積み上げてきたもの
試合後の挨拶を終えると、僕たちはベンチへ戻って片づけを始めた。
飲みかけのボトルを集め、散らばった道具をバッグへ戻していく。
遊撃手はベンチの端へ座り、スパイクの紐をほどいていた。
「立ったら、思ったより足に来た」
「五回投げたあと、四回守ったからだろ」
「九回までだから、四回で合ってるか」
「合ってる」
「細かいな」
「投手だから」
「それ、外野手の台詞だろ」
遊撃手は笑いながらも、すぐには立ち上がらなかった。
外野手はその隣で、自分の投球について後輩へ質問を続けている。
「八回だけ、球の動きが悪くなったのかな」
「動き自体は、それまでと変わっていませんでした」
「じゃあ、やっぱり相手が打たなくなったから?」
「その可能性が高いです」
「振ってくれないと、僕の良さってなくなるんだね」
「なくなったわけではありません。七つアウトを取りました」
「最後に満塁にしたけど」
「そこだけ取り出さないでください」
さっきまでとは立場が逆になっていた。
僕が笑っていると、肉屋が大きなバッグを肩に担いで通り過ぎた。
「反省会はあとにしろ! 荷物が減らねえぞ!」
「肉屋さんが一番話してるじゃないですか」
元四番が言う。
「俺は指示を出してるんだ!」
「口だけ動かさないでくださいよ」
「バッグ持ってるだろ!」
「それ、肉屋さんの荷物ですよね」
「細かいこと言うな!」
騒がしい声を背中で聞きながら、僕はグラウンドへ出た。
何人かがトンボを持って、土をならしている。
僕も一本借り、マウンドへ向かおうとした。
けれど、その途中で足が止まった。
二塁の近くに、布団屋がいた。
八回、一死満塁。
強い打球に追いつき、遊撃手へつないだ場所だった。
布団屋は足元に残った跡を見ながら、ゆっくりとトンボを引いている。
「最後、ありがとうございました」
同期の二塁手が声をかけた。
両手には、ベースや用具を入れるための袋を持っている。
「僕は打球を捕っただけですよ」
「そこに追いつくのが、すごかったです」
「遊撃手がきちんとベースへ入ってくれましたから」
「それでも、あの形にして正解でした」
同期の二塁手は、少しだけ間を置いた。
「交代したときは、悔しかったですけど」
布団屋の手が止まる。
「そうですよね」
「でも、勝てたので」
同期の二塁手は二塁の土を見た。
「次は、最後まで守れるように頑張ります」
「僕も、代わらなくて済むように頑張ります」
「布団屋さんは、どこでも守ってるじゃないですか」
二人が笑った。
同期の二塁手は僕に気づくと、軽く手を上げてからベンチへ戻っていった。
僕はトンボを引きながら、布団屋の隣へ向かう。
「二塁に入ってから、動きが違って見えました」
「そんなに違いましたか」
「迷いがなかったというか」
布団屋は、きれいになった土の上へ目を落とした。
「一応、本職ですから」
「中学からですか?」
「そうですね。中学では、ほとんど二塁でした」
布団屋が再びトンボを引く。
土の上に残っていたスパイクの跡が、一つずつ消えていった。
「守備は、それなりに評価してもらっていました」
「強い高校からも話があったんですか?」
「話というほどではありませんよ。もう少し野球に力を入れている学校へ進めるかもしれない、というくらいです」
「行かなかったんですか?」
「行けなかった、の方が近いですね」
布団屋の声は、いつもと変わらなかった。
自分を憐れむ様子も、誰かを責める様子もない。
「家の事情もありましたし、進学の条件も合いませんでした。結局、家から通える高校へ行きました」
「野球部は?」
「強くなかったですよ」
布団屋は少し笑った。
「部員を集めるところから始めるような学校でした。中学の頃みたいに、守備練習の相手がいつもいるわけでもありませんでした」
「それでも、続けたんですね」
「野球は好きでしたから」
短い答えだった。
布団屋らしいと思った。
「壁に投げたり、一人で足を動かしたり。できることだけですけどね」
「やめたいとは思わなかったんですか」
「それは、なかったですね」
布団屋は迷わず答えた。
「強い学校へ行けなかったことを、残念に思わなかったわけではありません。でも、それと野球をやめたいかどうかは、別の話でしたから」
トンボを動かす手は止まらない。
話しているのは、思い描いていた場所へ進めなかった過去のはずだった。
それでも、布団屋の言葉は重くなかった。
「試合で評価される機会は?」
「多くはありませんでした。全国大会へ出たわけでも、大きな結果を残したわけでもありません」
布団屋は、ならした土を見渡した。
「それでも最後の頃には、守備の上手い二塁手がいる、くらいには言ってもらえました」
「ちゃんと見ている人はいたんですね」
「そうみたいです」
布団屋が小さく笑う。
「そこから先につながったわけではありませんけど、続けてきたことが何も残らなかったわけでもありません」
今日の併殺を、偶然だけで片づけることはできなかった。
打球への一歩目。
捕ってから送球へ移るまでの速さ。
遊撃手が受けやすい場所へ、迷わず投げたこと。
どれも、一日で身につくものではない。
「今日、二塁へ入ったとき」
僕は、ならされた土を見る。
「最初から、あそこに立つ場所を知っているように見えました」
「長く守っていましたからね」
「高校を卒業してからも?」
「草野球では、空いているところばかりですけど」
布団屋はトンボを止めた。
「体が覚えているものは、あるみたいです」
八回の打球が浮かんだ。
僕のチェンジアップ。
布団屋の一歩目。
遊撃手のベースカバー。
肉屋のミット。
あの場面で突然、新しい力が生まれたわけではない。
それぞれが、それまで持っていたものを使った。
「結果がどうなるかは、分かりませんけどね」
布団屋が言った。
「積み上げてきたものって、案外裏切らないものですよ」
風が吹き、ならしたばかりの土の上を、細かな砂が滑っていった。
肩を壊したとき、僕はそれまでの時間までなくなったように思っていた。
投げられなくなった。
プロへ進む道も消えた。
だから、野球から離れた。
けれど、久しぶりに投げた僕の中には、まだ制球も、チェンジアップも、配球を考える力も残っていた。
今日だって、それを使って打球を二塁へ転がした。
「僕にも、残っていると思いますか」
口にしてから、自分でも何を聞いているのか分からなくなった。
布団屋は、すぐには答えなかった。
「それは、僕には分かりません」
穏やかな声だった。
「ただ、なくなったと決めるには、少し早いんじゃないですか」
僕は返事をしなかった。
返せなかった、という方が近い。
プロを目指せと言った、高校一年生の左腕の顔が浮かんだ。
僕はあのときも、何も答えなかった。
トンボを持つ手へ、少しだけ力を入れる。
「そろそろ戻りましょうか」
布団屋が言った。
「はい」
二人でベンチへ向かいかけたところで、向こうから肉屋の声が飛んできた。
「おい! 次の相手、決まったぞ!」
さっきまで騒いでいた声とは、少しだけ響きが違っていた。
僕と布団屋は顔を見合わせる。
そして、足を速めた。




