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必要な場所

 八回裏。


 こちらは追加点を取れなかった。


 四対二のまま、九回表を迎える。


 ベンチを出ると、後輩が僕の隣へ並んだ。


「肩はどうですか」


「大丈夫。さっきより軽い」


「軽くなったんですか?」


「一度投げたから、重さが気にならなくなっただけかもしれない」


「なら、油断しないでください」


「分かってる」


 後輩は僕の顔を見たあと、短くうなずいた。


「あと三つです」


「一人ずつだろ」


「覚えてたんですね」


「何回も聞いたからな」


 後輩が少しだけ笑った。


 マウンドへ向かう。


 四対二。


 あと三つのアウトを取れば、三回戦を勝ち抜ける。


 けれど、長い回を任されたわけではない。


 最初から、この試合を背負っていたわけでもない。


 遊撃手が五回まで投げた。


 外野手が、そのあとをつないだ。


 僕は二人が残したリードを、最後まで持っていけばいい。


 九回の先頭は、五番打者だった。


 大きな体を揺らしながら、ゆっくりと右打席へ入る。


 後輩が初球のサインを出す。


 外角への真っすぐ。


 僕はうなずいた。


 投じた球は、後輩の構えた場所へ収まった。


 ストライク。


 打者は動かなかった。


 二球目。


 少し速さを落としたチェンジアップ。


 今度はバットが出る。


 打球は一塁側のベンチ上へ飛び込んだ。


 追い込んだ。


 相手の五番は、打席の中で一度だけ足元をならした。


 空振りを取りにいく必要はない。


 低く投げて、前へ飛ばさせる。


 三球目。


 後輩が内角低めへ構える。


 真っすぐ。


 腕を振り切った。


 打者が踏み込む。


 バットに当たった球は、三塁方向へ強く転がった。


 元四番が腰を落として捕る。


 立ち上がりながら一塁へ送った。


 肉屋のミットへ、送球が収まる。


 ワンアウト。


「よし! あと二つだ!」


 肉屋の声がグラウンドに響いた。


「数えなくても分かってますよ!」


 元四番が三塁から返す。


「確認は大事だろ!」


「声が大きすぎるんです!」


 いつものやり取りだった。


 それだけで、肩から少し力が抜けた。


 六番打者が左打席へ入る。


 初球のチェンジアップを見送り、二球目の真っすぐをファウルにする。


 三球目は低めへ外れた。


 ワンボール、ツーストライク。


 後輩が外角へ構える。


 落差の大きいチェンジアップ。


 僕はうなずいた。


 打者のバットが途中まで出て、止まる。


 球は低く外れた。


 ツーボール、ツーストライク。


 もう一度、後輩がサインを出す。


 今度は外角への真っすぐだった。


 僕はその場所へ投げた。


 打者は逆らわずに振り抜く。


 打球は遊撃手の右へ転がった。


 遊撃手が横へ動く。


 けれど、一歩目がいつもよりわずかに遅かった。


 伸ばしたグラブの先を、白い球が抜けていく。


 中前打。


 一死一塁。


 遊撃手は五回を投げたあと、ここまで遊撃を守り続けていた。


 表情は変わらない。


 それでも、呼吸は少しだけ荒くなっていた。


「悪い。一歩遅れた」


 遊撃手が右手を上げる。


「気にするな」


 後輩から返されたボールを受け取った。


 狙ったところへ投げた。


 打者が打ち、遊撃手のグラブがわずかに届かなかった。


 それだけだった。


 ここで急に、投げ方を変える必要はない。


 七番打者が打席へ入る。


 長打が出れば、一点差。


 それでも、走者を意識しすぎれば、打者への球が甘くなる。


 後輩は、一塁走者を見るような仕草をしなかった。


 最初から打者だけを見ている。


 初球。


 内角への真っすぐ。


 打者は詰まりながら振った。


 打球が左翼へ上がる。


 高い。


 けれど、深くはない。


 途中から守備へ入った左翼手が前へ出た。


 落下点で足を止め、両手で捕球する。


 ツーアウト。


「あと一つ!」


 肉屋が叫んだ。


「今度は本当にあと一つです!」


 元四番が返す。


「さっきも本当だっただろ!」


 笑いそうになった。


 けれど、まだ終わっていない。


 八番打者が打席へ入る。


 一塁走者が少し大きなリードを取った。


 一度、一塁へ牽制する。


 走者が頭からベースへ戻った。


 再び打者へ向き直る。


 初球は、外角への真っすぐ。


 ボール。


 二球目。


 同じ腕の振りから、速さを落としたチェンジアップ。


 打者の体が前へ出た。


 バットの先に当たり、打球は一塁側へ転がる。


 ファウル。


 ワンボール、ワンストライク。


 三球目は内角。


 打者が見送る。


 ストライク。


 あと一球で終わるかもしれない。


 そう考えた瞬間、右肩へ余計な力が入りそうになった。


 一度、息を吐く。


 後輩は急かさなかった。


 ミットを下ろしたまま、僕が構えるのを待っている。


 最後の一球を投げる必要はない。


 取るべきなのは、最後の一つのアウトだ。


 後輩がサインを出した。


 低めのチェンジアップ。


 僕はうなずく。


 腕を振った。


 球は低いところへ沈んでいく。


 打者が食らいついた。


 打球は遊撃手の正面へ転がった。


 遊撃手が捕る。


 一塁走者が二塁へ向かって走っていた。


 けれど、遊撃手は迷わず一塁を選んだ。


 右足を踏み込み、肉屋へ送る。


 白い球が、一塁へ伸びる。


 肉屋がベースを踏んだまま、ミットを差し出した。


 ボールが収まる。


 打者走者の足が、そのあとにベースへ届いた。


「アウト!」


 球審の声が響いた。


 スリーアウト。


 試合終了。


 四対二。


 僕たちは、三回戦に勝った。


 遊撃手が一番に駆け寄ってきた。


「最後、俺のところに飛ばしただろ」


「偶然だよ」


「そういうことにしておくか」


 遊撃手が僕の肩を軽く叩く。


 その後ろから、肉屋が走ってきた。


「よく投げた!」


「肉屋さん、手加減してください」


「まだ何もしてねえぞ!」


「これから叩くつもりだったでしょう」


「よく分かったな!」


 元四番が肉屋の腕を押さえた。


「試合が終わった直後に壊さないでくださいよ」


「祝福だ!」


「力加減を覚えてください!」


 少し遅れて、外野手もやってきた。


「助かったよ」


 僕が言うと、外野手は首をかしげた。


「僕が?」


「六回と七回を抑えただろ」


「八回は満塁にしたけど」


「そこだけ取り出すなよ」


 遊撃手が言った。


「俺が五回。外野手が二回と三分の一。最後はエース」


「僕は一回と三分の二だよ」


「細かいな」


「投手だから」


 遊撃手は少し考えてから、笑った。


「三人合わせて九回か」


 誰か一人が、最後まで投げた試合ではなかった。


 遊撃手が試合を作った。


 外野手が、理由の分からないまま七つのアウトを重ねた。


 僕は、一番必要な場面から投げた。


 後輩は、その全員の球を受けた。


 内野も、外野も、それぞれの場所でアウトを取った。


 山岸さんが、僕たちのところまで歩いてくる。


「よくやった」


 それだけ言って、一人ずつの顔を見た。


「三人とも、いい投球だった」


 遊撃手が胸を張る。


「先発として合格ですからね」


「自分で言うな」


「後輩も言ってただろ」


「十分です、としか言ってません」


「同じようなものだ」


 外野手が小さく笑った。


 僕も、つられて笑った。


 マウンドに立たないところから始まった試合だった。


 それでも、最後にはそこに立っていた。


 長い回を投げたわけではない。


 試合の全部を背負ったわけでもない。


 必要とされた場所で、必要なだけ投げた。


 それでよかった。


 少なくとも、今日の僕には。

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