七回の打者
七回裏のマウンドへ向かう前、後輩が僕の前に立った。
「この回で終わりです」
「分かってる」
「点を取られても、打者の途中でも替わります」
「そこまで言わなくても分かってるよ」
「先輩は、マウンドに立つと分からなくなるので」
否定はしなかった。
右肩には、六回まで投げた重さが残っている。
痛みはない。
けれど、もう一回投げられるからといって、その次も投げていいとは限らなかった。
「この回だけだな」
「はい」
後輩がミットを持ち上げる。
「だから、全部使います」
七回裏は、八番打者から始まった。
*
先頭への初球は、外角の真っすぐ。
わずかに高かった。
打者が迷わず振り、打球が三遊間へ転がる。
元四番が横へ動いた。
グラブを伸ばす。
先端には触れたが、打球を止められない。
左前打。
無死一塁。
九番打者は、最初からバントの構えを見せた。
初球はファウル。
二球目。
低めの真っすぐを、一塁側へ転がされる。
僕がマウンドを降りた。
捕球して一塁へ送る。
一つ目のアウト。
走者は二塁へ進んだ。
次は一番打者。
一打席目は遊撃ゴロ。
二打席目は中堅への飛球。
三打席目は、初球を打って外野手に捕られている。
後輩は、初球にチェンジアップを選んだ。
打者のバットが先に出る。
打球は一塁側へ転がった。
肉屋が前へ出て正面で捕り、自分でベースを踏む。
二つ目のアウト。
その間に、二塁走者は三塁へ進んだ。
二死三塁。
あと一人。
けれど、二番打者への初球が外れた。
二球目の真っすぐも、少し低い。
六回に本塁打を打たれたあとほどではない。
それでも、指先の感覚が少しずつ鈍くなっている。
三球目。
内角へ投げた真っすぐが外れた。
三ボール。
後輩は立ち上がらなかった。
ただ、真ん中に近いところへミットを構える。
ストライクを取りにいった真っすぐを、打者は見送った。
三ボール、一ストライク。
次の球も、同じところを狙った。
少し高く浮く。
「ボール、フォア」
二死一、三塁。
勝負を避けたわけではない。
それでも、結果だけを見れば、次の打者へ回してしまった。
観客席の空気が変わる。
短い金髪の少年が、ベンチから出てきた。
相手エースの四打席目。
一打席目は右前打。
二打席目は三塁ゴロ。
三打席目は、右翼への本塁打。
一塁側の観客席から、大きな声が上がる。
相手エースはヘルメットをかぶり直し、左の打席へ入った。
試合前のような笑顔ではなかった。
けれど、楽しそうな目は変わっていない。
後輩がタイムを取り、マウンドへ歩いてくる。
「歩かせますか」
相手エースを避ければ、二死満塁。
次の四番打者も簡単な相手ではないが、この打者よりは抑えられる可能性が高い。
それに、どの塁でもアウトを取れるようになる。
作戦としては、間違っていなかった。
「勝負する」
「そう言うと思いました」
「聞く必要あった?」
「確認です」
後輩が小さく笑った。
「ここで終わらせましょう」
「ああ」
「本塁打を打たれた球も使います」
一瞬だけ、右翼の向こうへ消えた打球を思い出した。
「分かった」
「嫌じゃないんですか」
「同じ球でも、同じ勝負はしないだろ」
「そのつもりです」
後輩が戻っていく。
相手エースは打席の中で、バットをゆっくり回していた。
走者は一、三塁。
二死。
一点差。
僕にとって、この試合で最後の打者だった。
*
初球。
外角の真っすぐ。
本塁打を打たれた打席と、似た高さから入る。
相手エースは振らなかった。
球はミット一つ分、外へ外れる。
「ボール」
打者の目が、球を最後まで追っていた。
二球目。
内角の真っすぐ。
相手エースが振る。
差し込まれながらも、打球を三塁側へ飛ばした。
ファウル。
一ボール、一ストライク。
三球目は、速いチェンジアップ。
真っすぐと同じ腕の振りで、外角へ投げる。
相手エースのバットが出た。
少しだけ先だった。
打球が一塁側へ飛んでいく。
ファウル。
一ボール、二ストライク。
追い込んだ。
観客席の声が小さくなる。
後輩が、外角低めへミットを構えた。
四球目。
今度は、さらに速度を落とす。
相手エースの体がわずかに前へ出た。
それでも、バットは止まった。
球は低く外れる。
「ボール」
二ボール、二ストライク。
簡単には振らない。
二球のチェンジアップだけで、速さの違いにも気づいている。
後輩から返ってきた球を右手の中で握った。
次のサインは、真っすぐだった。
外角低め。
六回に本塁打を打たれた場所。
首は振らなかった。
五球目。
相手エースが踏み込む。
バットが鋭く出た。
打球は、左翼側へ切れていく。
ファウル。
わずかに遅れていた。
打たれたときと、同じではない。
それでも、もう一度同じ球を投げれば、次は捉えられる。
相手エースも、それを分かっているように見えた。
打席の中で、口元が少しだけ緩む。
後輩が次のサインを出す。
速いチェンジアップ。
六球目。
外角の真っすぐと、途中まで同じ軌道。
相手エースは待っていた。
速度を落とした球へ、体を残してバットを出す。
先端に当たり、打球が一塁側へ飛んだ。
また、ファウル。
これにもついてきた。
相手エースが一度打席を外す。
息を吐き、土をならした。
観客席から拍手が起こる。
僕は右肩を一度だけ回した。
あと一球で終わるとは限らない。
それでも、投げられる球はまだ残っていた。
後輩がミットを構える。
外角低め。
同じ場所。
さっきよりも、少しだけ深い。
サインは、この試合で最も遅いチェンジアップだった。
七球目。
腕は緩めない。
真っすぐを投げるつもりで、右腕を振る。
相手エースの前足が踏み込まれた。
バットが出る。
六球目よりも、長く球を待っている。
それでも、白い球は狙いよりわずかに外へ抜けながら、バットの手前で速度を失い、沈んだ。
バットが空を切る。
後輩のミットに球が収まった。
「ストライク、バッターアウト!」
球審の右手が上がる。
一瞬遅れて、商栄スターズのベンチから声が上がった。
相手エースは振り切った姿勢のまま、後輩のミットを見ていた。
それから顔を上げ、僕を見る。
悔しそうだった。
けれど、目をそらさなかった。
僕も、マウンドの上から見返した。
六回は、あいつが打った。
七回は、僕が抑えた。
それだけだった。
*
ベンチへ戻ると、山岸さんが僕の肩を軽く叩いた。
「お疲れさま」
「はい」
「今日はここまでだよ」
「分かっています」
自分でも、驚くほど素直に答えられた。
まだ投げたいとは思った。
八回も、九回も、自分で守りたい。
けれど、それは今日するべきことではない。
僕は後輩から氷の入った袋を受け取り、右肩へ当てた。
「最後、少し抜けましたね」
「抑えただろ」
「結果の話ではありません」
「厳しいな」
「次も投げてもらうので」
ベンチの前では、遊撃手が肩を回していた。
その近くで、外野手も腕を振っている。
残りは二回。
僕の仕事は終わった。
ここからは、また別の投手と、同じ仲間たちが試合を作る。




