俺が投げる
一学年下だった後輩。
元相方が正捕手だった高校時代、公式戦に出る機会はほとんどなかった。
それでも、練習にはいつも早く来ていた。
僕がグラウンドへ出る頃には、すでに防具を着け、ブルペンの隅で球を受けていることが多かった。
一度で捕れなかった球は、捕れるまで繰り返した。
低く外れた球を身体で止め、後ろへそらせば、同じ球をもう一度要求する。
ミットの芯を外して手首に球を当てても、一度状態を確かめると、同じ球をもう一度要求した。
うまくなりたいというより、捕れないままにしておくことが嫌いなのだと思った。
元相方のように、投手の考えを先回りして読む捕手ではなかった。
声も大きくない。
試合の流れを一言で変えるような器用さもない。
それでも、投げた球を最後まで追うことだけは、誰にも負けなかった。
「後輩だろ」
元相方が言った。
僕は顔を上げる。
「何が」
「捕手」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
「出てない」
「出てる。高校のときから、お前は考え事すると少しだけ眉間に皺が寄る」
僕は指で眉間を押さえた。
元相方が笑う。
「やっぱり後輩か」
「ほかにいない」
「俺がいるだろ」
「出られないだろ」
「相談には乗れる」
「いらない」
「冷たいな」
口ではそう言いながら、元相方は少し満足そうだった。
「今も野球やってるぞ」
「知ってる」
「連絡取ってるのか?」
「たまに」
本当は、直接やり取りすることはほとんどない。
けれど、所属しているクラブチームの結果くらいは見ていた。
試合に出ていること。
卒業後も捕手を続けていること。
高校時代より身体が大きくなり、送球も安定してきたこと。
元相方から聞かなくても知っていた。
「なら話は早いな」
「まだ出るとは言ってない」
「捕手まで決めておいて?」
「思い浮かんだだけだ」
「お前の中で、それはほぼ決定だろ」
否定できなかった。
元相方がいないから、仕方なく後輩を選ぶわけではない。
大会へ出ると考えた瞬間、球を受けてほしいと思ったのはあいつだった。
今の僕がどんな球を投げるのか、自分でも分からない。
だからこそ、昔の僕を知りながら、昔の僕だけを基準にしない捕手が必要だった。
「まあ、俺ほどではないけどな」
元相方が胸を張る。
「がはは」
「自分で笑うなよ」
「事実だから仕方ない」
「プロが高校の控えと張り合うな」
「今はもう控えじゃない」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
元相方はカップを持ち上げ、残っていたコーヒーを飲む。
「あいつは、ちゃんと捕手になってる」
「分かってる」
「なら、頼めばいい」
簡単に言う。
けれど、後輩が引き受けるとは限らない。
二年間まともに投げていない先輩のために、今いるチームを離れてまで大会へ出る理由はない。
そもそも、元相方の代わりに呼ばれたと思うかもしれない。
そう考えたところで、胸の奥が少し重くなった。
あいつを代わりとして扱うつもりはない。
けれど、そう思わせずに伝えられる自信もなかった。
「何て言えばいい」
気づけば、そう聞いていた。
元相方は一瞬だけ目を丸くする。
「珍しいな。お前が俺に相談するなんて」
「やっぱりいい」
「待て待て。今のはなし」
元相方は身を乗り出した。
「そのまま言えばいいだろ」
「何を」
「お前に捕ってほしいって」
「それだけで伝わるか」
「伝わらなかったら、理由も言え」
「理由」
「何であいつなのか」
僕は黙った。
言葉にするのは苦手だった。
けれど、理由ならある。
高校時代から見ていたこと。
今も捕手を続けていること。
そして、元相方がいなくなった穴を埋めるためではなく、今のあいつだから球を受けてほしいと思ったこと。
元相方は僕の表情を見て、少しだけ笑った。
「ちゃんと考えてるなら大丈夫だろ」
「適当だな」
「適当じゃない。お前は自分のことになると何も言わないけど、人のことは見てるからな」
「褒めても何も出ないぞ」
「じゃあコーヒー代、払ってくれ」
「プロが払えよ」
「年俸で人を判断するな」
元相方は伝票を手に取り、裏返した。
そこへ置いてあったボールペンで、何かを書き始める。
「何してる」
「必要な人数」
「勝手に進めるな」
「お前と後輩で二人。あと七人いれば試合はできる」
「登録人数はもっと必要だろ」
「ちゃんと読んでるじゃないか」
僕は元相方から伝票を奪った。
裏には、守備位置が並べて書かれていた。
投手。
捕手。
一塁。
二塁。
三塁。
遊撃。
外野三人。
昔の顔が、いくつか浮かぶ。
元四番。
遊撃手。
今も草野球を続けている同級生たち。
それだけでは足りない。
けれど、一人もいないわけではなかった。
「一試合勝ったら」
元相方が言う。
僕は伝票から顔を上げた。
「次の一試合を考えろ」
「急に何だよ」
「優勝とか、俺と対戦するとか、今のお前には遠すぎる」
「言い出したのはお前だろ」
「だから、忘れていい」
「忘れていいのかよ」
「まず一試合だ」
元相方は指を一本立てた。
「チームを作る。出場する。最初の相手と戦う。そこまででいい」
先のことを考えると、できない理由はいくらでも浮かぶ。
けれど、一試合だけなら。
そう思った時点で、すでにこいつの思いどおりなのかもしれない。
僕はポケットからスマートフォンを取り出した。
高校時代のグループチャットを開く。
さっきまで続いていた元相方の記事の話題は、もう別の話へ移っていた。
入力欄を押す。
何と書くか迷った。
元相方は何も言わず、向かいから画面を見ようとしてくる。
「見るな」
「見てない」
「身体ごと寄ってくるな」
「誤字があったら困るだろ」
「子どもじゃない」
僕はスマートフォンを胸元へ引き寄せる。
そして、大会のページを貼り付けた。
少し迷ったあと、その下へ短い文章を打つ。
『この大会、出られる人いる?』
送信ボタンの上で、指が止まる。
元相方は今度こそ何も言わなかった。
僕は一度だけ息を吐き、画面を押した。
送信した直後、既読が一つ増えた。
それから二つ、三つと続く。
返信はすぐには来なかった。
僕は画面を伏せようとした。
その瞬間、元四番から通知が届く。
『急にどうした』
続けて、遊撃手。
『乗っ取られた?』
『本人です』
『本人がそんな文章送る?』
『どういう意味だよ』
『もっと愛想がない』
元相方が向かいで笑いをこらえている。
「見せろ」
「見せない」
「どうせ俺も知ってる連中だろ」
「だから何だよ」
画面を胸元へ寄せると、通知が続けて震えた。
『硬式?』
『大会まで一か月しかないけど』
『俺たちもう高校生じゃないぞ』
『出られる人って、参加するつもりなのか?』
冗談の間に、少しずつ具体的な質問が混じり始める。
僕は大会の参加条件を確認しながら答えた。
『硬式』
『まだ決めてない』
『人数が集まるなら考える』
送ると、元相方が眉を寄せた。
「何だ、その逃げ道だらけの文章」
「うるさい」
「自分から声かけたんだから、出るって言えよ」
「まだ人数もいない」
「だから集めてるんだろ」
「集まらなかったら出られない」
「集まったら?」
僕は答えず、スマートフォンへ視線を戻した。
元四番から新しいメッセージが来る。
『監督は?』
『いない』
『ユニフォームは?』
『ない』
『練習場所は?』
『これから』
『何があるんだよ』
遊撃手が続ける。
『言い出した本人のやる気』
その下に、元四番が返した。
『一番怪しいやつじゃん』
元相方が画面をのぞこうとしてくる。
僕は椅子ごと少し後ろへ下がった。
「何て言われてる?」
「関係ないだろ」
「俺がきっかけなんだから関係ある」
「お前の名前出したら、余計に話がややこしくなる」
「出してないのか?」
「まだ」
元相方が不満そうに腕を組む。
グループチャットには、ほかの同級生からも返事が届き始めた。
仕事の予定を確認しないと分からない。
硬式球にはしばらく触っていない。
草野球なら続けている。
道具は高校時代のものが実家に残っているはずだ。
誰も、すぐに参加するとまでは言わない。
それでも、無理だと切り捨てる人間もいなかった。
『ところで』
元四番が送ってくる。
『投手は誰』
指が止まった。
向かいに座る元相方は、何も言わない。
さっき僕が口にした言葉を、ここでも言えるのか試されているような気がした。
投げられる。
あの場では、元相方一人に答えただけだった。
高校時代の仲間に伝えれば、もう少し意味が変わる。
肩は大丈夫なのかと聞かれる。
本当に試合で投げられるのかと聞かれる。
二年前のことを知っている人間に、今の自分を見られることになる。
画面の上では、入力を待つカーソルが点滅している。
「俺が投げる」
口に出すと、元相方がうなずいた。
「それでいい」
「お前に確認してない」
僕は同じ言葉を入力した。
『俺が投げる』
送信する。
それまで途切れずに動いていた画面が、急に静かになった。
既読だけが増えていく。
誰もすぐには返さなかった。
店の奥で、コーヒーミルが低い音を立てる。
山岸さんがカウンターの向こうからこちらを見たが、何も言わずに手元へ視線を戻した。
最初に返したのは元四番だった。
『肩、治ったのか』
当然の質問だった。
僕は短く打つ。
『治ってる』
少し迷ってから、もう一つ送った。
『投げられる』
また、間が空いた。
さっき元相方へ答えたときよりも、今のほうが胸の奥が落ち着かなかった。
画面が震える。
『じゃあ出ようぜ』
元四番だった。
あまりにも簡単な返事に、僕はしばらく画面を見た。
遊撃手が続く。
『先に言えよ。それなら話変わる』
『何が変わるんだ』
『乗っ取りじゃないって分かった』
『そこかよ』
『俺も出る』
そのあとに、現在も草野球を続けている同級生が参加の意思を送ってくる。
日程次第。
仕事を調整する。
練習場所が決まったら教えろ。
最初は冗談だった言葉が、少しずつ予定へ変わっていく。
僕は参加すると答えた名前を、頭の中で数えた。
元四番。
遊撃手。
二塁を守っていた同級生。
外野手が二人。
僕を入れて六人。
後輩が引き受けてくれれば七人になる。
試合をするだけでも足りない。
交代要員や怪我を考えれば、登録にはもっと必要だった。
「集まるじゃないか」
元相方が言った。
「足りない」
「最初から全部そろうわけないだろ」
「あと何人か必要だ」
「心当たりは?」
僕は画面に並んだ名前を見る。
二年前まで毎日のように顔を合わせていた人間たち。
卒業後も野球を続けていたことは知っていた。
けれど、自分が投げると伝えただけで、ここまで早く返事が来るとは思っていなかった。
「お前が投げるのを待ってたんじゃないか」
元相方が言う。
「そんなわけない」
「じゃあ、何で急に乗ってきたんだよ」
「大会が面白そうだからだろ」
「そういうことにしておくか」
元相方は笑った。
僕は返事をせず、参加者の名前をメモへ移した。
足りない守備位置を考える。
一塁。
外野。
控えも必要になる。
同級生だけでは難しい。
けれど、商店街には野球経験のある人間が何人かいた。
白い前掛け姿の大きな身体と、眠たげな目をした細身の男が浮かぶ。
「心当たり、ある顔してるぞ」
「顔で分かる設定、便利すぎないか」
「お前が分かりやすいんだよ」
「昔から?」
「昔から」
元相方は即答した。
僕はメモに二つ、店の名前を書き足した。
肉屋。
布団屋。
引き受けるかどうかは分からない。
それでも、聞いてみようと思った。
少なくとも今は、できない理由を数えるより先に、足りない人数を数えていた。




