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二年ぶりのミット

 午前五時半、枕元のスマートフォンが震えた。


『起きてますか』


 後輩からだった。


 目覚ましが鳴る三分前だった。


『起きてる』


 そう返してから、まだ布団の中にいることに気づく。


『今起きましたよね』


『起きてる』


『二回言う人は怪しいです』


 僕は返信せず、身体を起こした。


 窓の外はまだ薄暗い。


 昨日までなら、こんな時間に起きる理由はなかった。


 顔を洗い、ジャージへ着替える。押し入れの奥から、高校時代に使っていたグラブを取り出した。


 革は少し硬くなっていた。


 指を入れて何度か握ると、遅れて形がついてくる。


 階下へ降りると、父はすでに店を開ける準備をしていた。


 僕の格好と、手にしたグラブを見る。


「早いな」


「少し投げてくる」


 父は何も聞かなかった。


 作業台の上にあった鍵を僕のほうへ滑らせる。


「車、使え」


「配達は」


「戻るまでない」


「そう」


 鍵を取る。


 店を出ようとしたところで、父が背中へ声をかけた。


「朝飯は」


「帰ってから食べる」


「何か腹に入れていけ」


 振り返ると、父はもう冷蔵庫を開けていた。


 渡されたバナナを一本受け取り、店の外へ出た。


 後輩が所属するクラブチームの代表には、昨夜のうちに許可を取ってくれていた。


 市営球場の一塁側にあるブルペンを、朝の練習が始まる前まで使わせてもらえるらしい。


 六時前に着くと、後輩はすでに入口で待っていた。


 深緑のパーカーに、暗い色のジャージ。


 片方の肩に防具の入った大きなバッグをかけ、もう片方の手にはミットを持っている。


「起きられたんですね」


「見れば分かるだろ」


「車の中で寝てる可能性もあります」


「帰るぞ」


「すみません」


 謝りながら、後輩は少し笑っていた。


 ブルペンの土は、朝露を含んでわずかに色が濃い。


 僕はグラブをベンチへ置き、時間をかけて身体を動かした。


 首。


 肩甲骨。


 腰。


 股関節。


 高校時代に毎日やっていた順番を、身体は意外なほど覚えている。


 ただ、当時より一つ一つの動きが重かった。


 後輩は急かさない。


 防具を着けながら、僕の動きを黙って見ていた。


「何」


「別に」


「言いたいことあるなら言えよ」


「まだ何も投げてないので」


 キャッチボールは近い距離から始めた。


 最初は山なりの球を、後輩の胸元へ投げる。


 乾いた音を立てて、球がミットへ収まる。


 二年ぶりに聞く音だった。


 壁へ当たる音とは違う。


 投げた球を誰かが受け止め、その人間から自分へ返ってくる。


 後輩の返球をグラブへ収める。


 球の縫い目が、指先に触れた。


 少しずつ距離を広げる。


 強く投げようとすると、腕より先に身体が止まった。


 球は後輩の手前で一度跳ねた。


「すみません」


「謝ることじゃないだろ」


 僕は球を拾い、もう一度投げる。


 今度は届いた。


 ただし、思っていたより高い。


 後輩は立ち上がって捕り、そのまま返してくる。


「今の、痛かったですか」


「いや」


「違和感は?」


「ない」


「なら続けましょう」


 それ以上は何も言わなかった。


 キャッチボールを終え、僕はマウンドへ上がる。


 後輩は防具を着けたまま、ホームベースの後ろへ向かった。


 土を足でならし、腰を落とす。


 小柄な身体がさらに低くなる。


 左手のミットを、真ん中へ構えた。


「最初は軽くでいいです」


「分かってる」


「分かってない顔してます」


「どんな顔だよ」


「いきなり昔と同じ球を投げようとしてる顔です」


 言い返そうとして、やめた。


 図星だった。


 ロージンバッグを手に取る。


 指先についた白い粉をなじませ、硬球を握った。


 プレートへ右足をかける。


 後輩のミットを見る。


 十八・四四メートル。


 高校時代には短く感じることさえあった距離が、今日は遠かった。


 ゆっくりと足を上げる。


 身体を前へ運び、腕を振る。


 球は真ん中より高い位置へ外れた。


 後輩がミットを伸ばして捕る。


 音は軽かった。


「もう一球」


 球が返ってくる。


 二球目は低く外れた。


 三球目は真ん中へ入ったが、腕を最後まで振り切れなかった。


 四球目。


 五球目。


 投げるたびに、自分の身体ではないような感覚が残る。


 肩は痛くない。


 肘にも問題はない。


 それでも腕が前へ出ない。


 強く振ろうとすると、肩の奥に二年前の熱がよみがえる。


 実際に熱があるわけではない。


 身体が覚えているだけだった。


「どうですか」


 後輩が聞く。


「駄目だな」


「どこが?」


「全部」


「それじゃ分かりません」


「球が来てない」


「二年ぶりの五球目なので」


「腕も振れてない」


「振ってないですからね」


 僕は眉を寄せる。


「分かってるなら言えよ」


「先輩も分かってると思ったので」


「分かってても、できないんだよ」


 思ったより強い声が出た。


 後輩は黙る。


 僕は視線を落とした。


「悪い」


「いえ」


 後輩は立ち上がらなかった。


 ミットを膝の上へ置き、マウンドの僕を見る。


「腕だけ振ろうとしてます」


「怖がってるから?」


「多分。それもあります」


 後輩は右手で、自分の腰のあたりを軽く叩いた。


「でも、下半身も止まってます。踏み出した足に体重が乗る前に、上半身だけで投げてる」


「高校のときもそうだった?」


「もっと前へ乗ってました」


「元相方みたいなこと言うな」


「捕手なので」


 昨日と同じ答えだった。


「球速は気にしなくていいです。ミットまで届けば」


「それだと、さっきと同じだろ」


「同じでいいです」


「何のためにマウンドから投げてるんだよ」


「今日、昔の球を投げるためじゃありません」


 後輩が言った。


「投げ終わったあと、また投げたいと思えるところまででいいです」


 僕は手の中の球を見る。


「それ、誰かに言われたのか」


「今考えました」


「適当だな」


「嫌なら別の言い方を考えます」


「いいよ。それで」


 僕はプレートへ足をかけ直した。


 腕を振ることより、踏み出した足へ体重を乗せることを考える。


 足を上げる。


 前へ運ぶ。


 着いた足の上を、身体が通り過ぎる。


 その流れに、腕を遅れてついていかせた。


 球は後輩の構えた場所より外へ外れた。


 それでも、さっきより少しだけ強い音がした。


「今のです」


「外れてる」


「場所じゃなくて、身体の使い方です」


「捕手がそこを褒めるのか」


「今は打者いませんから」


 次の球も同じように投げる。


 少し高い。


 その次は低い。


 制球は定まらなかった。


 それでも、球が指先から離れる瞬間の感覚が、少しずつ戻ってくる。


 十球を過ぎた頃には、後輩が座ったまま捕れる球が増えていた。


「真ん中でいい?」


「はい。狙いは真ん中で」


「打者がいたら、全部打たれるな」


「今日は誰も打ちません」


「元相方なら、もう少し外に構える」


「元相方さんじゃないので」


 後輩は淡々と返した。


 昨日、自分で言った言葉が戻ってくる。


 今の僕が投げるなら、今の後輩に捕ってほしい。


 なら、昔の相方ならどうするかを考える必要はなかった。


「次、チェンジアップ投げていい?」


 僕が聞くと、後輩はすぐにはうなずかなかった。


「真っすぐ、あと三球ください」


「何で」


「真っすぐと同じ腕の振りで投げられてるか見たいので」


「分かった」


 三球投げる。


 最後の一球は、構えたミットの少し下へ入った。


 今までで一番いい音がした。


 後輩が捕ったまま、しばらくミットを動かさない。


「何」


「いえ」


「今の良かった?」


「先に言うと、次を力むと思ったので」


「もう言ってるだろ」


「じゃあ、力まないでください」


 返球を受け取る。


 人差し指と中指を縫い目に沿わせ、少し深く握る。


 高校時代に最も使っていたチェンジアップ。


 何千回と投げた握りだった。


 後輩が真ん中へ構える。


 僕は足を上げた。


 真っすぐと同じように身体を前へ運び、腕を振る。


 指先から球が抜けた瞬間、失敗したと思った。


 昔より早く、手から離れた。


 球は真ん中からわずかに外へ進み、後輩の手前で右下へ沈んだ。


 ミットが遅れて動く。


 鈍い音がした。


 後輩は捕った姿勢のまま、ミットの中を見る。


「抜けた」


 僕は言った。


「もう一球、同じ握りで」


「今のは失敗だよ」


「いいからお願いします」


 返球を受け取る。


 同じ握りを作る。


 今度は指先へ意識を向けすぎた。


 球は高く浮き、ほとんど変化しなかった。


「違いますね」


「だから失敗だって」


「最初の球をもう一度投げてください」


「どうやって」


「同じように」


「できたら苦労しない」


 後輩は立ち上がり、ミットを外した。


 最初のチェンジアップの軌道を、右手でなぞる。


「高校のときより、横に逃げてから落ちました」


「指にかからなかっただけだ」


「右打者の外へ投げたら、振らせられるかもしれません」


「偶然だろ」


「偶然でも、もう一度投げられれば球種になります」


 元相方と似たことを言う。


 たまたまで、狙った場所へ何度も投げられるか。


 今の球は、まだ一度しか投げていない。


 失敗なのか。


 新しい変化なのか。


 判断するには早すぎた。


「あと何球?」


 僕が聞く。


「身体は?」


「問題ない」


「疲れは」


「少し」


「じゃあ、あと五球にしましょう」


「まだ二十球くらいだろ」


「ブルペンでは」


「三十も投げてない」


「二年ぶりです」


「もう少し投げられる」


「昨日の条件、覚えてますか」


 僕は口を閉じた。


 後輩が無理だと判断したら止める。


 自分で約束した。


「五球で終わり?」


「最後の一球をチェンジアップにします」


「投げられなかったら」


「次にします」


 次。


 その言葉が、少しだけ引っかかった。


 今日できなければ終わりではない。


 また投げればいい。


 僕はうなずいた。


 真っすぐを四球投げる。


 最後の一球は、後輩が構えた真ん中へ入った。


 残り一球。


 さっきと同じチェンジアップの握りを作る。


 再現しようとは考えなかった。


 真っすぐと同じように足を上げ、身体を前へ運ぶ。


 腕を最後まで振る。


 球は真ん中から外へずれ、後輩の手前で小さく沈んだ。


 最初ほど大きな変化ではない。


 それでも、似た方向へ動いた。


 後輩のミットが球を包む。


 今度は、はっきりした音がした。


「終わりです」


 後輩が立ち上がる。


「今のは?」


「使えるかもしれません」


「高校のときと違う」


「今の先輩の球なので」


 僕はマウンドの土を見る。


 昔へ戻ったわけではない。


 球速も、制球も、腕の振りも、まだ遠い。


 それでも二年前には投げていなかった球を、今の僕は二度投げた。


 後輩から返された硬球を、グラブの中で握る。


「明日も投げる?」


「明日は休んでください」


「じゃあ、明後日」


 後輩が少し驚いた顔をする。


「何」


「いえ」


「言えよ」


「また投げたいと思えたんだなと」


 さっき自分で言った言葉を、律儀に回収してくる。


「別に」


「そういうことにしておきます」


 後輩は笑い、防具を外し始めた。


 僕はマウンドから降りる。


 肩には痛みではなく、久しぶりに腕を使ったあとの重さがあった。


 それを不安に思わなかったわけではない。


 けれど、その場で何度も確かめることはしなかった。


 ブルペンの出口で振り返る。


 土の上には、僕が踏み出した足跡が残っていた。


 昔と同じ場所ではない。


 それでも、確かにマウンドから続いていた。

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