残された2回
七回を終えた時点で、僕たちは三対二で勝っていた。
右肩に氷を当てたまま、ベンチの端へ座る。
マウンドから降りたことへの悔しさはあった。
けれど、不安は一回戦のときより小さかった。
遊撃手が、僕の前で帽子をかぶり直す。
「一回だけでいいんだよな?」
「八回を抑えれば」
「じゃあ、九回は任せた」
遊撃手が外野手の肩を叩く。
外野手は困ったような顔をした。
「まだ八回も始まってないだろ」
「先に逃げ道を塞いどこうと思って」
「自分が打たれたら、九回まで回ってこないからな」
「縁起悪いこと言うなよ」
後輩が二人の間へ入った。
「遊撃手さんは八回だけに集中してください。九回は、そのあとです」
「了解、監督」
「捕手です」
「俺が抑えたら褒めてくれる?」
「内容によります」
「厳しいなあ」
軽口を言いながら、遊撃手はマウンドを見ていた。
一回戦で投げたときより、顔つきは落ち着いている。
僕の場所は、もうマウンドにはなかった。
それでも、試合は続いている。
*
八回表。
相手エースはマウンドへ上がらなかった。
代わりに右投手が登板し、短い金髪の少年は中堅へ回っていた。
七回まで投げた疲れを感じさせず、守備位置まで軽く走っていく。
「投げないのか」
肉屋が言った。
「球数も多かったですからね」
後輩が答える。
「もう一回くらい打ちたかったんだけどな」
「打てたから言える台詞だろ」
遊撃手がヘルメットをかぶる。
この回は一番からだった。
遊撃手は新しい投手の真っすぐを捉えたが、打球は中堅へ上がった。
相手エースが前へ出て、難なく捕球する。
投手を降りても、試合から消えたわけではなかった。
二番の布団屋は四球を選んだ。
三番の外野手は、内角の球に詰まりながら遊撃への飛球。
二死一塁。
四番の肉屋が、初球を高く打ち上げる。
打球は中堅方向へ伸びた。
「行ったか?」
肉屋が走りながら打球を見る。
相手エースは背走し、フェンスの少し手前で追いついた。
そのまま振り返り、胸の前で捕る。
三つ目のアウト。
肉屋がベンチへ戻りながら顔をしかめた。
「さっきより飛んだんだけどな」
「投手が変わってますからね」
元四番が言う。
「分かってるよ」
「今のは相手の守備がよかったです」
「それも分かってる」
肉屋は悔しそうだったが、言い訳はしなかった。
相手エースは中堅から戻りながら、捕った球を内野へ投げ返していた。
残り二回。
一点を守れば勝てる。
*
八回裏。
僕の代わりに遊撃手がマウンドへ入り、布団屋が左翼から遊撃へ移る。
空いた左翼には、控えの外野手が入った。
僕の場所は、もうグラウンドにはなかった。
それでも、試合は続いている。
相手の四番打者から始まった。
遊撃手の初球は、勢いのある真っすぐだった。
外角を狙った球が、少し内側へ入る。
四番打者は迷わず振り、打球を左前へ運んだ。
無死一塁。
「少し甘かったです」
後輩が返球しながら言う。
「分かってる」
遊撃手は笑わなかった。
次の五番打者。
後輩はスライダーを続けて要求した。
一球目は外れた。
二球目はストライク。
三球目、真っすぐが高く浮く。
打球は一、二塁間を抜けた。
無死一、二塁。
ベンチの空気が一気に重くなる。
遊撃手には勢いのある真っすぐがある。
変化球も一つではない。
制球も、大きく崩れているわけではなかった。
けれど、打者を確実に仕留める一球がない。
追い込んでも、最後まで安心できない。
後輩がタイムを取り、マウンドへ向かった。
僕のときのように長くは話さない。
数秒で戻ってくる。
遊撃手は後輩の背中を見送り、一度だけ息を吐いた。
六番打者への初球。
内角の真っすぐ。
打者のバットが詰まる。
打球は浅い中堅への飛球になった。
外野手が前へ走り、捕球する。
一死一、二塁。
走者は動けなかった。
七番打者には、緩いカーブから入った。
打者の重心が前へ動く。
二球目は外角の真っすぐ。
ファウル。
三球目。
後輩は、もう一度カーブを選んだ。
打者が引っかける。
打球は三塁線寄りへ転がった。
元四番が前へ出る。
一塁へは投げず、三塁を踏んだ。
「アウト!」
先頭走者を封じる。
二死一、二塁。
「一つで十分です」
後輩が元四番へ声をかける。
元四番は小さく手を上げて返した。
次は八番打者。
遊撃手が投げた真っすぐは、外角へ外れた。
二球目のスライダーも低い。
後輩は、細かいコースを要求するのをやめた。
ミットを真ん中より少し外へ置く。
球種だけを決め、遊撃手の腕に任せる。
三球目。
真っすぐが、要求より内側へ入る。
打者が振った。
打球は二遊間へ転がる。
布団屋が横へ動いた。
遊撃手ほどの速さはない。
肩の強さも違う。
それでも、打球の正面へ入るまでの足運びに迷いがなかった。
胸の前で捕り、一塁へ送る。
肉屋が受けた。
「アウト!」
三つ目。
無死一、二塁から、追加点を与えなかった。
遊撃手がマウンドを降りながら、布団屋へ右手を上げる。
「助かった」
「こちらこそ、打ちやすいところへ飛ばしていただきました」
「それ、褒めてないよね?」
「抑えたので、いいと思います」
「後輩みたいなこと言うなあ」
布団屋は眠たそうな目のまま、少しだけ笑った。
遊撃手は二本の安打を許した。
それでも、残った選手たちと一緒に一回を守り切った。
*
九回表。
五番の元四番が、代わった右投手の真っすぐを右前へ運んだ。
無死一塁。
六番の右翼手が一塁側へ送りバントを決める。
一死二塁。
七番の後輩は、外角の球を右翼へ打ち上げた。
元四番は二塁から動けない。
二死二塁。
八番の二塁手は、粘った末に遊撃ゴロへ倒れた。
追加点は取れなかった。
三対二。
一点差のまま、最後の守備へ入る。
マウンドへ向かう外野手を、後輩が呼び止めた。
「狙ったところへ投げなくていいです」
「試合前と言ってることが違わないか?」
「真ん中だけ避けてください。あとは僕が合わせます」
「そんなに散る前提なの?」
「散りますよね」
「否定はできないけど」
外野手は自信がなさそうに右手の球を見る。
「一回戦は抑えられました」
「自分でも、何で抑えたか分からないんだけど」
「打者も分かっていません。それで十分です」
後輩が先にホームへ向かう。
外野手は一度だけ僕を見た。
「行ってきます」
「任せた」
それだけ答えた。
外野手がマウンドへ入り、遊撃手は中堅へ回る。
布団屋は遊撃に残った。
左翼には控えの外野手。
僕は氷を肩に当てたまま、全員が守備位置へ散っていくのを見ていた。
*
九回裏は、九番打者から始まった。
外野手の初球は、外角寄りを狙ったはずだった。
けれど、球はさらに外へ流れる。
二球目は内側。
三球目は、真っすぐが微妙に沈んだ。
打者が振る。
打球は、投手と三塁手の間へゆっくり転がった。
外野手がマウンドを降りる。
元四番も前へ出る。
外野手が先に触ったが、握り直す間に打者走者が一塁を駆け抜けた。
内野安打。
無死一塁。
相手のベンチから大きな声が上がる。
次の一番打者は、すぐにバントの構えを見せた。
後輩が立ち上がる。
初球は、高めに外れた。
二球目。
外野手の真っすぐが、今度は低く沈む。
打者がバントする。
球は捕手の前へ転がった。
後輩が素早く前へ出る。
誰も指示を出すより先に、二塁へ投げた。
布団屋がベースへ入る。
送球を受け、足をつけた。
「アウト!」
先頭走者を封じる。
打者走者は一塁へ残った。
一死一塁。
相手ベンチの前で、短い金髪の少年がバットを持って立ち上がった。
次の打者だった。
今の二番打者が出れば、もう一度あいつへ回る。
外野手がマウンドの上で息を吐いた。
後輩は立ち上がらない。
普段より大きくミットを広げた。
最初から、細かい場所へ投げさせるつもりはなかった。
初球。
真っすぐが外角へ流れる。
「ボール」
二球目は内側へ入った。
打者が振る。
バットの根元に当たり、打球が一塁側へ切れた。
ファウル。
三球目。
今度は、わずかに沈む真っすぐ。
打者が見送る。
「ストライク」
一ボール、二ストライク。
あと一球。
けれど、外野手の球は、狙った場所へ来るとは限らない。
後輩がミットを真ん中より少し低い位置へ置いた。
四球目。
球は要求より高く入った。
打者が振り抜く。
鋭い打球が、右中間へ飛んだ。
中堅の遊撃手と、右翼手が同時に走る。
一塁走者もスタートを切った。
抜ければ、一、三塁。
打球の先には、相手エースが待っている。
遊撃手が右腕を伸ばした。
白い球が、地面へ落ちる直前にグラブへ収まる。
「アウト!」
遊撃手は倒れ込みながら、すぐに立ち上がった。
一塁走者は二塁近くまで進んでいる。
「戻して!」
布団屋の声が飛ぶ。
遊撃手が一塁へ投げた。
強い送球が、低い軌道で伸びていく。
肉屋がベースへ足をつけ、胸の前で受けた。
「アウト!」
一塁塁審の右手が上がる。
三つ目。
試合が終わった。
一瞬だけ、グラウンドが静かになった。
次の打者として待っていた相手エースは、バットを握ったまま立っていた。
外野手が投げた。
後輩が受けた。
布団屋が声を飛ばし、遊撃手が打球を捕り、肉屋が最後の送球を受けた。
僕の代わりに投げた二人と、残った全員で取った三つのアウトだった。
相手エースへ、もう一度打席を回すことはなかった。
三対二。
商栄スターズが、二回戦を勝った。




