届かなかった場所
最後のごみ袋を、肉屋の車の荷台へ載せた。
残っているのは、炭を入れた容器と、折り畳んだコンロだけだった。
肉屋が容器の蓋を確かめる。
「火は?」
「消えてます」
「本当に?」
「後輩みたいな聞き方しますね」
「火事になったら、後輩に怒られるだけじゃ済まねえからな」
肉屋はもう一度蓋を押さえてから、荷台の奥へ動かした。
僕は近くに落ちていた小さな紙片を拾い、ごみ袋へ入れる。
少し離れた駐車場には、父の車が残っていた。
運転席の明かりがついている。
「親父さん、待たせちまってるな」
「大丈夫です。先に帰ってもいいと言ったんですけど」
「置いて帰るわけにもいかねえだろ」
「歩いて帰れますよ」
「試合の次の日に、怪我明けの投手を歩かせたなんて知れたら、俺が後輩に怒られる」
「結局、後輩なんですね」
「俺でも怖いものくらいある」
肉屋が笑う。
僕も少し笑って、空になった保冷箱を持ち上げた。
「おい、肩を使うなって言われてただろ」
「これは軽いです」
「軽くても、俺が持つ」
肉屋は僕の手から保冷箱を取り、そのまま片手で荷台へ載せた。
「こういうときくらい、大人に任せろ」
「ありがとうございます」
「素直でよろしい」
荷物は、ほとんど片づいた。
それでも肉屋は荷台を閉めず、並んだ道具を一つずつ確かめていた。
「忘れ物はないか」
「コンロが一つと、網が二枚。炭の容器と保冷箱が三つです」
「よく覚えてるな」
「さっきから見てましたから」
「そうじゃなくて」
肉屋が僕を見る。
「お前、ずっと何か考えてるだろ」
「いつもどおりです」
「嘘つけ。布団屋と話してから、余計に難しい顔になってるぞ」
自分では変わっていないつもりだった。
けれど、この人には分かるらしい。
「何を話してたんだ?」
「高校の頃のことです」
「布団屋の?」
「はい」
肉屋は小さくうなずいた。
「あいつ、あまり自分の話はしねえからな」
「強い高校へは行けなかったけど、野球をやめたいとは思わなかったそうです」
「布団屋らしいな」
「最後には、守備の上手い二塁手だと評判になったって」
「それも、あいつらしい」
肉屋は荷台の端へ腰を預けた。
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さっきまで一番大きな声で騒いでいた人と、同じ人には見えなかった。
「積み上げてきたものは、案外裏切らないって言われました」
「なるほどな」
「僕にも残っていると思うか、聞きました」
「何て答えた?」
「分からないって」
肉屋が声を上げて笑った。
「そこも布団屋らしいな!」
「ただ、なくなったと決めるには早いんじゃないかって」
笑い声が止まる。
肉屋は暗くなった河原へ顔を向けた。
「二回戦の坊主に言われたことも、気にしてるんだろ」
「聞いてたんですか?」
「近くにいたからな」
高校一年生の左腕。
試合が終わったあと、僕へ向けられた言葉がよみがえる。
あなたも目指してください。
俺も本気でプロに入りますから。
「目指すとも、目指さないとも答えられませんでした」
「そりゃ、すぐには答えられねえだろ」
「肉屋さんは、どう思いますか」
「何がだ?」
「僕が、もう一度プロを目指すことです」
肉屋はすぐには答えなかった。
川の流れる音だけが聞こえる。
やがて、荷台へ置いていた手を離した。
「俺はな、中学の頃、結構打ったんだ」
「結構ですか」
「地域じゃ知らないやつはいないくらいだ」
「自分で言うんですね」
「事実だからな」
いつもの調子で胸を張る。
けれど、それは長く続かなかった。
「強い高校から声をかけてもらった。そこで試合に出て、活躍して、その先もあると思ってた」
「プロですか?」
「当然だろ」
肉屋は迷わず答えた。
「中学生の俺は、本気で行けると思ってた。周りも、うまくいけば届くかもしれねえって言ってくれた」
「でも、怪我をした」
「ああ」
短い返事だった。
「入ってすぐにな。長く休むことになった」
肉屋は自分の脚へ目を落とした。
「強い学校ってのは、休んでる間にも、ほかのやつがどんどん上手くなる。俺がいなくても練習は進むし、試合もある。空いた場所には、別のやつが入る」
「焦ったんですね」
「焦った」
肉屋は笑わなかった。
「早く戻らねえと、自分の場所がなくなると思った。痛くないふりもしたし、動けるふりもした」
僕には、その言葉の意味が分かった。
二年前の僕も、似たことをした。
投げられると言った。
まだ行けると思い込もうとした。
「それで復帰したんですか」
「一度はな。でも、すぐにまた痛めた」
肉屋が片手を握る。
「戻って、休んで、また戻って。遅れを取り返そうとするたびに、別のところまで悪くした」
「三年のときは?」
「レギュラーには届かなかった」
肉屋は、はっきりと言った。
「それでも最後は、代打の切り札って呼ばれるところまでは戻ったぞ」
少しだけ声に明るさが戻る。
「立派じゃないですか」
「俺としては、四番を打つ予定だったんだけどな」
「そこは今と変わらないんですね」
「今は四番だ!」
「まだ二試合です」
「二試合連続だぞ!」
反射的に返したあと、二人で笑った。
笑いが収まると、肉屋は荷台の中へ目を向けた。
「プロには届かなかった」
その言葉は静かだった。
「怪我がなかったら届いたかなんて、今さら分からねえ。怪我がなくても駄目だったかもしれない」
「後悔してますか」
「してねえと言ったら、嘘になる」
肉屋が答える。
「もっと待ってから復帰すればよかったとか、あのとき無理をしなければとか。考えたことは何度もある」
最後のコンロを持ち上げ、荷台へ載せる。
「でも、今が嫌なわけじゃねえ」
肉屋は店の名前が入った保冷箱を軽く叩いた。
「店を継いで、肉を売って、たまに野球をする。今日みたいに、みんなで肉を焼くのも悪くねえ」
「楽しそうでしたね」
「楽しいぞ。俺はここでいい」
迷いのない言葉だった。
夢を諦めた自分へ言い聞かせているようには聞こえなかった。
今いる場所を、自分で選び直した人の声だった。
「でもな」
肉屋が荷台の扉へ手をかける。
「お前まで、ここでいいことにはならねえだろ」
僕は肉屋を見る。
「僕がプロへ行けると思ってるんですか」
「分からねえ」
答えは早かった。
「俺には、そんなこと分からねえよ」
肉屋は、僕なら絶対に行けるとは言わなかった。
才能があるとも、努力すれば届くとも言わなかった。
自分自身が、それだけでは届かなかったことを知っているからだと思う。
「でも、お前はまだ投げられる」
肉屋の声から、冗談が消えた。
「今日だって、一番きついところで投げた。あの肩でも、お前の球は残ってた」
布団屋の言葉が浮かぶ。
積み上げてきたものは、案外裏切らない。
「行けるかどうかじゃねえ」
肉屋は僕から目をそらさなかった。
「お前が、まだ行きてえと思ってるかどうかだ」
何も答えられなかった。
自分でも、まだ分からなかった。
プロへ行けると思えたわけではない。
もう一度目指すと決めたわけでもない。
「まだ投げられるやつが、自分から終わったことにすんな」
肉屋はそれだけ言うと、荷台の扉を閉めた。
重い音が、静かな河原に響く。
「ほら、終わったぞ」
いつもの声に戻っていた。
「親父さんをこれ以上待たせたら、俺が怒られる」
「父は怒らないですよ」
「後輩に報告するかもしれねえだろ」
「それはありそうですね」
肉屋が笑う。
僕も笑った。
けれど、返事は最後までできなかった。
ただ、無理ですとも言えなかった。
駐車場へ向かって歩き出す。
父の車の明かりは、まだついていた。
その向こうで、肉屋の言葉がいつまでも残っていた。




