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本気になる日

 試合終了の挨拶を終えると、相手エースはすぐに列から離れた。


 俯いてはいなかった。


 けれど、試合中に浮かべていた笑顔も消えていた。


 七回まで投げ、打者として本塁打を放った。


 それでも、チームは負けた。


 最後はネクストバッターズサークルで、打席へ立つことさえできなかった。


 僕は右肩に氷を当てたまま、ベンチへ戻る。


「勝ったぞ!」


 肉屋の声が響いた。


「分かってますよ」


 元四番が言う。


「俺のホームランで勝ったようなもんだな」


「後輩のタイムリーがなかったら、同点です」


「同点にしたのは俺だろ」


「その前に犠牲フライも打ってますから、今日は文句ないです」


「今日はって何だよ。いつも褒めろ」


 遊撃手が外野手の肩へ腕を回した。


「九回、完璧だったな」


「内野安打を打たれてるけど」


「その後、俺が捕った」


「自分の手柄にするなよ」


「でも、最後の打球は本当に助かった」


「俺だけじゃないって。布団屋が『戻せ』って言わなかったら、そのまま喜んでたかもしれないし」


「そこは、『戻して』です」


 布団屋が穏やかに訂正した。


「同じようなもんだろ」


「言い方が少し違いました」


「そこ大事?」


「少しだけ」


 最後のアウトは、外野手が投げ、後輩が受け、遊撃手が捕り、布団屋が指示を出し、肉屋が送球を受けた。


 誰のアウトだったのかと聞かれても、一人の名前では答えられない。


 僕たちは、そうやって勝った。


「肩、どうですか」


 後輩が氷の位置を直す。


「重いだけ」


「痛みは?」


「ない」


「あとで、もう一度確認します」


「今答えたばかりだろ」


「試合直後の先輩は信用していません」


「勝ったあとくらい信用してくれよ」


「勝ったから、次があります」


 後輩の言葉に、返事が止まった。


 一回戦のあとも、次の相手を考えていた。


 今日も同じだった。


 試合が終わったばかりなのに、この肩で次は何回投げられるのかを考えている。


 少し前までの僕には、必要のなかった考えだった。


     *


 荷物をまとめていると、相手エースが一人でこちらへ歩いてきた。


 ユニフォームは土で汚れ、短い金髪は汗で額に張りついている。


 最初に声をかけたのは、肉屋だった。


「もう一回、投げたかったか?」


「投げたかったです」


「俺ももう一回打ちたかった」


「次は打たせませんけど」


「言うじゃねえか」


 肉屋は嬉しそうに笑った。


「スライダー、いい球だったぞ」


「打った人に言われても、あんまり嬉しくないです」


「一回目は三振した」


「二回目も、真っすぐで詰まらせました」


「ホームラン一本で十分だ」


「次は三打席、全部抑えます」


「次があればな」


 七回表と同じ言葉だった。


 相手エースは、今度は笑わなかった。


「作ります」


 短く答え、僕を見る。


「最後の球、チェンジアップですよね」


「そう」


「途中まで、真っすぐだと思いました」


「それを狙ったから」


「分かってたのに、振らされました」


 悔しそうに唇を噛む。


 それでも、言い訳はしなかった。


「俺、今まで、本気で練習したことなかったんです」


 周りにいた全員が黙った。


 相手エースは、自分の左手を見た。


「練習しなくても、だいたい抑えられたし、打てました。もっと必要になったら、そのとき本気でやればいいと思ってました」


「今日は必要じゃなかったのか」


 遊撃手が聞く。


「必要でした」


 相手エースはすぐに答えた。


「でも、急に本気を出そうとしても、出せなかったです」


 七回表に投げた一四三キロ。


 肉屋を空振りさせたスライダー。


 右翼へ運んだ本塁打。


 どれも、この試合では十分すぎるほどの力だった。


 それでも、本人にとっては違ったのだろう。


 持っているものを全部出すことと、積み重ねてきたものを出すことは、同じではない。


「次は、最初から本気でやります」


 相手エースは僕をまっすぐ見た。


「あなたも目指してください」


 何を、と聞く必要はなかった。


「俺も、本気でプロに行きますから」


 高校一年生の言葉だった。


 迷いはなかった。


 プロを目指していた頃の僕より、ずっと簡単に口にした。


 けれど、軽くは聞こえなかった。


 僕は答えなかった。


 目指すとも、目指さないとも言えなかった。


 相手エースも、返事を求めている様子はなかった。


「次は勝ちます」


「僕たちも、次がある」


「じゃあ、また勝ち上がってください」


 それだけ言うと、相手エースは頭を下げた。


 相手エースが仲間のところへ戻っていく。


 その先では、ポニーテールの女性が待っていた。


 負けたチームの中心へ、相手の選手たちが一人ずつ集まっていく。


 次に会うときは、本当に別の投手になっているかもしれない。


     *


 ワゴン車へ荷物を運んでいる途中、駐車場の出口近くに彼女が立っていた。


 隣には、相手エースの親戚だという友人もいる。


 僕に気づくと、彼女は友人へ何かを伝えた。


 友人はこちらへ軽く頭を下げ、少し離れた場所へ歩いていく。


「久しぶり」


 先に口を開いたのは彼女だった。


「久しぶり」


「本当に投げてたんだ」


「見てたんだろ」


「途中からはね」


「最初からいたと思うけど」


「細かい」


 高校の頃と変わらない返しだった。


 彼女の視線が、僕の右肩へ向く。


「大丈夫なの?」


「今のところは」


「その答え、信用できないんだよね」


「後輩にも同じことを言われた」


「ちゃんと止めてくれる人がいるなら、前よりは安心かな」


 以前は、彼女が何度も僕の肩を心配してくれていた。


 それなのに僕は、心配をかけたまま、何も決めなかった。


「心配かけた」


 口から出た言葉に、自分で少し驚いた。


 彼女も、すぐには答えなかった。


「今さら謝るんだ」


「今さらだな」


「本当にね」


 怒っているようには見えなかった。


 だからといって、何もなかった頃に戻ったようにも見えなかった。


「次も投げるの?」


「多分」


「そう」


 彼女は僕のユニフォームを一度見てから、友人の待つほうへ顔を向けた。


「じゃあ、行くね」


「ああ」


 数歩進んだところで、彼女が振り返る。


「また」


「また」


 次がいつなのかは、決めなかった。


 それでも、二年前にはなかった言葉だった。


 僕は白いワゴン車へ戻る。


 車の中では、肉屋が勝手に次の試合の打順を予想し、元四番と揉めていた。


 後輩は投球ノートを開いている。


 遊撃手と外野手は、最後の打球をどちらの手柄にするかで争っていた。


 僕が運転席へ座ると、山岸さんが助手席の後ろから声をかけた。


「帰ろうか」


「はい」


 エンジンをかける。


 二年前から止まっていたものが、急に大きく動き出したわけではない。


 まだ、行き先も決まっていない。


 それでも、次の試合へ向かう道は続いていた。


     *


 白いワゴン車が、駐車場を出ていく。


 ポニーテールの友人が、彼女の隣に戻ってきた。


「仲よかったの?」


「昔はね」


「びっくりした。あの人が、あの投手だったんだ」


 彼女は遠ざかっていく車を見ながら、少しだけ目を細めた。


「へえ。やっと前に進み始めたんだ」


「何?」


「別に。行こ」


 二人は、相手エースたちが待つほうへ歩き出した。

第二章までお読みいただき、ありがとうございました。


次の試合では、「僕」は最初からマウンドには上がりません。


ここまで投げてきた肩をできるだけ休ませるため、商栄スターズはこれまでとは違う形で試合に挑みます。


誰が投げ、誰が支え、どんな形でつないでいくのか。


そして第三章では、肉屋と布団屋が歩んできた時間も、少しずつ見えてきます。


同じように野球を続けてきた二人でも、見てきた景色はまったく違う。


だからこそ、それぞれの口から出る言葉があります。


その言葉が、「僕」に何を残すのか。


第三章も、よろしくお願いします。

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