今の球
後輩のミットが、乾いた音を立てた。
「もう一球、お願いします」
返ってきたボールを受け取り、右手の中で縫い目を探す。
同じ握りを作り、同じ位置から腕を振った。
今度は少しだけ遅い。
真っすぐと変わらない軌道から、ボールが沈む。後輩はミットをほとんど動かさずに受け止めた。
昨日の夜、肉屋に言われた言葉が、まだ頭の片隅に残っていた。
まだ投げられるやつが、自分から終わったことにすんな。
「痛みはありませんか?」
「ない」
「肘は?」
「問題ない」
「張りは残っていますか?」
「少しだけ。投げた分くらい」
後輩は僕の返事を聞きながら、ミットを外して立ち上がった。
「隠してませんね?」
「隠したら捕らないんだろ」
「はい」
迷いのない返事だった。
僕たちの間では、もう何度か交わした確認だった。
二年前の僕なら、これくらいなら大丈夫だと答えていたかもしれない。
痛みがあっても、張っているだけだと言った。
腕が上がらなくなっても、まだ投げられると考えた。
けれど、同じことを繰り返したら、後輩は本当にミットを置く。
それが分かっているから、僕も正直に答えていた。
「昨日はどうでした?」
「昨日?」
「帰ってからです。肩に違和感はありませんでしたか?」
「なかった」
「分かりました」
後輩は短くうなずき、もう一度座った。
「次は真っすぐをお願いします。少し強めで」
僕はボールを握り直した。
足を上げる。
体重を前へ運び、腕を振る。
白い球がまっすぐ伸び、後輩の構えた場所へ収まった。
派手な音ではなかった。
高校時代とまったく同じ球でもない。
それでも、最初に投げた球とほとんど同じ場所だった。
「もう一球」
同じ球を投げる。
今度も、ミットは大きく動かなかった。
「球速は?」
「測ってません」
「じゃあ、何を見てるんだ」
「再現性です」
後輩はボールを返しながら答えた。
「三回戦の前より安定しています。腕の振りも落ちていません」
「それはよかった」
「他人事みたいに言わないでください」
返ってきたボールを受け取る。
肩に痛みはない。
肘にも違和感はない。
三回戦で投げたのは、一回と三分の二だけだった。
昨日は練習を休み、河原で肉を食べて帰った。
疲労は、ほとんど残っていない。
四回戦で投げられる。
そう考えたとき、不安より先に相手の打線が浮かんだ。
その中心にいる、銀色の髪をした遊撃手。
複数の球団が、ドラフト一位候補として見ている選手。
走ることも、守ることも、打つことも、どれか一つではなく、すべてが高い水準にある。
僕の球が、あの打者にどう見えるのか。
考えないようにする方が難しかった。
「おーい、もう始めてるのか!」
グラウンドの入口から、肉屋の声が聞こえた。
振り返ると、大きなバッグを肩に掛けた肉屋が歩いてくる。その後ろには、元四番と遊撃手もいた。
「昨日あれだけ食べたのに、よく動けますね」
元四番が言うと、肉屋は腹を押さえた。
「良い肉は身体に残るんだ」
「それ、消化できてないだけじゃないですか?」
遊撃手が笑う。
「お前もかなり食ってただろうが」
「俺は若いからね」
「俺だって若い」
「三十を越えた人が言う台詞じゃないよ」
「まだ三十代前半だ!」
肉屋の声がグラウンドに響く。
昨日の夜、河原で二人きりになったときとは違い、もういつもの肉屋に戻っていた。
僕に何を考えたのかとは聞かない。
答えを求めることもない。
あの人は、言うべきことはもう言ったと思っているのだろう。
「先輩」
後輩に呼ばれ、僕は前を向いた。
「もう一球だけお願いします」
「どっちだ?」
「一番遅いのを」
チェンジアップの握りを作る。
腕を緩めないように意識しながら投げると、ボールは真っすぐより遅れて後輩のミットへ収まった。
後輩はしばらくボールを握ったまま、こちらを見ていた。
「使えます」
「相手によるだろ」
「試合で使える状態だという意味です」
そう言って、ボールを返してくる。
全体練習が始まる頃には、布団屋や外野手、高校時代の同期たちも集まっていた。
最後に山岸さんがグラウンドへ入り、僕たちを呼び集める。
「始める前に、一つだけ決めておこうか」
全員が山岸さんを見る。
山岸さんは後輩へ視線を向けた。
「状態はどうかな?」
「問題ありません。痛みも違和感もなく、腕の振りも安定しています」
「本人は?」
「僕も問題ありません」
山岸さんは短くうなずいた。
「それなら、四回戦は君に先発をお願いするよ」
「分かりました」
ほとんど考えずに答えていた。
肉屋が僕の肩を軽く叩く。
「エース復帰だな」
「最初から投手登録は僕だけです」
「その間に、別のやつが先発してたけどね」
遊撃手が口を挟む。
「俺も投げました」
外野手が少し離れたところから言った。
「先発はしてないだろ」
元四番に突っ込まれ、外野手は小さくうなずいた。
「そうでした」
「何でそこだけ主張したんだよ」
誰かが笑った。
次の相手がどれほど強くても、この辺りは変わらないらしい。
山岸さんが手を叩き、話を戻した。
「相手については、後輩君が少し調べてくれている」
後輩がスマートフォンを取り出す。
表示されているのは、相手校の最近の試合結果と打順だった。
「一番から足があります。中軸だけでなく、下位も簡単には終わりません。四球のあとの進塁打も多いです」
「高校生らしくないね」
遊撃手が画面を覗き込む。
「長打を狙うだけではなく、必要なら右方向にも打っています。控えにも、大学や社会人から声がかかっている選手がいます」
「本当に学校史上最強なんだな」
元四番の言葉に、後輩はうなずいた。
「あの遊撃手だけを抑えても、試合には勝てません」
「じゃあ、歩かせればいいってわけでもないか」
遊撃手が言う。
「後ろも強いです」
「嫌なチームだね」
「だから強いんだろ」
元四番が返した。
山岸さんは全員の顔を見回した。
「名前を見て、最初から勝負を決めないようにしよう。避けるか勝負するかは、試合の状況で決めればいい」
「分かりました」
僕は答えた。
相手は一人ではない。
遊撃手だけを抑えたところで、残りの八人がいる。
僕の後ろにも、ここまで一緒に勝ってきた仲間がいる。
誰か一人だけで勝つ試合ではない。
それは分かっていた。
それでも。
あの打者に、今の僕の球がどう見えるのか。
僕に残っているものが、どこまで届くのか。
確かめてみたいとは思った。




