先発ではない朝
三回戦の朝、先発投手の欄に僕の名前はなかった。
代わりに書かれていたのは、遊撃手の名前だった。
「二回見ても変わりませんよ」
隣から後輩が言った。
「分かってる」
「なら、そんなに見なくてもいいでしょう」
「見てない」
「見てました」
後輩は僕の手からメンバー表を取り、ベンチの壁へ戻した。
試合開始までは、まだ一時間以上ある。
グラウンドでは相手チームがアップを始めていた。
揃いの練習着を着た大学生たちが、二列に並んで短い距離のダッシュを繰り返している。
特別に目立つ選手はいない。
それでも、動きにばらつきがなかった。
投げる前に声をかけ、受けた側が返す。
次の選手が動くまでの間も短い。
一回戦の相手とも、二回戦の相手とも違う。
飛び抜けた一人ではなく、全員が同じ野球を知っているように見えた。
「肩、回してみてくれ」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、山岸さんがベンチの入口に立っていた。
言われたとおり、右腕をゆっくり回す。
前から後ろへ。
後ろから前へ。
痛みはない。
ただ、二回戦で七回を投げた重さが、完全に抜けているわけでもなかった。
「どうだ」
「少し重いです。でも、痛みや違和感はありません」
僕が答えると、山岸さんは後輩を見た。
「お前から見てどうだ?」
「投げられない状態ではないと思います」
後輩はそう前置きしてから、僕の右肩へ視線を向けた。
「ただ、二回戦の疲れは残っています。今日また長い回を投げれば、その先に影響が出るかもしれません」
山岸さんがうなずいた。
「俺も同じ考えだ」
それから、壁に貼られたメンバー表へ目を向けた。
「後輩の意見も聞いた。そのうえで、今日だけじゃなく、この先のことまで考えれば、一度休んでもらった方がいいと思ってる」
「今日は投げないということですか」
「先発はさせない」
山岸さんは、そこで言葉を区切った。
「必要な場面が来れば、頼ることはあるかもしれない。だが、最初からお前が投げる前提では試合を組まない」
投げられないわけではない。
けれど、投げられるから投げるわけでもない。
「分かりました」
「不満そうだな」
「少しだけ」
「正直でよろしい」
山岸さんは笑った。
「今日は外から試合を見てくれ。マウンドに立たないから見えるものもある」
山岸さんがグラウンドへ戻ると、ベンチの奥から声が飛んできた。
「随分と信用されてないね、エース」
遊撃手がグラブを脇に抱えて立っていた。
「お前に言われたくない」
「俺は信用されてるから先発なんだけど」
「投手が足りないだけだろ」
「そういう現実的なことを言うなよ」
軽い口調だった。
いつもと変わらない。
けれど、グラブの紐は、昨日より強く結び直されていた。
「緊張してる?」
僕が聞く。
「別に」
「してるな」
「してない」
「二回否定するやつはしてる」
「誰から教わった、その面倒な理屈」
元相方と、後輩。
二人の顔が浮かんだが、口にはしなかった。
遊撃手はマウンドの方を見た。
「何回まで投げればいい?」
「最初から終わりを考えないでください」
後輩が答える。
「一人ずつです」
「エースに言うことと同じじゃん」
「投手ですから」
「俺向けの特別な助言は?」
「あります」
後輩は手に持っていたノートを開いた。
僕の球について書かれたページとは別の場所だった。
いくつもの球種と、その横に簡単な記号が並んでいる。
「決め球を作ろうとしないでください」
遊撃手の口元から笑みが消えた。
「それ、褒めてる?」
「長所を生かす話です」
「言い方って大事だと思うけどな」
「一つの球で仕留めようとすると、たぶん苦しくなります。球種を散らして、相手に狙いを決めさせない方がいいです」
「なるほど」
「真っすぐで押そうともしないでください」
「俺、一応強肩なんだけど」
「内野手の送球と、投手の球は別です」
「今日は厳しいな」
文句を言いながらも、遊撃手はノートをのぞき込んでいた。
後輩が指でページをなぞり、初回の入り方を説明する。
僕のときとは違う。
同じ打者を相手にしても、僕には出さないサインを使うのだろう。
当然のことだった。
僕と遊撃手では、持っている球が違う。
できることも違う。
後輩は僕の球を受けるためだけにいる捕手ではない。
それぞれの投手が持っているものを使い、試合を作ろうとしている。
分かっていたはずなのに、二人の会話を外から見るのは少し不思議だった。
「先輩」
後輩が僕を見た。
「何」
「今日は、ちゃんと休んでください」
「分かってる」
「ブルペンで勝手に投げないでくださいね」
「分かってる」
「二回言う人は分かってないんでしたっけ」
「それは緊張の話だろ」
遊撃手が笑った。
「じゃあ、俺が危なくなったら頼むよ」
軽く言って、グラウンドへ向かおうとする。
その背中に、僕は声をかけた。
「最初から危なくなる前提で行くな」
遊撃手が振り返る。
「最後まで投げろってこと?」
「違う」
今日の僕は、先発ではない。
だからといって、遊撃手が僕の代わりに投げるわけでもない。
「お前の試合を作ってこい」
遊撃手は少しだけ目を見開いた。
それから、口元を上げた。
「へっ、分かった。やれるところまでやってやろうじゃん」
「頼んだ」
遊撃手はグラブを持ち上げ、そのままブルペンへ歩いていった。
後輩も、そのあとを追う。
僕はベンチに残り、二人の背中を見送った。
昨日までなら、マウンドから試合を始めることばかり考えていた。
今日は違う。
僕のいない場所から、試合が始まる。
それを不安だとは思わなかった。
少なくとも、そう思いたかった。




