半歩
一番打者は、左打席へ入った。
足元をならし、バットを短く持つ。
構えだけを見ても、長打を狙っている打者ではないと分かった。
後輩が外角低めへミットを置く。
初球は、真っすぐ。
要求された場所へ投げると、打者は振らなかった。
「ストライク!」
続く二球目は、同じ軌道から少しだけ遅くした。
打者のバットが出かかる。
けれど、途中で止まった。
ボールは低く外れ、後輩のミットへ収まる。
この打者も、簡単には手を出さない。
三球目の真っすぐをファウルにされ、追い込んだ。
そこから二球、外へ逃げるようにチェンジアップを続ける。
一球目はファウル。
二球目は見送られた。
二ボール二ストライク。
後輩が、内角へミットを動かす。
真っすぐを投げる。
打者は詰まりながらも、三塁側へ転がしてファウルにした。
球威で押し込まれても、当ててくる。
六球目。
もう一度、外角低め。
僕の指から離れたボールは、狙ったところよりわずかに外へ流れた。
打者はバットを動かさなかった。
「ボール!」
三ボール二ストライク。
後輩が返球しながら、一度だけ僕を見た。
悪い球ではない。
けれど、無理にストライクを取りにいけば、相手の狙いに近づく。
最後は、内角から落とすチェンジアップを選んだ。
打者の膝元へ沈む。
バットは出ない。
「ボール、フォア!」
一番打者が静かにバットを置き、一塁へ走った。
先頭を歩かせた。
制球を乱した感覚はなかった。
相手が、際どい球を見送っただけだった。
「切り替えましょう」
後輩が立ち上がり、返球してくる。
「ああ」
二番打者が右打席へ入った。
初球を投げる前から、バットを横に寝かせている。
送りバントだった。
相手は、一回から一点を取りにきている。
後輩が前へ出やすい球を要求した。
僕は真っすぐを投げる。
打球は一塁側へ転がった。
マウンドを降り、僕が捕る。
二塁へ投げても間に合わない。
確実に一塁へ送った。
「アウト!」
一死二塁。
二番打者は、自分の仕事を終えたようにベンチへ戻っていった。
そして、三番打者が姿を見せた。
銀色の髪が、ヘルメットの下から少しだけ覗いている。
右打席へ入り、バットを一度回す。
守備についていたときと同じだった。
特別なことをしようとしているようには見えない。
ただ、構えた瞬間に空気が少し変わった。
後輩が立ち上がり、僕のところまで歩いてきた。
「一塁は空いてます」
「そうだな」
「無理に勝負する必要はありません」
「後ろも強いんだろ」
「はい」
避けたところで、四番打者が待っている。
もちろん、状況によっては歩かせる選択もある。
けれど、まだ一回だった。
僕たちがどこまで通用するのかも、分かっていない。
「まずは勝負しよう」
「分かりました」
後輩はそれだけ答え、ホームへ戻った。
一球目。
外角への真っすぐ。
銀髪の遊撃手は、バットを動かさなかった。
ボールは後輩のミットへ収まる。
「ストライク!」
表情は変わらない。
打席を外すこともなく、もう一度構えた。
二球目。
今度は、少しだけ速いチェンジアップ。
真っすぐと同じように腕を振る。
打者は振りにいった。
けれど、ボールが来るより早くバットが通り過ぎる。
空振り。
二球で追い込んだ。
後輩が返球しながら、わずかにうなずいた。
球は通じている。
少なくとも、まったく見えていないわけではなかった。
三球目。
外へ外す真っすぐ。
打者は見送る。
ボール。
タイミングを確認するように、バットの先を一度だけ上下させた。
四球目。
後輩が要求したのは、一番遅いチェンジアップだった。
高さは低め。
真ん中には入れない。
僕は腕を緩めずに振った。
ボールが打者の手元で沈む。
銀髪の遊撃手の身体が前へ出た。
バットの先が、かろうじてボールへ触れる。
鈍い音がした。
打球は力なく、遊撃手の前へ転がった。
打ち取った。
少なくとも、僕はそう思った。
遊撃手が前へ出る。
二塁走者を一度だけ目で押さえ、ボールへ入った。
捕球に無駄はない。
握り直しもなかった。
そのまま一塁へ投げる。
送球は肉屋の胸元へ届いた。
けれど、その直前。
銀髪の遊撃手の足が、一塁を踏んでいた。
「セーフ!」
塁審の両腕が横に広がる。
一塁側のベンチから声が上がった。
肉屋はミットの中のボールを見てから、審判へ目を向けた。
「今の間に合ってないのか?」
遊撃手も、しばらく一塁を見ていた。
守備に失敗したわけではない。
捕ってから投げるまで、遅れはなかった。
送球も逸れていない。
普通なら、十分にアウトにできた。
それでも、相手の足が半歩だけ早かった。
一死一、三塁。
僕と後輩が打ち取ったはずの打球が、安打として記録された。
銀髪の遊撃手は一塁で息を整えることもなく、次の塁を見ていた。
四番打者が左打席へ入る。
大柄な打者だった。
長打を警戒して外野は少し深く守っている。
後輩が一塁走者を目で確認した。
一球目。
外角低めへのチェンジアップ。
四番打者は見送った。
その瞬間、一塁走者が動いた。
「走った!」
肉屋の声が聞こえる。
後輩が立ち上がり、二塁へ送球する。
低く、速いボールだった。
同期の二塁手がベースへ入る。
タッチ。
けれど、銀髪の遊撃手の手が先に届いた。
「セーフ!」
また半歩だった。
銀髪の遊撃手は立ち上がると、ユニフォームについた土を軽く払った。
大きく喜ぶこともしない。
当然のように次のプレーへ備えている。
「今のも惜しかったです」
後輩がマウンドへ戻りながら言った。
「惜しいだけじゃアウトにならないな」
「はい」
一死二、三塁。
併殺は取れなくなった。
後輩は四番打者へ視線を戻す。
「低くいきます」
「ああ」
長打だけは避ける。
内野ゴロなら、本塁で走者を止められる可能性もある。
僕は外角へ真っすぐを投げた。
四番打者が振る。
打球は高く上がった。
左翼方向。
深くはない。
布団屋が前へ走り、落下点へ入る。
三塁走者は、ベースへ戻った。
「取れ!」
布団屋が捕球する。
その瞬間、三塁走者が本塁へ向かった。
布団屋がすぐに投げる。
返球は低かった。
後輩がホームの前へ出て捕る。
走者が滑り込んだ。
後輩がタッチする。
「セーフ!」
一点が入った。
布団屋の返球も悪くなかった。
後輩も、捕ってから迷わずタッチした。
それでも、最初の走者の足がわずかに早かった。
相手は、強い打球を一本も打っていない。
四球。
送りバント。
内野安打。
盗塁。
犠牲フライ。
それだけで、一点を取った。
銀髪の遊撃手は二塁に残っている。
二死二塁。
五番打者が打席へ入る。
初球の真っすぐを、強く引っ張った。
打球が遊撃手の正面へ飛ぶ。
さっきより、ずっと速い。
遊撃手は身体の正面で止めた。
一度だけボールがグラブの中で跳ねる。
それでも落とさない。
握り直し、一塁へ送った。
「アウト!」
三アウト。
相手ベンチから上がっていた声が、少しだけ静かになった。
遊撃手はボールを僕へ投げ返しながら、肩をすくめた。
「今度は間に合った」
「普通の打者だったからな」
僕が言うと、遊撃手は苦笑した。
「本当に普通かな。あのチームの五番だよ」
僕たちはベンチへ戻った。
一回を終えて、一対〇。
打たれた安打は、ボテボテの内野安打だけ。
それでも、相手は一点を取った。
「嫌な取り方をしますね」
後輩が防具を外しながら言った。
「こっちが大きく失敗したところはないんだけどな」
元四番が遊撃手を見る。
「お前の送球も悪くなかった」
「分かってるよ」
遊撃手はグラブを膝の上へ置いた。
「分かってるから、余計にすごいんだって」
いつもの軽い口調だった。
けれど、誰もすぐには返さなかった。
遊撃手は一塁側の相手ベンチへ目を向ける。
銀髪の遊撃手は仲間と話しながら、ヘルメットを外していた。
「薄々気づいてはいたさ」
遊撃手が言った。
「何をだよ」
元四番が聞く。
「プロから声をかけられなかった時点で」
遊撃手は自分の右手を開き、また握った。
「俺が、ああいう選手じゃないってこと」
深く守らせて、打球の勢いを殺した。
自分の判断と器用さと足を使った。
それでも、相手の肩に半歩だけ負けた。
今度は、自分がきちんと処理した打球を、相手の足が安打に変えた。
違いは、もう記事の中の数字ではなかった。
同じグラウンドに立ったからこそ、見えたものだった。
「だから何だよ」
元四番が言った。
遊撃手が顔を上げる。
「あいつがすげえことと、お前が今日ショートを守ってることは関係ねえだろ」
「ずいぶん乱暴な励まし方だね」
「励ましてねえよ」
元四番は、自分のバットを持って立ち上がった。
「うちの遊撃手は、お前だって言ってんだ」
遊撃手は何も答えなかった。
同期の二塁手が、その隣へ腰を下ろす。
「俺が二塁で合わせてるのも、お前だから」
「急に重いね」
「真面目に言ってる」
後輩も、防具をつけ直しながら口を開いた。
「先輩が打たせるなら、遊撃手さんのところにも飛びます」
「それ、励ましになってる?」
「事実です」
僕はグラブの紐を締め直した。
「僕が後ろを任せてるのも、お前だ」
遊撃手は少しの間、黙っていた。
やがて相手ベンチから視線を外し、自分のグラブを手に取る。
「……そうだな」
元四番が打席へ向かう。
その背中を見ながら、遊撃手はいつものように笑った。
「みんなで勝てばいいんだ」




