消えなかったもの
父の車へ乗り込むと、河原の明かりが窓の外へ遠ざかっていった。
肉と炭の匂いが、まだ服に残っている。
「片づけ、終わったか」
ハンドルを握った父が聞いた。
「うん。肉屋さんの車にも、全部積んだ」
「そうか」
それきり、父は何も聞かなかった。
車内には小さな音でラジオが流れている。
窓の外を、街灯が一定の間隔で通り過ぎていった。
積み上げてきたものって、案外裏切らないものですよ。
まだ投げられるやつが、自分から終わったことにすんな。
二人の言葉が、交互に浮かんだ。
その間に、二回戦の相手エースの声も混じる。
あなたも目指してください。
俺も本気でプロに入りますから。
「父さん」
「何だ」
「僕がまた野球を始めたとき、どう思った?」
父はすぐには答えなかった。
赤信号で車が止まる。
「うれしかったよ」
「心配じゃなかった?」
「今もしてる」
迷いのない返事だった。
「なら、止めようとは思わなかったの?」
「お前が自分で戻ったんだ。俺が止めることじゃない」
信号が青に変わる。
父は前を向いたまま、車を走らせた。
「ただ、無理をして壊すなら止める」
「後輩と同じだね」
「俺の方が先に言ってた」
「そうだったかも」
少しだけ笑った。
父が僕に野球を続けろと言ったことはない。
プロを目指せとも言わなかった。
やめるなとも言わなかった。
僕が投げなくなったときも。
また投げ始めたときも。
ただ、僕が選んだ場所の近くにいた。
家へ着くと、右肩の状態を確かめた。
痛みはない。
昼間まで残っていた重さも、ほとんど消えていた。
それでも、後輩との約束どおり、冷やしてから休むことにした。
ベッドへ腰を下ろし、スマートフォンを開く。
画面には、四回戦の相手を紹介する記事が残っていた。
同校史上最強と呼ばれる世代。
スタメン全員に、いずれプロへ進む可能性がある。
複数球団から注目される投手。
日本人遊撃手として初めて海を渡り、メジャーでも結果を残した、あの人の再来。
記事の中では、何度も「プロ」という言葉が使われていた。
少し前までなら、自分とは関係のない言葉として読んでいたと思う。
僕が進むはずだった場所。
肩を壊したことで、行けなくなった場所。
誰か別の人間が目指す場所。
それで終わっていた。
画面を閉じ、右手を開く。
今日、満塁で投げたチェンジアップの感触が、指先に残っている気がした。
肩を壊しても、すべてが消えたわけではなかった。
制球も。
チェンジアップも。
打者を見ながら、後輩と配球を考える時間も。
離れていた二年間を越えて、まだ僕の中に残っていた。
残っていることと、届くことは違う。
積み上げてきたものが裏切らなくても、夢がかなうとは限らない。
布団屋も、肉屋も、それを知っていた。
それでも二人は、残ったものまで自分から捨てる必要はないと言った。
僕はまだ、プロを目指すと決めたわけではなかった。
届くと思えたわけでもない。
怖くないと言えば、嘘になる。
もう一度目指して、また届かなかったら。
今度こそ、本当に終わってしまうかもしれない。
それでも。
プロという言葉を、もう昔のものとして片づけることはできなかった。
僕たちは、ようやく一つのチームになり始めていた。
次に待っているのは、僕たちが高校時代に越えられなかった学校の、史上最強と呼ばれる世代だった。
その相手と戦った先に、何があるのか。
今はまだ分からない。
ただ、もう一度投げてみたいと思った。
自分に残っているものが、どこまで届くのかを確かめるために。




