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01.ゾンビより怖い女たち

歓声は、もう遠かった。


つい数時間前まで、そこには人の熱があった。


照明がステージを焼き、スピーカーが震え、客席の腕が波のように揺れていた。

誰もが最後だと知っていた。


街はすでに終わりかけていた。

外では人が人を噛み、道路には横転した車が並び、ニュースは同じ警告を繰り返すだけになっていた。


それでも、彼らは演奏した。


世界がまともだった頃の最後の名残みたいに、銀河竜アッシュは歌った。

客は泣き、笑い、叫び、そして最後の曲が終わった時、誰かが言った。


これが、ラストコンサートだ、と。


今はもう、楽屋だけが静かだった。


壁の向こうからは、時々、遠くの悲鳴が聞こえる。

それでも楽屋の中には、まだライブの余熱が残っていた。


「……私たちも、音楽なんかやってる場合じゃなかったのかな」


バンドメンバーの女が、床に座り込んだまま呟いた。


名前はミナ。

銀河竜アッシュのサポートギターで、今日のライブでは最後の曲のソロを任されていた。


汗で濡れた髪を後ろに払うその顔には、疲労と興奮と、少しの後悔が混ざっている。


アッシュはソファにふんぞり返り、煙草をくわえたまま笑った。


「いや、こういう時こそ音楽だろ」


「外、ゾンビだらけだよ」


「だからこそだよ。普通の世界で格好つけても、普通に格好いいだけだろ。終わった世界で歌ってこそ伝説になる」


「そういうところ、本当に変わらないね」


「変わらない男ってのは貴重なんだよ」


ミナは呆れたように笑った。


その笑顔は、少しだけ安心していた。

外の世界がどれほど壊れても、アッシュはいつものアッシュのままだったからだ。


軽薄で、調子がよくて、自分勝手で。

それでもステージの上では、誰よりも眩しかった。


「ねえ、アッシュ」


「ん?」


「もしここから出られたらさ」


「出られるって」


「最後まで聞いてよ」


「出られたら?」


ミナは少しだけ視線を落とした。


「今度は、ちゃんとした場所でやろうよ。客席が悲鳴じゃなくて歓声だけで埋まってるところで」


アッシュは煙草をくわえたまま、片目を細めた。


「いいね。じゃあ次はドームだな」


「話が大きい」


「小さい男じゃないんでね」


その時だった。


コン、コン。


楽屋の扉が鳴った。


二人の動きが止まった。


外の悲鳴も、遠くの爆発音も、一瞬だけ聞こえなくなった気がした。


コン、コン。


もう一度、ノック。


ミナが息を呑む。


「……どうしよう。ゾンビかな」


アッシュはゆっくり立ち上がった。


表情だけなら、驚くほど落ち着いている。


「いや、もしかしたら困ってるだけかもしれない」


「でも」


「開けてやれよ。人間だったら見捨てられないだろ」


ミナは不安そうに扉を見る。


「アッシュは?」


「俺は裏で救急箱取ってくる。怪我人だったら必要だ」


その言い方は、妙に頼もしかった。


ミナは一瞬、彼を見直したような顔をした。


この人は、こういう時でも逃げないのだと。

軽い男に見えて、本当はちゃんと誰かを助けようとするのだと。


「……わかった」


ミナは慎重に扉へ近づいた。


アッシュは反対側の通路へ向かう。


扉の前で、ミナが小さく声をかけた。


「誰かいますか?」


返事はない。


ただ、扉の向こうで何かが擦れる音がした。


ミナは息を整え、ロックを外す。


扉が、少しだけ開いた。


その隙間から、腕が伸びた。


「きゃっ――!」


腐った指がミナの肩を掴む。

倒れ込むように入ってきた男の顔は、もう人間のものではなかった。


ミナが床に押し倒される。


「アッシュ! 助けて! アッシュ!」


アッシュは振り返った。


目が合った。


ミナは必死に手を伸ばす。


アッシュは、はっきり頷いた。


「わかった!」


ミナの顔に希望が戻る。


次の瞬間、アッシュは言った。


「人を呼んでくる! ここで待ってろ!」


「え?」


アッシュは裏口へ走った。


「アッシュ!?」


「すぐ戻る!」


戻らなかった。


裏口のドアが開き、冷たい夜風が流れ込む。


アッシュはライブハウスの裏路地へ飛び出した。

遠くで車のクラクションが鳴り続けている。

炎上したゴミ箱の明かりが、濡れたアスファルトを赤く照らしていた。


「いやあ、まずいね」


アッシュは走りながら呟いた。


「非常にまずい」


背後からミナの悲鳴が聞こえた気がしたが、アッシュは振り返らなかった。


路地の角を曲がる。


そこには一体、ゾンビが立っていた。

アッシュを見るなり、ふらついた足取りで近づいてくる。


「悪い、今ファン対応してる暇ないんだ」


アッシュは横のフェンスを蹴り、細い通路へ逃げ込んだ。


行き先は決まっていた。


近くに、知り合いの女の家がある。


正確には、かつて知り合いだった女。

もっと正確に言えば、きちんと別れていない女。


窓の明かりが見えた時、アッシュは心底安心した。


「生きてたか。さすがレイカ」


アパートの階段を駆け上がり、ドアを叩く。


「レイカ! 俺だ! 開けろ!」


内側で物音がした。


チェーンが外れる音。

鍵が回る音。


ドアが開いた瞬間、アッシュの額に銃口が向けられた。


「……アッシュ?」


レイカは、黒いタンクトップ姿でショットガンを構えていた。

顔は整っているが、目はまったく笑っていない。


アッシュは両手を上げた。


「待て待て待て。落ち着け。銃は人に向けるものじゃない」


「ゾンビには向けるものよ」


「俺、生きてる」


「浮気男にも向けるものよ」


「そこは法的にグレーだな」


「また女のところから逃げてきたんでしょう」


アッシュは一瞬だけ黙った。


「違う」


「嘘」


「俺は君を助けに来たんだ」


レイカの眉がぴくりと動いた。


「私を?」


「そうだ。街はもう駄目だ。ライブハウスも危ない。だけど俺は思ったんだよ。今、最初に助けに行くべき女は誰かって」


「……それで、私のところに来たの?」


「当然だろ」


レイカの銃口が、ほんの少し下がった。


アッシュはその隙を逃さず、部屋の中へ滑り込む。


「水ある? あと包帯。できれば酒」


「怪我してるの?」


「心がな」


「撃つわよ」


「水だけでいい」


レイカはまだ疑っていた。


それでも、完全には拒絶しなかった。


アッシュの言葉には、そういう力があった。

最低だと知っていても、もしかしたら今回は違うのかもしれないと思わせる、嫌な力が。


レイカはドアを閉め、鍵をかけた。


「……本当に、私を助けに来たの?」


アッシュは真面目な顔を作った。


「当たり前だ。俺だって、変わる時は変わる」


レイカは目を伏せた。


その表情には、怒りだけではないものが混ざっていた。


過去に何度も裏切られた。

何度も待たされた。

何度も、もう信じないと決めた。


それでも、終わった世界で最初に自分のところへ来たのだとしたら。


ほんの少しだけ、信じたくなってしまう。


「……馬鹿みたい」


「よく言われる」


「褒めてない」


「知ってる」


その時、窓ガラスが揺れた。


ドン。


何かがぶつかった音。


レイカが即座にショットガンを構える。


アッシュは部屋の奥を見る。


「今のは?」


「外階段」


ドン。


さらに強い音。


窓の向こうに、血に濡れた手が張り付いた。


レイカが舌打ちする。


「来た」


「人気者はつらいな」


「黙って」


窓ガラスにひびが入る。


廊下側からも、複数の足音が近づいてきた。


レイカは銃に弾を込める。


「アッシュ、そこの棚を押して。入口を塞ぐ」


「任せろ」


アッシュは棚に手をかけた。


そのまま、部屋の奥にあるトイレのドアを見た。


「その前に、ちょっとトイレ行ってくる」


レイカが振り返る。


「今?」


「今。こういう時に限って来るんだよ」


「ふざけてる場合?」


「ふざけてない。生命活動だ」


「早くして!」


「すぐ戻る!」


アッシュはトイレに入った。


鍵をかける。


外ではレイカが棚を引きずる音がした。

窓ガラスが割れる。

銃声。


アッシュは便座の上に乗り、小さな窓を開けた。


「よし」


身体をねじ込み、外へ抜ける。


狭い。

かなり狭い。


「俺じゃなきゃ無理だな」


無理やり窓を抜け、裏の配管へ足をかける。


部屋の中からレイカの声が聞こえた。


「アッシュ!? まだ!?」


アッシュは小声で答えた。


「今、人生の大事なところ」


そのまま配管を伝って下へ降りる。


背後でまた銃声がした。


アッシュは地面に着地すると、服の埃を払った。


「ふう」


その時、路地の向こうからよろよろと誰かが歩いてきた。


ミナだった。


肩口を押さえている。

顔色は悪く、足取りもおぼつかない。


それでもまだ、完全には変わっていなかった。


「アッシュ……」


アッシュは目を丸くした。


「ミナ。生きてたのか」


「助けを……呼んでくるって……」


「ああ」


アッシュは真剣な顔で頷いた。


「呼んできた」


「本当……?」


「本当だ。あの家に行くといい」


アッシュは親指で、今まさに逃げ出してきたレイカの部屋を指した。


「あそこに武装した女がいる。話はつけてきた」


ミナの目に涙が浮かぶ。


「ありがとう……アッシュ……」


「安心しろ……あと、もう少しだ」


ミナはふらつきながら階段へ向かう。


アッシュは胸ポケットから煙草を取り出した。


火をつける。


深く吸い込む。


夜の街は燃えていた。


遠くではまだ悲鳴が聞こえる。

近くではゾンビの足音が増えている。


だが、アッシュは少しだけ満足そうだった。


「人助けも楽じゃないねえ」


ミナがレイカの部屋のドアを叩く音が聞こえた。


すぐに中からレイカの声。


「誰!?」


「助けてください……アッシュが、ここに行けって……」


沈黙。


それから、レイカの声が低くなる。


「アッシュが?」


アッシュは煙草をくわえたまま、そっと一歩下がった。


ドアが開く音。


ミナの安堵した声。


「ありがとう……」


次の瞬間、銃声が響いた。


一発。


間を置いて、もう一発。


アッシュは煙草の煙を吐いた。


そして、心底他人事のように笑う。


「うわ。話つけたつもりだったんだけどな」


また銃声。


アッシュは夜道へ歩き出す。


「修羅場だね~!」


背後では、ゾンビの唸り声と女の怒号と、何かが壊れる音が混ざっていた。


アッシュは振り返らない。


ただ、燃える街の中を歩きながら、煙草を指で弾いた。


「ゾンビより怖いのいたな」


その灰が、暗い路地に落ちた。


アッシュは、しばらくその火の消えた先を見ていた。


ステージの熱も、ミナの悲鳴も、レイカの怒号も、全部が遠くなっていく。


終わっていくものは、いつだって少しだけ美しい。


だから、惜しいとは思った。


悲しいかと聞かれれば、そこまでは分からない。


アッシュは短くなった煙草を最後まで吸い、靴の裏で火を踏み消した。


「ま、愛に犠牲がつきものか」


そう呟いて、顔を上げる。


アッシュが角を曲がろうとした時だった。


背中に、ひやりとした気配が触れた。


足音ではない。


もっと湿った、引きずるような音。


アッシュは煙草をくわえたまま振り向いた。


そこに、ミナが立っていた。


全身が血に濡れていた。


肩口の傷は広がり、口元にも赤黒いものがついている。

目はまだ人間の形をしているのに、焦点だけが少しずつずれていた。


「アッシュ……」


「ミナ」


アッシュは驚いた顔をした。


それは、演技ではなかった。

ただし、恐怖ではない。


「すごいな。生きてるじゃん」


ミナは震える手で、自分の口元を押さえた。


「ごめんなさい……」


「ん?」


「私、気が動転して……さっきの女の人……殺しちゃった」


アッシュは一瞬だけ黙った。


そして、ゆっくりと頷いた。


「そうか」


「どうしよう……私、人を……」


「落ち着け」


アッシュは優しい声で言った。


「今はそういう時代じゃない」


「そういう時代って何……?」


「細かいことを気にしてたら生き残れない時代だ」


ミナの目から涙がこぼれた。


「私、怖い……身体が熱いの……頭が、変で……アッシュの声だけ、すごく近くに聞こえる……」


「ライブの後ってそういう感じあるよな」


「違う……!」


ミナが一歩近づく。


アッシュは下がらない。


彼女の呼吸は荒かった。

喉の奥で、時々、人間のものではない音が混ざる。


「アッシュ……私、私ね……あなたに置いていかれたくなかっただけなの」


「うん」


「助けてほしかったの」


「うん」


「なのに……どうして……」


ミナの顔が歪む。


涙と血でぐしゃぐしゃになった顔のまま、彼女は笑った。


「ねえ、アッシュ」


「何?」


「あなたも、一緒に来て」


その瞬間、ミナが飛びかかった。


アッシュの喉元へ、血に濡れた歯が迫る。


だが、その牙が届く直前。


横合いからヘッドライトが突っ込んできた。


轟音。


ミナの身体が宙に跳ねた。


軽トラックが悲鳴みたいなブレーキ音を響かせ、路地の壁際で止まる。


運転席のドアが開いた。


「アッシュ君!」


降りてきたのは、髪を一つに結んだ女だった。


ミサト。


アッシュが、つい先月まで泊まり込んでいた女だ。


「大丈夫!? 怪我してない!?」


ミサトは駆け寄り、アッシュの腕や胸元を慌てて確認する。


アッシュは少しだけ両手を広げた。


「何ともないよ。ありがとう」


「よかった……! 本当に、よかった……!」


ミサトは泣きそうな顔でアッシュを見上げた。


その背後。


壁際で、死んだと思われたミナの指が、ぴくりと動いた。


「……アッシュ……?」


ミサトの顔色が変わる。


「乗って」


彼女は助手席を指した。


アッシュは即座に乗った。


迷いがなかった。


ミナが、這うように手を伸ばす。


「待って……私……」


アッシュは振り返った。


「ミナ」


その声は、ひどく優しかった。


「生きろ」


「置いていくの!?」


「俺も生きる」


「そういう話じゃない!」


ミサトがエンジンをかける。


軽トラックが揺れた。


アッシュは助手席の窓から身を乗り出した。


「ミナ! 諦めるな! その強さが君の音楽だ!」


「何言ってるの!?」


車が走り出す。


ミナの叫びが遠ざかる。


アッシュは窓から顔を戻し、軽く息を吐いた。


「助かったよ」


ミサトが横目で睨む。


「今の女、誰?」


アッシュは少し考えた。


「ファンかな」


「嘘でしょ」


「元ファンかもしれない」


燃える街の向こうで、また誰かの悲鳴が上がった。


アッシュは窓の外を見ながら、どこか満足そうに呟いた。


「人気者は、つらいねえ」 



挿絵(By みてみん)


もしよろしければ10話完結までお付き合いください。

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