれど、姿に覚えがあった。
髪型か。歩き方か。女の気配か。
「まあ、あんな女が外を歩けるなら、案外もう日常は戻り始めてるのかもな」
しばらくした後、アッシュは部屋に戻った。
その瞬間、焦げた匂いがした。
玄関の方からだった。
ドアの隙間の向こうが、赤い。
アッシュは近づき、すぐに足を止めた。
廊下が燃えている。
誰かが玄関前に火をつけたのだ。
「うわ」
煙が入り込んでくる。
ドアノブが熱を持ち始めていた。
アッシュは一歩下がり、窓の方を見た。
非常階段に出られる。
迷いはなかった。
「熱心なファンは嬉しいけど、火をつける距離感は違うんだよね」
アッシュはそう言って、窓を開けた。
外の空気が流れ込む。
彼は非常階段へ出ると、火の回りを確認しながら下へ降りた。
逃げているわけではない。
対応しているのだ。
アッシュの中では、そういうことになっていた。
建物の外へ出ると、煙が上の階へ伸びていた。
ミサトの部屋のあたりから、黒い煙が漏れている。
アッシュは少し離れた場所に立ち、マンションを見上げた。
「腹減ったな」
ミサトはまだ戻らない。
戻るなら、そろそろだろう。
できれば食料を持って。
できれば煙草も持って。
そう思った時、上から声がした。
「アッシュ君!」
アッシュは顔を上げた。
燃え始めた部屋の中に、ミサトがいた。
窓の向こう。
煙に包まれながら、必死に中を見回している。
アッシュを探している。
「あいつ……」
アッシュは理解した。
ミサトは戻ってきたのだ。
そして、アッシュがまだ部屋にいると思って、火の中へ入った。
「ミサト! 俺、外! 外にいる!」
声が届いたのか、ミサトがこちらを見る。
その顔が、ほんの少し緩んだ。
助かった。
たぶん、そう思ったのだ。
アッシュは非常階段を駆け上がった。
火はまだ上の階までは回りきっていない。
途中の踊り場に、リュックと紙袋が置かれていた。
ミサトが持ち帰った物資だった。
缶詰。水。薬。乾電池。
そして、煙草。
「煙草まである。そこは本当に偉い」
アッシュは煙草を取り出した。
箱を振る。
中身はある。
ライターを探した。
ない。
「女の優しさって、たまに一個足りないんだよな」
アッシュは燃えている廊下の方を見た。
火ならある。
彼は紙袋を足元に置き、煙草をくわえた。
身を乗り出し、炎の先に煙草を近づける。
先端に火がついた。
アッシュは深く吸い込んだ。
肺に煙が入る。
世界が少しだけまともに戻った気がした。
その時、炎の向こうで何かが崩れた。
アッシュが顔を上げる。
玄関の奥から、人影が出てきた。
ミサトだった。
髪も、服も、腕も燃えていた。
それでも彼女は、アッシュの姿を見つけると、安心したように口元を動かした。
声は出なかった。
ミサトは、アッシュの目の前で倒れた。
燃えている。
まだ、かすかに動いている。
アッシュは、煙草をくわえたまま見下ろしていた。
今から駆け寄って、何ができる。
火を消す水はない。
火傷を治す薬もない。
病院もない。
救急車も来ない。
抱えて降りたところで、助かる保証なんてどこにもない。
むしろ、こっちまで煙を吸って終わる。
アッシュはそう考えた。
考えた、というより、そういうことにした。
足元には、ミサトが持って帰ってきた物資がある。
缶詰。
水。
薬。
煙草。
どれも、今の世界では命より軽くない。
アッシュは紙袋を拾った。
「ありがとな。俺、しばらく生きられる」
それは、物資を持って帰ってきてくれたことへの感謝だった。
他にはない。
アッシュはリュックを肩にかけ、紙袋を抱えた。
普通なら、ここで火の中へ飛び込むのだろう。
名前を叫び、彼女を抱き上げ、奇跡を信じるのだろう。
だが、アッシュは普通ではなかった。
それに、奇跡で火傷は治らない。
階段を下りる。
背後で炎が唸った。
ミサトの部屋が燃えている。
廊下が燃えている。
マンション全体に火が広がっていく。
消防車は来ない。
誰も助けに来ない。
終わった世界では、火事もただの景色になる。
アッシュはマンションから離れた。
紙袋の中を確認する。
缶詰。水。煙草。
悪くない。
けれど、妙に静かだった。
街は騒がしいのに、アッシュの周りだけ音が薄い。
ミサトがいない。
抱きしめろと言う声もない。
歌ってと言う声もない。
水を飲みすぎだと怒る声もない。
自由になった。
そのはずだった。
アッシュは歩いた。
燃えるマンションを背にして、坂を下る。
しばらくすると、海が見えた。
夕方の海は黒く、遠くの火を映して赤く揺れていた。
世界が終わるというのは、もっと派手なものだと思っていた。
空が割れるとか。
神様が降りてくるとか。
巨大な隕石が落ちるとか。
実際は違った。
助けに来るものが来ない。
戻ってくる女が戻ってこない。
煙草の煙だけが、いつも通り喉を焼く。
それだけだった。
アッシュは海を見ながら、口ずさんだ。
「終末ヒモ暮らし……」
悪くない。
軽い。
最低。
けれど耳に残る。
「終末ヒモ暮らし……俺の人生、だいたい曲にすると許されるな」
その時だった。
背後から声がした。
「死ね、浮気者!」
アッシュが振り向く。
女がいた。
誰だったかは、すぐには分からなかった。
分かる前に、近くに停まっていたガソリン車が爆発した。
轟音。
熱風。
視界が赤く弾ける。
アッシュの身体は宙に浮き、そのまま海へ投げ出された。
水面に叩きつけられる直前、彼は思った。
今日はよく燃える日だ。
次に目を覚ました時、空が白かった。
波の音がする。
身体が重い。
口の中が塩辛い。
「アッシュさん!」
女の声がした。
アッシュは目を開ける。
白衣を着た女が、こちらを覗き込んでいた。
顔は整っている。
髪は乱れている。
目はかなり本気だった。
「アッシュさん! 分かりますか? 私です!」
アッシュは数秒見つめた。
「泣いた? 怒った? 刺そうとした? どの系統?」
女の顔が強張る。
「頭を打って、私のことが分からないのですね?」
「いや、たぶん普通に知らな――」
「大丈夫。私が治すから」
「話聞いてる?」
「私よ。サユリ」
「……サユリ」
「思い出した?」
「いや、名前聞いても候補が三人いる」
サユリは息を呑んだ。
「やっぱり脳震盪を起こしているわ」
「いや、候補が三人いるだけ」
「記憶の混濁。見当識障害。人格変化。典型的な頭部外傷後の症状ね」
「そこは外傷じゃなくて個性かな」
「自覚がないのも症状よ」
「都合の悪い俺を全部症状にするの、強いな」
「大丈夫です、聞いています。だから放っておけない!」
サユリはアッシュの頬に手を当てた。
冷たい手だった。
医療従事者の手だ。
慣れている。
人を助けることにも。
自分の都合で診断することにも。
「回復するまで、私が見てあげる」
「俺、歩けると思うけど」
「安静」
「いや」
「安静」
「サユリさん?」
「思い出した?」
「いや、今のは確認」
サユリは安心したように微笑んだ。
「大丈夫。少しずつ戻ってる」
「戻ってない」
「戻るまで一緒にいればいい」
「話の結論がおかしい」
「患者は黙ってて」
アッシュは空を見た。
ミサトのマンションは燃えた。
爆発に巻き込まれて海に落ちた。
誰かの追撃も、たぶんそこで切れた。
そして今、別の女に拾われている。
なるほど。
終わった世界でも、意外と何とかなる。
アッシュは濡れた髪をかき上げ、薄く笑った。
「モテる男は、終末でも休めないねえ」
サユリは真剣な顔で頷いた。
「それも症状ね」
アッシュは黙った。
反論しようとして、口を開く。
「いや、それは――」
そこで視界がぐらりと揺れた。
白い空が、ゆっくり横に流れる。
サユリの顔が近づいてくる。
「アッシュさん?」
「……水に落ちたのに、まだ燃えてる気がする」
それだけ言って、アッシュは再び意識を失った。
サユリは彼の顔を覗き込み、静かに息を呑む。
そして、どこか嬉しそうに呟いた。
「やっぱり、私が見ていないと駄目ね」




