四番の仕事
相手エースの初球は、内角の真っすぐだった。
球速表示は一四〇キロ。
肉屋は振らない。
ボール一つ分ほど内側に外れ、捕手のミットへ収まった。
「ボール」
肉屋が小さくうなずく。
試合前の大声が嘘のように、打席では静かだった。
二球目は外角の真っすぐ。
今度はバットを出した。
少し遅れた打球が、一塁側の観客席へ飛び込む。
ファウル。
三球目は、緩いカーブだった。
肉屋の重心が前へ動きかける。
それでもバットは止まった。
球は外角のストライクゾーンへ収まり、球審の右手が上がる。
「ストライク」
一ボール、二ストライク。
肉屋が追い込まれた。
四球目は、高めの真っすぐ。
肉屋は短く振り、バックネットへ弾き返した。
相手エースの笑みが少し深くなる。
捕手が低く構えた。
五球目。
左腕が振られる。
途中までは、真っすぐとほとんど変わらない。
肉屋も、真っすぐを打つ形でバットを出した。
けれど、球は手元で鋭く曲がり、右打者の膝元へ潜り込む。
バットが空を切った。
「ストライク、バッターアウト」
肉屋はしばらく、捕手のミットを見ていた。
悔しそうに顔をしかめることも、言い訳をすることもない。
バットを抱え、まっすぐベンチへ戻ってきた。
「言っただろ。見てからじゃ遅いって」
遊撃手が声をかける。
「ああ」
肉屋は右手で、球の軌道をなぞった。
「分かってても、近くで見ると違うな。真っすぐのつもりで振ったら、最後に膝の下へ入ってきやがる」
「次は打てそうですか?」
後輩が聞いた。
「軌道は覚えた」
「それだけですか」
「細かいことは打席で考える」
「考えられるんですか?」
「お前ら、俺を何だと思ってるんだ」
「肉屋」
遊撃手が即答した。
「野球の話をしてんだよ」
肉屋はそう言いながらも、もう一度マウンドを見た。
最初の打席で、力だけでは届かないことは分かったはずだった。
それでも、怖がっているようには見えなかった。
五番の元四番が打席へ向かう。
「先に打ってきます」
「俺よりいい当たり打つなよ」
「後ろを打たせてるの、肉屋さんでしょう」
元四番は、初球の外角低めのスライダーを見送った。
ボール。
二球目は内角の真っすぐ。
詰まりながらも、三塁側へファウルにした。
三球目。
相手エースはもう一度、外角へ投げる。
今度は真っすぐだった。
元四番は逆らわず、右方向へバットを出した。
鋭い打球が一、二塁間を抜ける。
右前打。
元四番が一塁へ到達すると、肉屋がベンチから声を張った。
「俺のおかげだな!」
「何もしてないだろ」
遊撃手が返す。
「球筋を見せた」
「遊撃手のほうが先に見せてる」
「細かいこと言うな」
肉屋と同じ右打者でも、打ち方はまるで違う。
肉屋は強く引っ張る。
元四番は、来た球に逆らわず、空いている方向へ運べる。
左投手との相性だけを考えれば、元四番のほうが打ちやすいのかもしれない。
それでも、今日の四番は肉屋だった。
六番の右翼手は、速い真っすぐに押されて空振り三振。
七番の後輩は、低いスライダーを見送り、真っすぐを二球ファウルにした。
最後は外角の球を右方向へ打ったが、右翼手の正面へ飛ぶ。
三つ目のアウト。
得点にはならなかった。
それでも、相手エースは初回より多くの球を投げていた。
*
二回裏。
先頭の五番打者に、外角の真っすぐを右中間へ運ばれた。
中堅手が追ったが、打球はその前で弾む。
無死一塁。
六番打者は、初球からバントの構えを見せた。
後輩が立ち上がる。
「一つでいいです」
僕は真っすぐを低めへ投げた。
打球が一塁側へ転がる。
肉屋が前へ出たが、僕のほうが近い。
「任せろ!」
肉屋の声を背中で聞きながら、僕が捕球する。
一塁へ送球し、一つ目のアウト。
走者は二塁へ進んだ。
七番打者は、外角の球を一、二塁間へ転がした。
二塁手が捕って一塁へ送る。
その間に、走者は三塁へ進んだ。
二死三塁。
八番打者への二球目。
少し高く入ったチェンジアップを、中堅方向へ弾き返された。
打球は外野手の前で落ちる。
三塁走者が生還した。
先制点は、相手エースのバットからではなかった。
五番が出て、六番が送り、七番が進め、八番が返した。
一人に頼っているように見えたチームも、何もできないわけではない。
山岸さんの言葉を思い出す。
一人だけを見て試合をしないように。
続く九番打者を二塁ゴロに打ち取り、それ以上の得点は許さなかった。
試合は、相手の一点リードに変わった。
*
三回表は、八番の二塁手から始まった。
真っすぐを二球続けてファウルにしたあと、低いスライダーを見送る。
最後は緩いカーブを引っかけ、三塁ゴロ。
九番の僕は、外角の真っすぐに手が出なかった。
球審の右手が上がる。
「ストライク、バッターアウト」
ベンチへ戻ると、遊撃手が笑っていた。
「エース様、見事な見逃し三振」
「打てる球じゃなかった」
「振らなきゃ当たらないぞ」
「肉屋に言われたくない」
「俺は振った」
「当たってないだろ」
一番の遊撃手は、二打席目も粘った。
外へ逃げるスライダーを見送り、真っすぐを三球ファウルにする。
最後は高めの真っすぐに押され、中堅への飛球。
三者凡退だった。
けれど、初回のように簡単な三つのアウトではなかった。
*
三回裏。
先頭打者を、遊撃手へのゴロに打ち取る。
二番打者は、外角のチェンジアップを引っかけて一塁ゴロ。
二死走者なしで、相手エースが左の打席へ入った。
一打席目は右前打。
後輩は、初球に内角の真っすぐを選んだ。
相手エースは振らない。
ストライク。
二球目は、同じ腕の振りから速いチェンジアップ。
バットが少し先に出て、打球は三塁側へ転がった。
元四番が前へ出る。
難しい体勢になりながら捕り、一塁へ送球した。
肉屋が腕を伸ばして捕る。
「アウト」
相手エースは一塁を駆け抜けたあと、元四番を見た。
悔しそうな顔ではない。
いい守備を見たときのように、少し笑っていた。
僕一人で取ったアウトではなかった。
狙った場所へ投げ、後輩が球を選び、元四番が捕り、肉屋が送球を収める。
そうして、相手の中心打者を初めて打ち取った。
*
四回表。
先頭の布団屋が、外角低めのスライダーを二球続けて見送った。
相手エースが真っすぐを続ける。
布団屋は一球をファウルにし、もう一球を見送った。
三ボール、一ストライク。
五球目のスライダーが低く外れる。
「ボール、フォア」
初めて、先頭打者が塁に出た。
三番の外野手への初球。
相手エースの腕が、真っすぐと同じように振られた。
けれど、球は捕手の手前で急に落ち、ミットの下を抜けた。
映像で何度か見た、発展途上のフォークだった。
捕手がすぐに後ろを追ったが、その間に布団屋が二塁へ進む。
無死二塁。
相手エースは捕手から球を受け取ると、右手を小さく上げた。
失投を引きずっている様子はない。
それでも、次の球にフォークは選ばなかった。
外野手は真っすぐを打った。
けれど、少し詰まった。
力のない打球が、二塁手の正面へ転がる。
二塁手が一塁へ送る間に、布団屋は三塁へ進んだ。
一死三塁。
安打にはならなかった。
それでも、走者を一つ先へ進めた。
相手エースは、初めてマウンドの上で笑わなかった。
左手の中で球を握り直し、四番を待っている。
肉屋がバットを持って立ち上がった。
「今度は返すぞ」
「狙いは?」
元四番が聞く。
「来た球」
「急に普通ですね」
「四番は細かいことを言わねえんだ」
「考えるのをやめただけじゃないですか」
「見とけ」
肉屋は打席へ入り、バットを構えた。
初球は、外角低めのスライダー。
肉屋は動かない。
「ボール」
二球目は内角の真っすぐだった。
肉屋が踏み込む。
詰まりながらも、打球は右翼方向へ高く上がった。
右翼手が後ろへ下がる。
十分な距離があった。
「行け!」
肉屋の声と同時に、布団屋が三塁から走る。
右翼手が捕球し、ホームへ返した。
送球は少し一塁側へ逸れる。
布団屋が滑り込んだ。
「セーフ!」
球審の両手が横へ広がる。
一対一。
肉屋は一塁へ向かいかけた足を止め、ベンチへ戻ってきた。
「どうだ」
「ナイス犠飛です」
元四番が言う。
「打点は打点だ」
「それはそうです」
「四番の仕事だろ」
肉屋が胸を張る。
一打席目は、スライダーに空振りした。
二打席目も、相手エースを打ち崩したわけではない。
それでも、必要な一点を取った。
四番の仕事は、一番遠くへ飛ばすことだけではない。
走者を返し、試合を動かすこと。
肉屋はそれを、誰より分かりやすい形で果たしていた。
二死走者なし。
同点になった直後の打席へ、五番の元四番が入った。
一打席目は、外角の真っすぐを右前へ運んでいる。
相手エースも覚えていたのだろう。
初球は内角への真っすぐ。
元四番がバットを出す。
詰まった打球が、三塁側の観客席へ飛び込んだ。
二球目は外角低めのスライダー。
見送って、ボール。
三球目も外角だった。
今度は真っすぐ。
元四番は右方向へ打ち返したが、打球は一塁手の正面へ飛んだ。
三つ目のアウト。
一対一。
試合は振り出しに戻った。




