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一番いい球

 七回表。


 四番の肉屋が、先頭で打席へ向かった。


 試合は一対二。


 一打席目は、膝元へ食い込むスライダーに空振り三振。


 二打席目は、内角の真っすぐを右翼へ運び、犠牲フライ。


 まだ、安打はなかった。


「今度こそ打ってくださいよ」


 元四番が声をかける。


「今までの二打席があったから、今度があるんだ」


「急に積み重ねを語り始めましたね」


「四番は三打席で一つの仕事をするんだよ」


「さっきは、呼ばれた時点で半分終わってるって言ってませんでした?」


「状況は変わる」


「都合がいいな」


 肉屋は振り返らず、右手だけを上げた。


 打席へ入り、バットを構える。


 マウンドの相手エースから、もう笑みは消えていた。


 一点差。


 終盤。


 そして、前の打席で走者を返している四番。


 左手の中で球を握り、捕手のサインを確認する。


 初球は、外角へ逃げるスライダーだった。


 肉屋は動かない。


「ボール」


 一打席目なら、手を出していたかもしれない。


 二球目。


 内角の真っすぐ。


 肉屋が振る。


 打球は鋭く三塁側へ飛んだが、わずかに外へ切れた。


 ファウル。


 球速表示は一四一キロ。


 三球目。


 相手エースが大きく左腕を振った。


 高めの真っすぐ。


 肉屋のバットが遅れて出る。


 バックネットへ飛んだ打球が、大きな音を立てた。


 表示された数字は、一四三キロ。


 この試合で最も速い球だった。


 観客席が大きく沸く。


 一ボール、二ストライク。


 肉屋が追い込まれた。


 それでも、打席の中で慌てる様子はなかった。


 一度バットを下ろし、マウンドを見ている。


「速いな」


 遊撃手が言った。


「あれを見せたあとなら、次はスライダーでしょうか」


 後輩がつぶやく。


「フォークかもしれない」


「まだ安定していません。走者はいませんが、ここで使うかどうか」


 捕手が低く構えた。


 四球目。


 相手エースの指から、球が抜ける。


 肉屋の手前で鋭く落ちた。


 けれど、落ち始めるのが早い。


 肉屋はバットを止める。


 捕手が体で前へ落とした。


「ボール」


 未完成のフォーク。


 これで二ボール、二ストライク。


 相手エースは捕手から返ってきた球を受け取り、短く息を吐いた。


 次のサインに、すぐにはうなずかなかった。


 一度首を振る。


 もう一度。


 三つ目のサインで、構えに入った。


 肉屋がバットを上げる。


 五球目。


 左腕が振られた。


 途中まで、真っすぐと同じだった。


 一打席目に空振りした軌道。


 右打者の内側へ入り、最後に膝元へ潜り込む。


 この投手が、最も自信を持っている球。


 肉屋の左足が踏み込まれた。


 腰が回る。


 バットが、曲がり始めた球の少し上を叩いた。


 乾いた音ではなかった。


 重いものを強く弾いたような音が、グラウンドに響いた。


 打球は三塁手の頭上を越え、左翼方向へ伸びていく。


 左翼手がフェンスへ向かって走る。


 途中で速度を落とし、見上げた。


 白い球が、フェンスの向こうへ消えた。


 一瞬遅れて、商栄スターズのベンチから声が上がる。


「入った!」


 遊撃手が最初に飛び出した。


 肉屋は打球の行方を確認すると、ゆっくり走り始めた。


 大きく拳を上げることも、叫ぶこともしない。


 一塁を回るときだけ、マウンドを見た。


 相手エースも、肉屋を見ていた。


 悔しそうではあった。


 けれど、目をそらさなかった。


 肉屋が三塁を回る。


 二対二。


 この試合で初めて、相手エースの一番いい球を打った。


 ホームを踏んだ肉屋を、全員が迎える。


「どうだ!」


 ベンチへ戻った瞬間、いつもの大声に戻った。


「完璧でした」


 後輩が言う。


「一打席目で軌道を覚えたからな」


「本当に覚えてたんですね」


「お前、俺を何だと思ってたんだ」


「肉屋です」


「お前ら、それ気に入ってるだろ」


 元四番がヘルメットをかぶる。


「同点にしただけですよ」


「打てないよりいいだろ」


「もちろんです。あとは僕たちに任せてください」


「俺のホームランが霞むから、ほどほどにしろ」


「四番なら、後ろの打者が打つことを喜んでください」


 五番の元四番が打席へ入った。


 相手エースは、ホームランを打たれた直後も崩れなかった。


 初球は外角の真っすぐ。


 元四番は見送る。


 二球目のスライダーにも手を出さない。


 どちらも、わずかに外れていた。


 三球目。


 ストライクを取りに来た外角の真っすぐを、逆らわず右方向へ打ち返す。


 打球が一、二塁間を抜けた。


 右前打。


 無死一塁。


「俺のホームランで動揺したな」


「普通に打っただけだろ」


 遊撃手が言う。


「いい流れを作ったんだよ」


 六番の外野手が打席へ向かう。


 初球からバントの構えを見せた。


 相手の一塁手と三塁手が前へ出る。


 二球目。


 外野手が真っすぐを一塁側へ転がした。


 一塁手が捕り、打者走者へタッチする。


 その間に、元四番が二塁へ進んだ。


 一死二塁。


 七番の後輩が、打席へ入る。


 僕がマウンドへ上がるときとは違う顔をしていた。


 捕手ではなく、一人の打者として相手エースを見ている。


 初球は、外角のスライダー。


 後輩は見送った。


「ボール」


 二球目は内角の真っすぐ。


 詰まりながら、一塁側へファウルにする。


 三球目。


 緩いカーブが外角へ入った。


 球審の右手が上がる。


 一ボール、二ストライク。


 相手エースが追い込む。


 四球目は、低めのフォークだった。


 今度は捕手の前で大きく弾まなかった。


 後輩のバットが止まる。


「ボール」


 二ボール、二ストライク。


 相手エースが左手の中で球を握り直す。


 五球目。


 内角の真っすぐ。


 後輩は振り遅れながらも、三塁側へファウルにした。


 六球目は、外へ逃げるスライダー。


 バットを出さない。


「ボール」


 フルカウント。


 粘るほど、相手エースの球数は増えていく。


 それでも、後輩は四球だけを狙っているようには見えなかった。


 七球目。


 外角の真っすぐ。


 後輩が踏み込む。


 打球は強くなかった。


 それでも、二遊間の真ん中へ転がっていく。


 遊撃手が横へ動き、グラブを伸ばした。


 わずかに届かない。


 打球が中堅へ抜けた。


 元四番が三塁を回る。


 中堅手が前へ出て、ホームへ返球する。


「回れ!」


 肉屋の声が飛んだ。


 元四番がホームへ滑り込む。


 捕手のタッチより、わずかに早い。


「セーフ!」


 三対二。


 後輩の中前打で、商栄スターズが初めて前へ出た。


 一人の打球だけで取った一点ではない。


 肉屋が一番いい球を打ち、元四番が続き、外野手が送り、後輩が返した。


 四人で作った逆転だった。


 八番の二塁手は、初球を遊撃へのゴロにした。


 相手の遊撃手が二塁へ送り、一塁走者の後輩を封じる。


 二死一塁。


 九番の僕は、スライダーに空振り三振。


 それ以上の得点は取れなかった。


 それでも、試合は三対二に変わった。


 ベンチへ戻る僕の横を、相手エースが通り過ぎる。


 顔には汗が浮かんでいた。


 それでも、悔しそうに俯いてはいない。


 その途中、肉屋を見た。


「今の、俺の一番いい球でした」


 肉屋は腕を組んだ。


「知ってる」


「次は打たせません」


「次があればな」


 相手エースは、一瞬だけ黙った。


 それから、また笑った。


「ありますよ」


 まだ、試合は終わっていない。


 七回裏。


 僕にとって最後のイニングが始まる。

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