今のお前に捕ってほしい
後輩が所属するクラブチームは、隣町の市営球場を練習場所にしていた。
商店街から車で三十分ほど。
外野フェンスの向こうには住宅が並び、照明設備も観客席もない。高校のグラウンドより少し広い程度の球場だった。
僕が着いたとき、練習はまだ続いていた。
バックネットの外に立ち、グラウンドを見る。
後輩は捕手用の防具を着け、ホームベースの後ろに座っていた。
高校時代より身体が厚くなっている。
もともと小柄だったが、肩と首まわりが太くなり、構えた姿勢にも安定感があった。
投手が低く外した球を、後輩は身体の正面へ落とす。
すぐに拾い、立ち上がる。
次の球では、捕球してから二塁へ送った。
動作に派手さはない。
けれど、ミットから球を取り出すまでの迷いがなくなっていた。
二塁手の胸元へ、低い送球が届く。
「ナイスボール!」
後輩が投手へ返す。
高校の頃より、声もよく通っていた。
僕はネット越しに、その姿をしばらく見ていた。
元相方から聞かなくても、後輩が捕手を続けていることは知っていた。
試合結果も、ときどき確認していた。
けれど、実際に見るのは卒業以来だった。
最後のメニューが終わる。
選手たちがグラウンド整備を始めた。
後輩は防具を外し、ホームベース周辺へトンボをかける。
僕に気づいたのは、ほかの選手たちが道具を片づけ始めた頃だった。
後輩の手が止まる。
黒縁眼鏡の奥で、目が少し大きくなった。
「先輩?」
「久しぶり」
「どうしたんですか」
「少し話がある」
後輩は僕の後ろを見る。
「元相方さんも一緒ですか」
「いないよ」
「そうですか」
一瞬だけ見せた表情が、安堵なのか残念なのかは分からなかった。
「着替えてきます」
後輩はそう言って、クラブハウスへ向かった。
十分ほどして、深緑のパーカーと暗い青のスポーツパンツ姿で戻ってくる。
背中には黒いリュックを背負っていた。
防具を外しても、捕手らしい身体つきは変わらない。
首が太く、パーカーの袖から出た前腕にも厚みがある。
「どこか入ります?」
「ここでいい」
僕たちは球場の外にあるベンチへ座った。
後輩はリュックを足元へ置き、僕が話し始めるのを待つ。
何から言えばいいのか、考えてきたはずだった。
けれど、後輩を前にすると言葉が出てこない。
「野球、続けてたんだな」
結局、そんなことを言った。
「はい」
「知ってたけど」
「どっちですか」
「続けてるのは知ってた。見るのは久しぶりだから」
後輩は少しだけ笑った。
「先輩は?」
「何が」
「野球です」
「壁当てくらい」
「硬式で?」
「軟球」
「そうですか」
会話が途切れる。
遠くで、金属製のトンボを重ねる音がした。
僕はスマートフォンを取り出し、大会のページを見せた。
「この大会、知ってる?」
「はい」
後輩はすぐに答えた。
「うちも出るかもしれなかったので」
「出ないのか」
「人数が足りなくて。仕事の都合がつかない人も多いので、今回は見送ることになりました」
後輩は大会概要を少しだけ確認し、画面を僕へ返す。
「先輩、出るんですか」
「そのつもり」
「どこのチームで?」
「今、作ってる」
「今から?」
「今から」
後輩は眼鏡の位置を直した。
驚いてはいるが、笑わなかった。
「人数は集まったんですか」
「試合ができるくらいには。登録を考えると、もう少し必要だけど」
「高校のときの人たちですか」
「同級生が何人か。商店街の人もいる」
「元相方さんは?」
「現役のプロは出られない」
「そうじゃなくて」
後輩は僕を見る。
「あの人が、先輩にこの大会を勧めたんですか」
「ああ」
「やっぱり」
後輩は視線を落とした。
足元の土を、スニーカーの先で軽く削る。
「それで、捕手がいないから僕に?」
用意していた言葉を言う前に、先に結論を出されてしまった。
「違う」
「違わないでしょう」
「違うよ」
「元相方さんは出られない。先輩は投げる。だから、前に控えだった僕を呼びに来た」
後輩の声は荒くなかった。
むしろ落ち着いていた。
その分、僕が何も考えずに来たと思われていることが分かった。
「僕は、あの人の代わりにはなれません」
「分かってる」
「捕手として全然違います」
「それも分かってる」
「だったら」
「だから来たんだよ」
後輩が顔を上げる。
「元相方の代わりが欲しいなら、お前には頼まない」
言ってから、言葉が足りなかったことに気づく。
後輩の眉が寄る。
「それ、僕じゃ足りないって意味ですか」
「違う。そうじゃない」
僕は一度、息を吐いた。
元相方に言われたことを思い出す。
なぜ後輩なのか。
理由を言え。
「大会に出るかもしれないって考えたとき、最初に浮かんだのがお前だった」
後輩は何も言わない。
「あいつにお前を勧められたわけじゃない。チームを作ると考えた時点で、捕手を頼むならお前だと思ってた」
「どうしてですか」
「高校のとき、お前は捕れなかった球を、そのままにしなかった」
「それだけですか」
「それだけじゃない」
僕はグラウンドへ目を向ける。
さっきまで後輩が座っていたホームベースが見えた。
「低い球を止めるのも、送球も、高校の頃より良くなってた。捕ってから投げるまで、前より速い。投手への声のかけ方も変わってた」
後輩が瞬きをする。
「今日、見てたんですか」
「そのために来たから」
「頼むって決めてたのに?」
「決めてた。でも、今のお前も見たかった」
高校時代の努力だけを理由にするつもりはなかった。
あの頃に頑張っていたから、報酬のように捕手を任せるわけではない。
今も続けている。
今も上手くなろうとしている。
その結果として、後輩は僕が知らない二年間の分だけ、捕手になっていた。
「元相方と同じ捕手だとは思ってない」
僕は言った。
「あいつには、あいつにしかできないことがある。お前にも、お前にしかできないことがある」
「僕にしかできないことって何ですか」
「まだ全部は分からない」
「分からないんですか」
「二年ぶりに見たから」
後輩の口元が、ほんの少し緩む。
「でも、分かってることもある」
僕は後輩を見る。
「今の俺が投げるなら、今のお前に捕ってほしい」
言い終わったあと、急に居心地が悪くなった。
自分からこんなことを口にしたのは、初めてかもしれない。
後輩は僕から視線を外さなかった。
眼鏡の奥の目が、何かを確かめるように細くなる。
「本当に投げるんですか」
「投げる」
「二年間、まともに投げてないのに」
「ああ」
「肩は治ってるんですか」
「医者からは問題ないと言われてる」
「今は痛くない?」
「痛くない」
「違和感も?」
「ない」
元相方に聞かれたことを、今度は後輩から聞かれる。
同じ質問なのに、答える意味は少し違っていた。
後輩はしばらく黙っていた。
やがて、足元のリュックを持ち上げ、膝の上へ置く。
「条件があります」
「何」
「僕のサインに首を振るのは構いません」
「そこは許可がいるのか」
「最後まで聞いてください」
「はい」
「首を振ったときは、あとで理由を教えてください。試合中に全部話せとは言いません。でも、何を考えて違う球を選んだのかは知りたいです」
「分かった」
「肩や肘に何かあったら、隠さないでください」
僕は答えるまでに、少し時間がかかった。
後輩はその間を見逃さなかった。
「今、迷いましたよね」
「迷ってない」
「迷いました」
「分かった。隠さない」
「本当に?」
「本当に」
後輩はまだ納得していない顔をしている。
「それと」
「まだあるのか」
「僕が無理だと判断したら、止めます」
「誰を」
「先輩をです」
「監督でもないのに?」
「捕手ですから」
後輩は当たり前のように答えた。
「先輩が大丈夫だと言っても、僕が危ないと思ったら投げさせません」
「そこまで決めるのか」
「二年前、止められなかったので」
胸の奥に、硬いものが落ちた。
後輩はあの準決勝で、ベンチにいた。
控え捕手として、元相方の後ろから試合を見ていた。
僕がベンチを見なかったことも。
元相方が何度もマウンドへ来たことも。
最後まで投げて、肩を壊したことも。
全部見ていた。
「先輩が同じことをするなら、僕は捕りません」
後輩の声は静かだった。
「分かった」
今度は迷わず答えた。
「約束する」
後輩は僕の顔を見たまま、しばらく動かなかった。
それから、小さくうなずく。
「分かりました」
「出てくれる?」
「はい」
ようやく、肩の力が少し抜けた。
「クラブのほうは大丈夫なのか」
「大会には登録していないので、二重登録にはなりません。代表にも、別のチームで出ること自体は問題ないと言われています」
「もう確認してたのか」
「先輩が来る前から、大会には出たかったので」
「なら話が早い」
「でも、どこでもよかったわけじゃありません」
後輩はリュックを背負い直す。
僕たちはベンチを立ち、球場の出口へ向かう。
開いた金網の前で、後輩が足を止めた。
「先輩が本当に投げるなら、僕が捕ります」
昔の相方の代わりではない。
高校時代の続きをするためでもない。
今の僕が投げる球を、今の後輩が捕る。
その関係を、これから作る。
「いつ投げられますか」
後輩が聞く。
「明日の朝なら」
「何時ですか」
「六時」
「分かりました」
「早くない?」
「先輩、起きられるんですか」
「起きるよ」
「五時半に連絡します」
「信用なさすぎだろ」
「二年間ありますから」
言い返せなかった。
後輩は少しだけ笑い、球場の出口へ歩き出す。
僕もそのあとを追った。
翌朝、二年ぶりに捕手を座らせて投げることになった。




