昔の続きではない
最初の全体練習は、その週の日曜日に決まった。
場所は市営球場のサブグラウンド。
午後の二時間だけだったが、グループチャットに参加を表明した人間は全員来ることになっていた。
僕が着いたとき、三塁側のベンチにはすでに何人か集まっていた。
「遅いぞ、言い出しっぺ」
最初に声をかけてきたのは元四番だった。
短く立った黒髪も、太い眉も、高校の頃とほとんど変わっていない。
紺色のジャージを着た身体は、当時より少し厚くなっていた。卒業後も草野球を続けているだけあって、肩や胸に大きな緩みはない。
「集合の十分前だけど」
「主将は一時間前に来るものだろ」
「誰が主将だよ」
「お前以外にいるのか?」
「言い出しただけで決めるな」
「投手で主将。高校のときと同じだな」
その言葉に、少しだけ引っかかった。
元四番は気づかず、僕の肩へ腕を回そうとする。
避けると、舌打ちされた。
「二年ぶりなのに冷たいな」
「朝から暑苦しい」
「午後だぞ」
「時間の話じゃない」
「相変わらずだな、お前ら」
後ろから聞き覚えのある声がした。
振り向く。
一瞬、誰なのか分からなかった。
黒いシャツの襟元を少し開け、濃色のパンツをはいている。
髪は明るい金色に変わっていた。柔らかく癖のある毛先を遊ばせ、前髪を横へ流している。
顔立ちそのものは変わっていない。
切れ長の目と、何かを面白がっているような口元。
遊撃手だった。
「何」
僕の視線に気づき、遊撃手が笑う。
「見惚れた?」
「誰か分からなかった」
「ひどくない?」
「二年で何があったんだよ」
「いろいろ」
「説明になってない」
「説明したら長いよ」
遊撃手は持っていたバッグをベンチへ置き、元四番を見る。
「こっちは全然変わってないね」
「悪いか」
「眉毛まで現役」
「眉毛に引退があるのか?」
二人が話している間にも、同級生たちが集まってくる。
高校時代に二塁を守っていた同級生。
外野手が二人。
久しぶりに顔を合わせても、誰も改まった挨拶はしなかった。
仕事の話や、誰が太ったかという話をしながら、当たり前のようにグラウンドへ入っていく。
「おう。揃ってるな」
肉屋が大きなバッグを肩にかけて現れた。
今日は白い前掛けではなく、黒いトレーニングウェアを着ている。
仕事着でなくても、身体の大きさは変わらない。
元四番が肉屋を見上げた。
「でかいな」
「お前が元四番か」
「元じゃない。今日からまた四番だ」
「まだ打順は決まってません」
僕が言うと、二人が同時にこちらを見る。
「何でだよ」
「何でだ」
「同じ反応しないでください」
肉屋は元四番の肩から足元までを眺め、腕を組んだ。
「思ったより細いな」
「そっちは思ったより丸いな」
「これは全部、打球を飛ばすための筋肉だ」
「腹も?」
「特に腹だ」
「野球の理論、変わった?」
遊撃手が横から入る。
「お前は何だ、その頭」
「似合ってるでしょ」
「肉の色としては薄すぎるな」
「食材として見ないでくれる?」
騒がしい声の後ろから、布団屋がゆっくり歩いてくる。
白いシャツの袖をまくり、ベージュの薄い上着を腕にかけていた。
眠たげな目で集まった人間を見回す。
「思ったより、本当に集まりましたね」
「仮参加じゃなかったんですか」
「見に来ただけです」
布団屋はそう言いながら、すでにスパイクを持っていた。
「やる気あるじゃないですか」
「見るにも準備は必要なので」
最後に後輩が到着する。
大きな防具袋を背負い、もう片方の手にはミットを持っている。
同級生たちの視線が、後輩へ集まった。
「久しぶりです」
後輩が頭を下げる。
元四番が最初に近づいた。
「でかくなったな」
「身長は変わってません」
「横が」
「褒めてます?」
「捕手には最大級の褒め言葉だろ」
後輩は困ったように眼鏡を直した。
高校時代、後輩は僕たちより一学年下だった。
同級生たちに囲まれると、今でも少しだけ身体を硬くする。
けれど、以前のように元相方の後ろへ隠れることはできない。
今日は自分の防具を持ち、自分のミットで僕の球を受けるために来ている。
「始めるか」
元四番が手を叩く。
「まずノックだな。俺、三塁」
「俺は遊撃」
遊撃手が当然のように続ける。
二塁手だった同級生も、すでに二塁の方向へ歩き始めていた。
外野手たちは外野へ向かう。
高校時代と同じ配置だった。
「一塁は俺でいいな」
肉屋が言う。
「元々一塁だったんですよね」
「ああ。たまに外野」
「じゃあ、一度そこへ」
僕が答えると、布団屋が口を挟んだ。
「一度?」
相変わらず柔らかい声だった。
「ずっとじゃないんですか」
「まだ決めてないので」
「なるほど」
布団屋はグラウンドを見渡した。
「高校時代の守備位置に、そのまま入るんですね」
「ほかに基準がないだろ」
元四番が答える。
「最初はな」
「最初は、ですね」
布団屋は薄く笑った。
ノックをする人間がいなかったため、最初は僕がバットを持った。
「投手に打たせるのかよ」
元四番が言う。
「じゃあ代わって」
「俺は守備を見せないと」
「誰に?」
「全員に」
「自信あるなあ」
遊撃手が笑う。
僕はホームベースの前から、三塁へ緩いゴロを打った。
元四番は正面へ入り、腰を落として捕る。
一塁への送球は少し高かったが、肉屋が腕を伸ばして収めた。
「どうだ」
「一球で何が分かるんですか」
「上手かっただろ」
「送球、高かったです」
後輩が言う。
「厳しくなったな、お前」
「昔からです」
「昔はそんなこと言わなかったぞ」
「言える立場じゃなかったので」
次は遊撃手へ打つ。
少し深い位置へ転がった打球に、遊撃手は軽い足取りで追いついた。
捕球から送球までが速い。
見た目は大きく変わっていても、身体の使い方は覚えているらしい。
肉屋の胸元へ、強い球が届く。
「それ、いい球だな」
肉屋が言う。
「顔もいいですよ」
「聞いてない」
遊撃手が肩をすくめる。
何球か続けるうちに、少しずつ差が見えてきた。
元四番は正面の打球には強い。
ただし左右へ振ると、最初の一歩が高校時代より遅れていた。
二塁手だった同級生は動けているが、久しぶりの硬式球に送球が安定しない。
外野では、目測を誤って頭を越される打球が続いた。
高校時代と同じ場所へ立てば、高校時代と同じように守れるわけではない。
僕がバットを置くと、布団屋が近づいてきた。
「代わりますよ」
「ノックできます?」
「一応」
布団屋はバットを受け取る。
最初の打球は、一塁側への弱いゴロだった。
肉屋が前へ出て捕り、ベースへ戻る。
次は三塁線。
その次は遊撃の深い位置。
打球の強さと方向を細かく変え、野手の動ける範囲を確かめるように打っていく。
「上手いな」
元四番が言った。
「見た目より動くって、肉屋さんが言ってました」
「それ、褒めてる?」
布団屋は答えず、今度はバットを僕へ返した。
「守ってもいいですか」
「どこを?」
「空いているところで」
布団屋は二塁と外野に入り、何本か打球を受けた。
動きは派手ではない。
全力で走っているようにも見えなかった。
それでも打球が落ちる場所へ入るのが早い。
捕ってから投げるまでにも無駄がなく、送球はすべて相手の胸元へ届いた。
「眠そうなのに、ちゃんと見えてるんだな」
元四番が言う。
「眠そうは余計です」
「目、半分しか開いてないぞ」
「必要なものは見えてます」
布団屋は薄く笑った。
守備練習を終え、今度は打撃を見ることになった。
後輩が防具を着け、僕は軽く投げる。
本格的な投球ではない。
打ちやすい場所へ、七割程度の力で運ぶだけだった。
最初に打席へ入った元四番は、バットを二度大きく振った。
「久しぶりに硬球打つな」
「当ててから格好つけて」
遊撃手が言う。
「黙って見てろ」
一球目。
元四番は強く振ったが、バットは球の下を通った。
「今のは目慣らし」
二球目も空振り。
「今のはタイミング確認」
三球目はファウルになった。
「当たった」
「少しずつ目標を下げるなよ」
四球目。
元四番の打球が三塁線を強く抜けた。
防球ネットに当たり、乾いた音がする。
「ほら見ろ」
元四番が胸を張る。
「まだ一本です」
僕が言うと、次の打球も左中間へ飛んだ。
以前ほどの鋭さはない。
それでも、芯で捉えたときの強さは残っている。
「四番、空いてる?」
元四番が聞く。
「まだ決めません」
「今ので決まりだろ」
「次、俺だ」
肉屋が打席へ入る。
バットを持つと、身体の大きさがさらに目立った。
「もっと長いのないか」
「それで十分です」
「短く感じるぞ」
「腕が太いからですよ」
肉屋は軽く素振りをした。
風を切る音がする。
一球目は、豪快な空振りだった。
バットが球のかなり下を通る。
「見えてます?」
後輩が聞く。
「見えてる。身体がまだ追いついてないだけだ」
二球目も空振り。
「身体、置いてきました?」
遊撃手が言う。
「今呼んでる」
三球目。
肉屋のバットが球を捉えた。
高く上がった打球が、外野の頭上を越える。
フェンスの手前で一度弾み、そのまま金網へ当たった。
一瞬、全員が黙る。
「四番、空いてるか?」
肉屋が元四番と同じことを聞いた。
「一本だけだろ」
元四番が言う。
「お前も二本だけだろ」
「俺は率も残せる」
「四番に必要なのは飛距離だ」
「今のは追い風」
「風、吹いてないですよ」
後輩が冷静に指摘する。
二人の言い争いを横目に、ほかのメンバーも順番に打席へ入った。
遊撃手は強振せず、逆方向へ器用に打ち返す。
二塁手だった同級生は硬式球の速さに差し込まれていた。
外野手の一人は想像以上に振れていたが、もう一人は身体が開き、打球が前へ飛ばない。
布団屋は最後だった。
構えにも振り方にも力が入っていない。
それでも球を引きつけ、二遊間へ低い打球を続けて転がした。
「狙ってる?」
僕が聞く。
「一応」
「長打は?」
「打てる人が二人いるので」
布団屋は、まだ言い合っている元四番と肉屋を見る。
「僕まで同じことをする必要はないでしょう」
全員が一度ずつ打ち終えた頃には、残り時間は少なくなっていた。
僕たちはベンチの前へ集まった。
元四番がタオルで顔を拭きながら言う。
「思ったよりいけるな」
「何が」
「全体的に」
「そうですか?」
「高校のメンバーも結構動けてるし、肉屋さんも打てる。後輩もいる。あとは昔の形に当てはめれば、それなりになるだろ」
同級生たちの何人かがうなずく。
三塁に元四番。
遊撃に遊撃手。
二塁には元二塁手。
外野も当時と同じ。
足りないところへ商店街のメンバーを入れる。
自然な考え方ではあった。
「それで勝てますかね」
布団屋が言った。
声は穏やかだった。
元四番が眉を上げる。
「無理だと思う?」
「分かりません」
「じゃあ何だよ」
「二年前に強かったことと、今日勝てることは別でしょう」
布団屋は全員を順番に見る。
「昔と同じ位置へ立てば安心はします。でも、今もそこが一番合っているとは限らない」
元四番は反論しようとして、口を閉じた。
左右の打球に遅れていた自覚はあるのだろう。
「じゃあ、全部変えるのか」
遊撃手が聞く。
「変える必要があるところだけでいいと思います。ただ、最初から昔の形に決める必要もない」
「今の実力を見て決める」
僕が言った。
布団屋がこちらを見る。
店で交わした言葉だった。
「そういう話でしたよね」
「ああ」
「俺が三塁じゃなくなる可能性もある?」
元四番が聞く。
「ある」
「四番も?」
「ある」
「一回練習しただけだぞ」
「だから、まだ誰にも決めない」
元四番は納得していない顔をした。
けれど、怒りはしなかった。
「じゃあ次は、もっと打てばいいんだな」
「そういうこと」
「話が早い」
隣で肉屋が腕を組む。
「俺も、もっと飛ばせば四番か」
「それだけで決めません」
「話が遅いな」
「守備も見ます」
「今日はちゃんと捕っただろ」
「一塁しか見てません」
「一塁手なんだから十分だ」
「外野もできるって言ってましたよね」
「余計なこと覚えてるな」
笑いが起きる。
後輩はその輪の少し外で、防具を片づけていた。
「後輩」
僕が呼ぶと、顔を上げる。
「次の練習、守備の指示も出してくれる?」
「僕がですか」
「捕手だろ」
後輩は一瞬、同級生たちを見た。
年上ばかりの中で、自分が声を出していいのか迷っている。
「遠慮するなよ」
元四番が言った。
「さっき俺の送球にも普通に駄目出ししただろ」
「あれは高かったので」
「ほら、言えるじゃん」
遊撃手が笑う。
「先輩だからって気にしなくていいよ。動けてなかったら、動けてないって言って」
「お前は動けてたから余裕あるな」
元四番がにらむ。
「見た目だけじゃないんで」
「腹立つな、その顔」
後輩は困ったように僕を見る。
僕はうなずいた。
「今のチームの捕手として見てほしい」
少し考えたあと、後輩もうなずく。
「分かりました」
その返事は、高校時代にベンチで聞いていたものよりもはっきりしていた。
練習を終え、全員でグラウンドを整備する。
元四番が三塁線をならし、金髪の遊撃手がトンボを引いている。
肉屋は大きな身体をかがめ、外れたベースを直していた。
布団屋は眠たげな顔のまま、誰よりも端まで土をならしている。
後輩はホームベースの周りを整え、ときどき僕へ次の練習について話しかけてくる。
高校時代と同じ顔もいる。
違う姿になった人間もいる。
あの頃にはいなかった人間もいる。
僕たちは、二年前のチームへ戻ったわけではなかった。
昔の続きを始めるのでもない。
今ここにいる人間で、別のチームを作ろうとしている。
そのことを、僕はようやく実感し始めていた。




