10.彼女ハザード(最終話)
川は、朝の光を受けて鈍く揺れていた。
濁った水面に、灰色の空が映っている。
昨日までなら、ただの川だった。
山から街へ流れ、橋の下を通り、どこか知らない場所へ続いていく。ただそれだけの水だった。
けれど今は違う。
その底には、黒い端末が沈んでいる。
軍が追い、警察が求め、首相官邸が燃えるきっかけになり、サクラとカエデが血を流したもの。
ユリカが勝手に鞄へ入れたもの。
過去のアッシュが、面倒くさそうに投げ捨てたもの。
彼は川岸に立ち、しばらく水面を見下ろしていた。
服は汚れている。
片袖は破れ、靴には泥がこびりつき、顔には殴られた痕が残っている。喉は渇き、腹は空っぽで、煙草もない。
それでも、アッシュは生きていた。
そのこと自体は、いつものことだった。
問題は、今ここに立っていることだった。
「……過去の俺をここまで恨んだことはないな」
自分で捨てたものを拾いに戻る。
考えただけで嫌だった。
アッシュの人生において、捨てるという行為は基本的に一方通行だった。
女。
約束。
部屋の鍵。
借りた金。
途中まで作った曲。
面倒になった関係。
責任が発生しそうな会話。
そういうものは、手を離した瞬間に過去になった。
過去は追ってくることもあるが、自分から拾いに行くものではない。
なのに今、川の中にそれが沈んでいる。
拾えば、何かが変わるかもしれない。
拾えば、ハルカが守ろうとしたものに意味が出るかもしれない。
拾えば、サクラが血まみれになってまで自分を逃がしたことが無駄ではなくなるかもしれない。
拾えば、カエデが最後に認めた気持ちも、ただの恨みで終わらないかもしれない。
拾えば、ユリカが自分の人生を賭けて鞄に入れたものを、自分は受け取ったことになるのかもしれない。
アッシュは黙った。
水面が揺れる。
川の音だけが、やけに大きかった。
人生で初めてかもしれない。
彼は、自分の行動に責任というものが乗っている感覚を、ほんの少しだけ味わっていた。
重い。
とても重い。
女の視線より重い。
元カノの涙より重い。
銃口より、火炎放射器より、装甲車より、よほど質が悪い。
逃げれば済むものではない。
たぶん。
もしかすると。
本当に、もしかすると。
ここで川へ入るべきなのかもしれない。
冷たい水に足を踏み入れ、泥を探り、端末を探す。
見つからないかもしれない。
壊れているかもしれない。
それでも探す。
そうすれば、自分は少しだけまともな男に見えるかもしれない。
サクラに。
カエデに。
ハルカに。
ユリカに。
いや、もう誰にも見られてはいない。
だからこそ、やる意味があるのかもしれない。
アッシュは、珍しく深く息を吸った。
それから、川を見た。
濁っている。
寒そうだった。
流れも意外と速い。
どこが投げた場所だったかも、正確には覚えていない。
「……」
長い沈黙。
彼は、ゆっくりと頷いた。
「まあ、必要ならまた誰かが呼びに来るだろ」
結論は出た。
行かない。
アッシュは川に背を向けた。
「俺一人で探すより、警察とか軍とか専門の連中が探した方が絶対いいしな」
そう呟きながら歩き出す。
「そもそも、世界の命運を俺に預けた時点で人類滅亡だろ」
一歩。
二歩。
三歩。
責任の重さは、背中に残っていた。
だが、歩くごとに少しずつ軽くなる。
腹が鳴った。
アッシュは顔をしかめた。
「責任より先に胃が限界だな」
それで、ほとんどいつもの彼に戻った。
川は背後で流れ続けている。
黒い端末が本当にそこにあるのか、もう下流へ流されたのか、それすら分からない。
アッシュは振り返らなかった。
振り返ると、関係者になる気がした。
だから見ない。
見なければ、まだ通行人でいられる。
そのはずだった。
街道へ出るころには、日が少し高くなっていた。
空は灰色で、どこかで煙が上がっている。
崩れた電柱。
割れた標識。
横転した車。
終末の景色は、もう見慣れてしまった。
慣れたくはなかったが、慣れた。
人間は案外、何にでも慣れる。
アッシュはふらつきながら歩いた。
足が重い。
喉が渇く。
腹が空きすぎて、逆に少し気持ち悪い。
「飯……水……煙草……」
口に出してみる。
一番大事な順番ではない。
ただ、今ほしい順番だった。
「あと酒……」
少し考える。
「できれば、俺を殺そうとしてない女……」
さらに考える。
「いや、それは高望みか」
その時、遠くにフェンスが見えた。
学校だった。
校舎はまだ残っている。
窓には板が打ちつけられ、校門には机や車が積み上げられている。屋上には人影があり、見張りらしき者が周囲を見ていた。
体育館の方からは、かすかに人の声が聞こえる。
避難所。
生きている人間の匂いがした。
アッシュは立ち止まる。
「学校か……」
嫌な記憶は特にない。
良い記憶もあまりない。
ただ、今の彼には、そこが天国に見えた。
水があるかもしれない。
飯があるかもしれない。
寝る場所があるかもしれない。
煙草と酒は、たぶんない。
でも、もしかしたらあるかもしれない。
希望とは、そういう小さな妄想でできている。
アッシュは校門へ向かった。
すぐにライトが当てられる。
「止まれ!」
男の声。
アッシュは両手を上げた。
「止まってる。かなり止まってる。むしろ倒れそう」
「噛まれてないか!」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目だ!」
「じゃあ噛まれてない!」
「腕を見せろ!」
アッシュは袖をまくった。
腕は傷だらけだった。
転んだ痕。
殴られた痕。
枝で切った痕。
だが、噛み傷はない。
「首!」
「俺の首をそんな事務的に見るなよ。もう少し価値あるぞ」
「早くしろ!」
アッシュは首筋を見せた。
「足!」
「足まで見るの? この避難所、入店審査厳しいな」
「感染確認だ!」
「分かったよ」
アッシュは片足ずつ見せた。
見張りたちは慎重だった。
当然だった。
終末で人を入れるということは、危険を入れるということでもある。
アッシュはその点において、感染以外の意味でかなり危険だったが、彼らにはまだ分からない。
しばらく確認が続いた。
熱を測られた。
目を見られた。
口の中まで確認された。
名前を聞かれた。
「銀河竜アッシュ」
見張りの男が眉を上げる。
「歌手の?」
「たぶん、その歌手」
「本物か?」
「この状況で偽物やるほど、人生に余裕あるやついる?」
男は一瞬だけ黙った。
そして、少しだけ表情を緩めた。
「よく生きてたな!」
アッシュは心の底から頷いた。
「俺もそう思う」
門が開いた。
完全にではない。
人一人が通れるだけの隙間。
アッシュはそこを通り抜けた。
中へ入った瞬間、匂いが変わった。
汗。
消毒液。
湿った毛布。
炊き出しの薄い匂い。
人が集まっている場所の匂いだった。
体育館へ案内される。
そこには、多くの避難民がいた。
床に敷かれたマット。
並べられた毛布。
壁際に積まれた段ボール。
水のタンク。
簡易トイレへの案内。
ステージ。
学校の体育館。
アッシュはそこを見て、少しだけ懐かしいような顔をした。
すぐに職員らしき中年の女がやって来た。
「座って。今、水を持ってくるから」
「女神?」
「ただの避難所職員よ」
「今の俺には同じに見える」
紙コップに入った水が渡される。
アッシュは一気に飲んだ。
喉に流れ込む。
生き返る。
本当に、少しだけ世界が戻った気がした。
続いて、薄いスープと固いパンが出てきた。
具は少ない。
味も薄い。
だが、温かかった。
アッシュはそれを見て、言葉を失った。
スプーンを取り、口に運ぶ。
「……うまい」
職員が少し笑う。
「たいしたものじゃないけどね」
「いや、これは生き返る」
パンをかじる。
固い。
だが、食える。
食えるものは正義だった。
「神様、今度はちゃんと仕事したな」
「煙草はないわよ」
アッシュの手が止まる。
「まだ聞いてないのに?」
「顔に書いてある」
「俺の顔、そんなに読みやすい?」
「今はかなり」
「残念だ。せめて一本くらい」
「ない」
「神様、詰めが甘いな」
職員は呆れたように笑った。
その笑いは、久しぶりに聞く普通の笑いだった。
アッシュは食べながら、体育館を見回した。
女が多い。
子供もいる。
老人もいる。
若い男も少しはいるが、数が少ない。
そして、全体の空気が暗い。
安全な場所のはずだった。
飯もある。
水もある。
毛布もある。
見張りもいる。
なのに、体育館には重い沈黙が敷かれていた。
誰かが泣いている。
誰かが入口を見ている。
誰かが床の一点をずっと見つめている。
子供の声も小さい。
アッシュはスープを飲み干してから、職員を見た。
「ここ、女が多いな」
「そう見える?」
「見える。俺向きと言いたいところだけど、空気が暗すぎる」
職員の顔から笑みが消えた。
「男の人たちは、外へ出たの」
アッシュは何となく分かった。
「物資集め?」
「最初は近くのコンビニ。次は薬局。その次は少し離れた倉庫。ここにある食料も水も、ほとんど外へ出た人たちが集めてくれた」
職員は体育館の奥を見た。
そこには、毛布にくるまった女たちが座っている。
目が赤い。
顔色が悪い。
「でも、戻る人数が少しずつ減っていった」
アッシュは黙って聞いた。
「昨日、最後の二人が戻らなかった。だから、もう外へ出せない。出したくない。でも物資はある。しばらくは食べられる」
「なら、いいことじゃないのか」
「食べるたびに思い出すのよ」
職員の声が少しだけ沈む。
「これは、帰ってこなかった人たちが持ってきたものなんだって」
アッシュは手元の空になった器を見た。
スープの跡が少し残っている。
パンの欠片もある。
この飯も、誰かが外から持って帰ったものかもしれない。
もう帰ってこない誰かが。
「……重い飯だな」
「そうね」
職員は目を伏せた。
「でも食べないと生きられない」
アッシュは体育館の中を見た。
女たちは沈んでいる。
悲しんでいる。
待っている。
もう帰ってこない男たちを。
あるいは、帰ってこない自分の生活を。
世界を。
アッシュはステージを見た。
古い緞帳。
少し歪んだ演台。
隅に置かれた壊れかけのマイクスタンド。
体育館のステージ。
決して良い場所ではない。
照明もない。
音響も悪そうだ。
客席も椅子ではなく床。
それでも、ステージだった。
アッシュはゆっくり立ち上がった。
職員が驚く。
「どうしたの?」
「食った」
「うん」
「水も飲んだ」
「うん」
「煙草はなかった」
「ないね」
「なら、歌うか」
職員は瞬きした。
「今?」
「今」
「ここで?」
「ステージがあるだろ」
「外に聞こえたら危ない」
「外に聞こえないくらいでいい。内側に届けば十分だろ」
職員は何か言おうとして、止まった。
アッシュは歩き出す。
ステージへ向かう。
何人かが顔を上げた。
誰かが小さく声を漏らす。
「アッシュ?」
「本物?」
「銀河竜アッシュ?」
その声は少しずつ広がった。
アッシュはステージに上がった。
マイクは使えない。
電源も入らない。
彼は試しに手を叩いた。
乾いた音が体育館に響く。
悪くない。
「えー」
アッシュは体育館を見下ろした。
疲れた女たち。
泣き疲れた子供。
職員。
老人。
見張りを終えた男。
全員が、何となくこちらを見ている。
「本日は、アラナミ地区避難所へようこそ」
職員が小さく首を振る。
「あなたが来た側でしょ」
「細かいことはいいんだよ」
体育館に、少しだけ笑いが起きた。
久しぶりの笑いのようだった。
アッシュはその反応に満足そうに頷く。
「俺も色々あった。病院は燃えるし、ヘリは落ちるし、軍には追われるし、女には食われかけるし、責任を取らされそうになったが取らなかった」
誰かが困惑した顔をする。
「何の話?」
「人生の話」
アッシュは軽く息を吸った。
「まあ、暗い話はどこにでもある。死んだやつは帰ってこない。戻らないやつは戻らない。待ってても腹は減る。泣いても明日は来る。ひどい話だ」
体育館が静まる。
「だから、せめて飯は食え。水は飲め。寝られるなら寝ろ。生きてるなら、もう一曲くらい聞いていけ」
アッシュは薄く笑った。
「新曲だ」
少し間を置く。
「タイトルは――13股と金曜日」
歌が始まった。
最初は小さかった。
体育館の壁にぶつかって、床へ落ちるくらいの声。
けれど、すぐに広がる。
マイクはない。
スピーカーもない。
それでも声は通った。
ふざけた歌だった。
終末に迷い込んだ男が、飯を探し、水を探し、煙草を探し、女から逃げ、また女に拾われ、逃げた先でまた歌う。
歌詞は最低だった。
死んでいった女たちを、美しくはしなかった。
死んだら飯は食えない。
戻らないなら、残したものは誰かが食え。
泣くなら泣け。
でも、腹が鳴ったら食え。
生きてるだけで、アンコールは勝手に来る。
そんな歌だった。
最初に怒った顔をした女がいた。
膝の上で拳を握った女がいた。
「ふざけないで」と唇だけが動いた女もいた。
けれど、アッシュの声は止まらない。
慰めすぎない。
責めもしない。
綺麗な言葉で包まない。
ただ、乱暴に現実を鳴らす。
死んだ者は戻らない。
それでも、今ここで息をしている者がいる。
泣いてもいい。
怒ってもいい。
飯を食ってもいい。
笑ってしまってもいい。
その全部を、軽い旋律に乗せてしまう。
誰かが泣き出した。
別の誰かが、声を殺して笑った。
子供が顔を上げた。
職員が手で口元を押さえた。
床を見つめていた女が、ゆっくりステージを見た。
アッシュは歌っていた。
終末の体育館で。
照明もないステージで。
腹を空かせたまま。
煙草を欲しがったまま。
それでも、声だけは本物だった。
女たちの目が変わっていく。
最初は、悲しみだった。
次に、驚き。
それから、安堵。
そして、熱。
喪失で空いた場所へ、歌声が入り込む。
帰ってこない誰かを待っていた目が、ステージの上の男へ向き直る。
この人は、私たちを見てくれた。
この人は、私の痛みを歌ってくれた。
この人は、こんな世界でも笑っている。
違う。
アッシュは誰か一人を見ていたわけではない。
自分の声が響く場所を見ていただけだ。
自分が歌って、誰かが反応する、その空気に酔っていただけだ。
けれど、傷ついた心は都合よく受け取る。
悲しみの隙間に、熱は入りやすい。
歌が終わった。
体育館は、しばらく静かだった。
アッシュは肩で息をしている。
数秒。
一人が拍手した。
次に、もう一人。
それから、体育館全体へ広がっていく。
泣きながら拍手する女。
口元を押さえながら笑う女。
子供を抱きしめる女。
職員まで、目を赤くして手を叩いていた。
アッシュは軽く頭を下げる。
「どうも。飯のおかわりがあるなら、拍手より助かる」
そこで、また笑いが起きた。
今度は少し大きい。
体育館の空気が、ほんの少しだけ明るくなった。
誰かが立ち上がる。
「スープ、まだあります」
別の女が水を持ってくる。
「こっち、座ってください」
「毛布、使いますか?」
「怪我してますよね?」
「包帯、あります」
「煙草は……ごめんなさい、ないです」
アッシュは最後の言葉だけは本気で残念そうな顔をした。
「そこだけ事情が深刻だな」
女たちが笑う。
何人かは、もう笑いながら泣いていた。
職員はその光景を見ていた。
たしかに、空気は変わった。
暗かった体育館に、少しだけ熱が戻った。
食事を拒んでいた女がスープを受け取っている。
ずっと入口を見ていた女が、今はステージを見ている。
子供が「もう一回」と言っている。
良いことのはずだった。
良いことのはずなのに、職員は背筋に少し冷たいものを感じていた。
女たちの目が、変わりすぎている。
悲しみが消えたわけではない。
別のものに置き換わり始めている。
アッシュは床に座り、スープのおかわりを受け取っていた。
「ありがたい。今の俺は、拍手より汁物に弱い」
隣に座った若い女が、頬を赤くして笑う。
「明日も歌ってくれますか?」
「飯が出るなら」
別の女がすぐに顔を上げる。
「出ますよ」
「水もあります」
「毛布も」
「煙草は、探せば……」
職員の顔がこわばった。
「外には出ないで」
女たちは一瞬、静まる。
だが、その目はまだアッシュへ向いていた。
「でも、もし近くに残っていたら」
「明るくなってからなら」
「危なくない範囲で」
「私、場所を知ってるかも」
職員はそこで気づいた。
これは救いではない。
いや、救いではある。
でも、それだけではない。
避難所に、新しい危険が入った。
ゾンビではない。
軍でもない。
略奪者でもない。
感染者でもない。
アッシュ。
彼はスープを飲み、満足そうに息を吐いている。
自分が何を始めたのか、ほとんど分かっていない。
分かっていても、たぶん都合よく軽く考える。
アッシュは体育館を見回した。
さっきまで暗かった女たちが、自分を見ている。
泣き疲れた顔が、少しずつ熱を帯びている。
悪くない。
かなり悪くない。
飯がある。
水がある。
寝床もある。
煙草はないが、探そうとしてくれる女がいる。
アッシュは静かに頷いた。
「避難所生活、意外と俺に向いてるかもしれないな」
職員は何も言えなかった。
その夜。
体育館の空気は、昼とは違っていた。
悲しみはまだある。
帰ってこない男たちの名前も、消えたわけではない。
けれど、女たちは少しずつ起き上がっている。
食事をする。
水を飲む。
毛布を整える。
そして、ちらちらとステージの方を見る。
アッシュはステージ脇で毛布にくるまり、眠ろうとしていた。
眠れそうだった。
久しぶりに、安全そうな場所だった。
少なくとも、今のところは。
近くで、女たちの囁きが聞こえる。
「あの人、明日も歌ってくれるかな」
「怪我、痛そうだった」
「水、もっと持っていってあげようか」
「食事、足りてたかな」
「煙草、どこかにないかな」
「明るくなったら、倉庫をもう一度探してみる」
「外は危ないよ」
「でも、校舎の中なら」
「私、前に職員室でライター見たかも」
「教えてあげたら、喜ぶかな」
アッシュは目を閉じたまま、少しだけ笑った。
「いい避難所だな……」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。
体育館の天井は高い。
外では、遠くの街がまだ燃えている。
川の底には、黒い端末が沈んでいるかもしれない。
軍も、警察も、政府も、ゾンビも、まだ終わっていない。
けれど、ここでは今、別のものが始まっていた。
彼女が消えれば、また彼女が増える。
誰かが死んでも、誰かが彼を見る。
悲しみで空いた場所に、彼の歌が入り込む。
救いの顔をして。
慰めの声をして。
そして、静かに熱を持つ。
ゾンビより怖いもの。
軍より面倒なもの。
国家機密より捨てにくいもの。
それは、彼を好きになった女たちだった。
アッシュは毛布の中で寝返りを打つ。
「明日は、煙草が見つかりますように」
世界は答えない。
ただ、体育館の暗がりで、誰かが小さく呟いた。
「私、探してみる」
終末は、まだ終わらない。
彼女ハザードは、これからも続いていく。 .end




