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器用な先発

一回表。


 遊撃手は、マウンドの上でも普段と変わらない顔をしていた。


 後輩から返されたボールを右手でもてあそび、足元の土を軽くならす。


 緊張しているようには見えない。


 少なくとも、ベンチから見る限りは。


 ただ、右足を置く場所を何度も確かめていた。


 本人は大丈夫だと言っていた。


 ブルペンでも球はまとまっていた。


 狙った場所へ寸分違わず投げ込むタイプではない。


 それでも、大きく外れる球は少なかった。


 相手の一番打者が、左の打席へ入る。


 大学生らしく体はできていたが、構えに力みはなかった。


 遊撃手の初球は、外角への真っすぐだった。


 高い。


 打者は振らない。


 二球目。


 後輩は内側へ構えた。


 投じられた球は、構えた場所より少し真ん中へ寄った。


 打者のバットが出る。


 鋭い打球が、一塁線の外へ切れていった。


 球速以上に、速く見える。


 内野から送球するときと同じように、遊撃手は最後まで腕を振り切っていた。


 真っすぐだけで大学生を押し込めるほどではない。


 けれど、打者も簡単にはタイミングを合わせられていなかった。


 三球目は、外へ曲がる球。


 打者は一度動きかけて、バットを止めた。


 ストライク。


 追い込んでから、後輩は内角へ構えた。


 遊撃手が投じたのは、低めの真っすぐだった。


 打者が詰まらされる。


 弱いゴロが、三塁前へ転がった。


 元四番が前へ出て捕り、そのまま一塁へ送る。


 ワンアウト。


 最後は真っすぐだった。


 遅い球を見せたあとだからこそ、差し込まれたのだと思う。


 遊撃手の真っすぐは、打者を圧倒する球ではない。


 それでも、見せる順番を変えれば、打ち損じを誘うことはできる。


 二番打者は右打ちだった。


 初球は、外へ曲がる球。


 ボール。


 二球目は真っすぐ。


 今度は低い。


 遊撃手が一度、右手を振った。


 思ったところへ投げられていないのだろう。


 後輩は立ち上がらなかった。


 返球したあと、ミットを小さく下へ動かす。


 気にせず低く集めろ、ということだと思う。


 三球目。


 遊撃手の真っすぐが外角へ決まった。


 打者は見送る。


 四球目。


 球速を落としながら、腕は真っすぐと同じように振られていた。


 球が少しだけ沈む。


 打者が引っかけた。


 打球は遊撃へ転がった。


 今日、遊撃を守っている布団屋が正面に入り、丁寧に捕る。


 急ぐ様子もなく、一塁へ送球した。


 ツーアウト。


 チェンジアップ。


 元々、遊撃手が投げられると言っていたのは、真っすぐと曲がる球だけだった。


 けれど、練習中。


 遊び半分で握りを変えて投げた一球を見て、後輩が言った。


「それ、使えます」


 遊撃手自身は、何が違うのかよく分かっていない顔をしていた。


 それでも後輩が何度か投げさせ、実戦でも使えると判断した。


 三つ目の球種だった。


 名前が何であれ、今の一球は役割を果たしていた。


 三番打者が打席へ入る。


 ここまでの二人より、明らかに体が大きい。


 初球の真っすぐを見送った。


 ストライク。


 二球目の外へ曲がる球を、強く振った。


 打球が一塁側のベンチ上へ飛び込む。


 遊撃手がマウンドで口元を上げた。


 自分の球が通用したことを喜んでいるようにも見えた。


 調子に乗るなよ。


 そう思った直後、三球目は外へ曲がる球。


 打者は見送った。


 ボール。


 四球目も、後輩は外へ構えた。


 今度は真っすぐだった。


 打者が逆方向へ打ち返す。


 鋭い打球が、僕たちのいるベンチから遠ざかっていく。


 右翼手が前へ走った。


 間に合わない。


 打球は芝の上で跳ね、打者は一塁を回ったところで止まった。


 ツーアウト一塁。


 簡単には終わらせてくれない。


 遊撃手の球が悪かったわけではない。


 外角へ低く投げられていた。


 それでも、相手は逆らわずに運んだ。


 二回戦までの相手より、打てる球と見送る球の判断が落ち着いている。


 今度の相手は、無理に一振りで決めようとしてこない。


 四番打者が打席へ向かう。


 遊撃手は一塁走者を一度だけ見た。


 後輩がサインを出す。


 初球はチェンジアップ。


 ストライク。


 二球目は内角への真っすぐ。


 打者は振らず、ボール。


 三球目は外へ曲がる球。


 バットが途中まで出て止まる。


 またボールだった。


 ツーボール、ワンストライク。


 後輩が選んだのは、高めの真っすぐだった。


 打者が振る。


 打球は高く上がった。


 中堅手が数歩後ろへ下がり、両手で捕球する。


 スリーアウト。


 遊撃手が息を吐いたのが、ベンチからでも分かった。


 圧倒したわけではない。


 三振を奪ったわけでもない。


 狙った場所へ、すべて投げられたわけでもなかった。


 それでも、三つの球を使い、速さと軌道を変え、打者の狙いを一つに絞らせなかった。


 決め球がなくても、アウトは取れる。


 遊撃手は後輩と並んで、ベンチへ戻ってきた。


「どうよ」


 僕の前で立ち止まり、得意そうに言う。


「一安打」


「無失点だろ」


「球数は?」


「知らない」


「十六球です」


 後ろから後輩が答えた。


「多い?」


「多くはありません」


「じゃあ、褒めてくれてもよくない?」


「初回を無失点に抑えました」


「そう、それでいいんだよ」


 遊撃手は満足そうにうなずき、ベンチへ腰を下ろした。


 後輩はプロテクターを外さないまま、その隣へ立つ。


「二番にもう一度回ったら、入り方を変えます」


「もう次の話?」


「次も投げるんですから」


 遊撃手は一度だけ天井を見上げた。


「先発って大変だな」


「今ごろ気づいたのか」


 僕が言うと、遊撃手は鼻で笑った。


「まだ一回だろ」


 そう言って、グラブを膝の上へ置く。


 その表情から、さっきまでの緊張は少し消えていた。


 一つの球に頼らず、持っているものを全部使って。


 遊撃手は、最初の一回を終えた。


 今日の試合は、確かにあいつの手で始まっていた。

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