表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/10

02.俺を裏切るの?

ゾンビパニックが始まって、一週間が経った。


世界は終わった。


少なくとも、テレビはそう言っていた。


もっとも、そのテレビも三日前から何も映していない。画面には緊急放送の文字だけが焼きついたように残り、時々、ノイズが走るだけだった。


その前で、アッシュはソファに寝転がっていた。


「アッシュ君」


キッチンから、ミサトの声がした。


「んー?」


「お水、今日の分はこれだけだからね」


テーブルの上に、ペットボトルが一本置かれる。


半分しか入っていない。


アッシュはそれを見て、眉をひそめた。


「世界が終わったのに、水まで俺を裏切るの?」


「少ないよ。だから大事に飲んで」


「銀河を名乗ってる男が、水を半分で我慢する時代かあ」


「銀河竜でも水は飲むでしょ」


「自由の竜が、飲み水を許可制にされてるんだけど」


「自由に飲んだら死ぬよ」


アッシュは黙った。

ミサトは真顔だった。


アッシュは黙った。


この女は、意外と厳しい。


食料は一日三回ではなく二回。

煙草は一日一本。

酒は非常時用。

風呂は禁止。

身体を拭くための水も、ミサトが管理する。


その代わり、アッシュは外に出なくていい。


物資の回収もしなくていい。

ゾンビと戦わなくていい。

廊下の物音に怯えながら、武器を持って玄関に立つ必要もない。


ミサトが全部やる。


アッシュの仕事は、夜に歌うことだった。


「今夜も歌ってね」


「喉が潰れたら、俺の価値が半分くらい落ちるよ?」


「小さくでいいよ」


「俺の歌声、基本的に世界へ向けて放つものなんだけど」


「私は好き」


ミサトはそう言って、少し笑った。


その笑い方が重かった。


アッシュを見ているのに、アッシュの向こう側に何かを見ているような目だった。


「あと、寝る時はちゃんと隣にいて」


「昨日もいたよ」


「途中で離れた」


「トイレ」


「戻ってくるまで不安だった」


「俺、トイレまで管理されるの?」


「外がこうなってから、ドアが閉まる音が怖いの」


ミサトはアッシュの横に座った。


距離が近い。


「だから、朝まで抱きしめてて」


「俺は抱き枕じゃないんだけど」


「知ってる」


「知ってるなら」


「でも、お願い」


アッシュは天井を見た。


重い。


とても重い。


だが、外に出なくていい。


「まあ、いいか」


アッシュは手を伸ばして、ミサトの肩を抱いた。


ミサトは目を閉じた。


その顔は、ひどく安心していた。


まるで世界が終わったことより、アッシュがここにいることの方が大事だと言いたげだった。


実際、そうなのだろう。


アッシュはそういう女を、何人か知っていた。


たいてい面倒で、たいてい便利だった。


数日後。


食料はさらに減った。


テーブルに置かれた皿には、缶詰の豆が少しと、乾パンが二枚。


アッシュはそれを見て、さすがに顔をしかめた。


「ミサト」


「何?」


「これ、朝飯?」


「昼も兼用」


「文明、後退しすぎじゃない?」


「近くのコンビニはもう空だった。下の階の部屋もほとんど誰かに漁られてた」


「遠くの方が残ってるよ。たぶん。俺は行かないけど」


ミサトの手が止まる。


「遠くは危ないよ」


「危ないのは近くも同じだろ」


「でも」


「他人の家、見てくればいいじゃん」


ミサトがアッシュを見た。


「それ、盗みだよ」


アッシュは乾パンをかじった。


「盗みじゃないよ。世界からの再分配」


「……」


「生きるためだろ?」


「……生きるため」


「そうそう」


アッシュは軽く笑った。


「うん、ミサトは賢い」


ミサトは視線を落とした。


納得したというより、納得したことにした顔だった。


「分かった。行ってくる」


「助かる」


「何か欲しいものある?」


「煙草」


ミサトは黙った。


「食料じゃなくて?」


「食料も」


「先に言って」


「終末に必要なのは水、火、煙草。あと俺」


「アッシュ君、本当に酷い」


「でも好きだろ?」


ミサトは小さく息を吐いた。


「……好き」


負けた声だった。


昼過ぎ、ミサトはリュックを背負って部屋を出た。


鍵が閉まる音がする。


アッシュはしばらくソファで寝ていたが、腹が減って起きた。


部屋は静かだった。


外からは、遠くの悲鳴と、どこかで鳴り続けている車の警報音が聞こえる。


一週間。


最初は本当に終わったと思った。


今も終わっている。


ただ、人間は案外しぶとい。


どこかで発電機が動き、どこかで火が上がり、どこかで物資を奪い合っている。


滅亡にも生活音がある。


アッシュはベランダに出た。


街は汚れていた。


道路には乗り捨てられた車。

割れたガラス。

黒い煙。

ふらふら歩く人影。


人なのか、もう人ではないのか、遠目では分からない。


「世界は滅びてもいいけど、煙草まで付き合わなくてよくない?」


そう呟いた時だった。


マンションの下に、人影が見えた。


女だった。


階段の方へ向かっている。


動きはしっかりしている。ゾンビではない。


アッシュは手すりに肘をつき、目を細めた。


「……どっかで見たな」


顔までは見えない。


けれど、姿に覚えがあった。


髪型か。歩き方か。女の気配か。


「まあ、あんな女が外を歩けるなら、案外もう日常は戻り始めてるのかもな」


しばらくした後、アッシュは部屋に戻った。


その瞬間、焦げた匂いがした。


玄関の方からだった。


ドアの隙間の向こうが、赤い。


アッシュは近づき、すぐに足を止めた。


廊下が燃えている。


誰かが玄関前に火をつけたのだ。


「うわ」


煙が入り込んでくる。


ドアノブが熱を持ち始めていた。


アッシュは一歩下がり、窓の方を見た。


非常階段に出られる。


迷いはなかった。


「熱心なファンは嬉しいけど、火をつける距離感は違うんだよね」


アッシュはそう言って、窓を開けた。


外の空気が流れ込む。


彼は非常階段へ出ると、火の回りを確認しながら下へ降りた。


逃げているわけではない。


対応しているのだ。


アッシュの中では、そういうことになっていた。


建物の外へ出ると、煙が上の階へ伸びていた。


ミサトの部屋のあたりから、黒い煙が漏れている。


アッシュは少し離れた場所に立ち、マンションを見上げた。


「腹減ったな」


ミサトはまだ戻らない。


戻るなら、そろそろだろう。


できれば食料を持って。

できれば煙草も持って。


そう思った時、上から声がした。


「アッシュ君!」


アッシュは顔を上げた。


燃え始めた部屋の中に、ミサトがいた。


窓の向こう。


煙に包まれながら、必死に中を見回している。


アッシュを探している。


「あいつ……」


アッシュは理解した。


ミサトは戻ってきたのだ。


そして、アッシュがまだ部屋にいると思って、火の中へ入った。


「ミサト! 俺、外! 外にいる!」


声が届いたのか、ミサトがこちらを見る。


その顔が、ほんの少し緩んだ。


助かった。


たぶん、そう思ったのだ。


アッシュは非常階段を駆け上がった。


火はまだ上の階までは回りきっていない。


途中の踊り場に、リュックと紙袋が置かれていた。


ミサトが持ち帰った物資だった。


缶詰。水。薬。乾電池。

そして、煙草。


「煙草まである。そこは本当に偉い」


アッシュは煙草を取り出した。


箱を振る。


中身はある。


ライターを探した。


ない。


「女の優しさって、たまに一個足りないんだよな」


アッシュは燃えている廊下の方を見た。


火ならある。


彼は紙袋を足元に置き、煙草をくわえた。


身を乗り出し、炎の先に煙草を近づける。


先端に火がついた。


アッシュは深く吸い込んだ。


肺に煙が入る。


世界が少しだけまともに戻った気がした。


その時、炎の向こうで何かが崩れた。


アッシュが顔を上げる。


玄関の奥から、人影が出てきた。


ミサトだった。


髪も、服も、腕も燃えていた。


それでも彼女は、アッシュの姿を見つけると、安心したように口元を動かした。


声は出なかった。


ミサトは、アッシュの目の前で倒れた。


燃えている。


まだ、かすかに動いている。


アッシュは、煙草をくわえたまま見下ろしていた。


今から駆け寄って、何ができる。


火を消す水はない。

火傷を治す薬もない。

病院もない。

救急車も来ない。

抱えて降りたところで、助かる保証なんてどこにもない。


むしろ、こっちまで煙を吸って終わる。


アッシュはそう考えた。


考えた、というより、そういうことにした。


足元には、ミサトが持って帰ってきた物資がある。


缶詰。

水。

薬。

煙草。


どれも、今の世界では命より軽くない。


アッシュは紙袋を拾った。


「ありがとな。俺、しばらく生きられる」


それは、物資を持って帰ってきてくれたことへの感謝だった。


他にはない。


アッシュはリュックを肩にかけ、紙袋を抱えた。


普通なら、ここで火の中へ飛び込むのだろう。


名前を叫び、彼女を抱き上げ、奇跡を信じるのだろう。


だが、アッシュは普通ではなかった。


それに、奇跡で火傷は治らない。


階段を下りる。


背後で炎が唸った。


ミサトの部屋が燃えている。


廊下が燃えている。


マンション全体に火が広がっていく。


消防車は来ない。


誰も助けに来ない。


終わった世界では、火事もただの景色になる。


アッシュはマンションから離れた。


紙袋の中を確認する。


缶詰。水。煙草。

悪くない。


けれど、妙に静かだった。


街は騒がしいのに、アッシュの周りだけ音が薄い。


ミサトがいない。


抱きしめろと言う声もない。

歌ってと言う声もない。

水を飲みすぎだと怒る声もない。


自由になった。


そのはずだった。


アッシュは歩いた。


燃えるマンションを背にして、坂を下る。


しばらくすると、海が見えた。


夕方の海は黒く、遠くの火を映して赤く揺れていた。


世界が終わるというのは、もっと派手なものだと思っていた。


空が割れるとか。

神様が降りてくるとか。

巨大な隕石が落ちるとか。


実際は違った。


助けに来るものが来ない。

戻ってくる女が戻ってこない。

煙草の煙だけが、いつも通り喉を焼く。


それだけだった。


アッシュは海を見ながら、口ずさんだ。


「終末ヒモ暮らし……」


悪くない。


軽い。

最低。

けれど耳に残る。


「終末ヒモ暮らし……俺の人生、だいたい曲にすると許されるな」


その時だった。


背後から声がした。


「死ね、浮気者!」


アッシュが振り向く。


女がいた。


誰だったかは、すぐには分からなかった。


分かる前に、近くに停まっていたガソリン車が爆発した。


轟音。


熱風。


視界が赤く弾ける。


アッシュの身体は宙に浮き、そのまま海へ投げ出された。


水面に叩きつけられる直前、彼は思った。


今日はよく燃える日だ。


次に目を覚ました時、空が白かった。


波の音がする。


身体が重い。


口の中が塩辛い。


「アッシュさん!」


女の声がした。


アッシュは目を開ける。


白衣を着た女が、こちらを覗き込んでいた。


顔は整っている。

髪は乱れている。

目はかなり本気だった。


「アッシュさん! 分かりますか? 私です!」


アッシュは数秒見つめた。


「泣いた? 怒った? 刺そうとした? どの系統?」


女の顔が強張る。


「頭を打って、私のことが分からないのですね?」


「いや、たぶん普通に知らな――」


「大丈夫。私が治すから」


「話聞いてる?」


「私よ。サユリ」


「……サユリ」


「思い出した?」


「いや、名前聞いても候補が三人いる」


サユリは息を呑んだ。


「やっぱり脳震盪を起こしているわ」


「いや、候補が三人いるだけ」


「記憶の混濁。見当識障害。人格変化。典型的な頭部外傷後の症状ね」


「そこは外傷じゃなくて個性かな」


「自覚がないのも症状よ」


「都合の悪い俺を全部症状にするの、強いな」


「大丈夫です、聞いています。だから放っておけない!」


サユリはアッシュの頬に手を当てた。


冷たい手だった。


医療従事者の手だ。


慣れている。

人を助けることにも。

自分の都合で診断することにも。


「回復するまで、私が見てあげる」


「俺、歩けると思うけど」


「安静」


「いや」


「安静」


「サユリさん?」


「思い出した?」


「いや、今のは確認」


サユリは安心したように微笑んだ。


「大丈夫。少しずつ戻ってる」


「戻ってない」


「戻るまで一緒にいればいい」


「話の結論がおかしい」


「患者は黙ってて」


アッシュは空を見た。


ミサトのマンションは燃えた。

爆発に巻き込まれて海に落ちた。

誰かの追撃も、たぶんそこで切れた。


そして今、別の女に拾われている。


なるほど。


終わった世界でも、意外と何とかなる。


アッシュは濡れた髪をかき上げ、薄く笑った。


「モテる男は、終末でも休めないねえ」


サユリは真剣な顔で頷いた。


「それも症状ね」


アッシュは黙った。


反論しようとして、口を開く。


「いや、それは――」


そこで視界がぐらりと揺れた。


白い空が、ゆっくり横に流れる。


サユリの顔が近づいてくる。


「アッシュさん?」


「……水に落ちたのに、まだ燃えてる気がする」


それだけ言って、アッシュは再び意識を失った。


サユリは彼の顔を覗き込み、静かに息を呑む。


そして、どこか嬉しそうに呟いた。


「やっぱり、私が見ていないと駄目ね」


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ