高校一年生の左腕
相手エースの第一球は、外角いっぱいの真っすぐだった。
遊撃手はバットを動かさない。
捕手のミットが鋭く鳴り、球審の右手が上がった。
「ストライク」
球速表示には、一四一キロ。
数字が出た瞬間、観客席から歓声が上がった。
相手エースは表示を確かめることもなく、捕手から返ってきた球を受け取る。
マウンドの上で、楽しそうに笑っていた。
二球目。
同じように腕が振られる。
遊撃手がバットを出した。
けれど、真っすぐと同じ軌道に見えた球は、手元で鋭く曲がった。バットが空を切り、球だけが捕手のミットへ収まる。
一回戦の映像で見たスライダーだった。
画面越しで見るよりも、曲がり始めるのが遅い。
打者の近くまで、真っすぐと見分けがつかない。
遊撃手は一度打席を外し、短く息を吐いた。
追い込まれても、表情は変わらない。
三球目の真っすぐをファウルにする。
続く低めのスライダーには、バットを止めた。
「ボール」
相手エースが少しだけ眉を上げる。
簡単には振らないと分かったらしい。
五球目は、緩いカーブだった。
遊撃手は体勢を崩されながらも、三塁側へファウルにする。
六球目。
外角の真っすぐに振り遅れ、打球が一塁側の後方へ上がった。
一塁手が落下地点へ入り、捕球する。
アウトにはなった。
それでも、六球を投げさせた。
ベンチへ戻った遊撃手が、すぐに口を開く。
「真っすぐは表示どおり。スライダーは、見てからじゃ遅い」
「曲がりは?」
後輩が聞く。
「大きい。でも、それより曲がり出すのが遅い。途中まで真っすぐと変わらない」
二番の布団屋が小さくうなずき、打席へ向かった。
相手エースは、一球目からスライダーを投げる。
布団屋は手を出さず、ボール。
二球目の真っすぐをファウルにし、三球目の緩いカーブにも形を崩さずついていった。
「意外と粘るな」
肉屋が言う。
「意外とは余計ですよ」
元四番が返した。
「眠そうな顔してるからな」
「あの人はいつもあの顔です」
五球目。
布団屋が外角の球へバットを合わせた。
強い打球ではなかったが、二遊間を抜けそうな方向へ転がる。
しかし、相手の二塁手が横へ動き、正面で止めた。
落ち着いて一塁へ送球する。
二つ目のアウト。
布団屋は戻る途中で、次の外野手へ声をかけた。
「真っすぐを待っていると、緩い球に前へ出されます。スライダーは、低ければ無理に触らないほうがよさそうです」
「分かりました」
三番の外野手は、初球の真っすぐを振った。
捉えた打球だったが、中堅手の正面へ飛ぶ。
三者凡退。
相手エースは、ほとんど表情を変えずにマウンドを降りた。
「全部、簡単に打ち取られたように見えるな」
元四番が言う。
「でも、見たものは増えました」
後輩が答えた。
アウトは三つ。
それでも、遊撃手と布団屋が投げさせた球は、次の打者へ残っている。
僕たちの攻撃は、まだ始まったばかりだった。
*
僕がマウンドへ上がると、先ほどまでの歓声は静まった。
高校一年生で一四一キロを投げる左腕と、二年間マウンドを離れていた右投手。
どちらが観客の目を引くかは、考えるまでもない。
僕はマウンドの土をならし、後輩のサインを見る。
先頭は右打者だった。
初球は、外角の真っすぐ。
見送られて、ストライクになる。
二球目は同じ場所から、少しだけ速度を落とした。
打者のバットが先に出る。
引っかけた打球は、遊撃手の正面へ転がった。
遊撃手が軽い動きで捕り、そのまま一塁へ投げる。
一球目の相手エースほど、歓声は上がらなかった。
それでも、アウトは同じだった。
二番打者には、内角の真っすぐを見せる。
次に、外へ落ちるチェンジアップ。
打者の体が前へ出た。
バットの先に当たった打球を、布団屋が前へ走りながら捕る。
二人で、五球。
三振はない。
強い打球もない。
僕は後輩から返ってきた球を受け取り、次の打者を待った。
短い金髪が、左の打席へ入る。
相手エースだった。
バットを一度回し、こちらを見る。
試合前と同じように、楽しそうに笑っていた。
後輩が外角低めにミットを構える。
初球は真っすぐ。
狙ったところからは外れていない。
けれど、相手エースは迷わず振った。
鋭い打球が、一塁線の外へ飛んでいく。
ファウル。
タイミングは合っていた。
後輩がすぐに次のサインを出す。
速いチェンジアップ。
真っすぐと同じ腕の振りで投げる。
相手エースのバットが出た。
今度は少しだけ早い。
打球は三塁側のスタンドへ入った。
二球で、速度の違いにも対応してきた。
後輩が立ち上がり、僕のところへ歩いてくる。
「楽しそうですね」
「どっちが?」
「両方です」
「僕は普通だよ」
「なら、そのままでお願いします」
後輩はそれだけ言って、元の位置へ戻った。
追い込んではいる。
けれど、簡単に終わる打者には見えない。
三球目。
外角へ沈むチェンジアップ。
相手エースは、今度はバットを止めた。
ボール。
四球目は、内角の真っすぐ。
少し厳しいところへ投げたつもりだった。
相手エースは体を開かず、バットを出す。
乾いた音がした。
打球は一、二塁間を速く抜け、右翼手の前へ転がった。
きれいな右前打だった。
一塁へ到達した相手エースが、ベースの上からこちらを見る。
もう笑ってはいなかった。
それでも、その目は楽しそうだった。
投げるだけではない。
映像で見たとおり、打者としても相手の中心だった。
次の四番打者に対し、後輩は初球からチェンジアップを要求した。
相手エースが真っすぐを捉えた直後だからこそ、速度を変える。
四番打者のバットが空を切った。
二球目は外角の真っすぐ。
三球目は、同じ腕の振りからさらに遅い球。
打者は前へ泳ぎ、打球を二塁手の正面へ転がした。
三つ目のアウト。
相手エースを塁上に残し、初回を終えた。
*
ベンチへ戻る途中、観客席へ目を向けた。
ポニーテールの友人が、相手エースの番号が入ったタオルを膝の上に広げている。
その隣で、彼女がこちらを見ていた。
目が合う前に、僕はベンチへ入った。
何を話しているのかは聞こえない。
ただ、友人が相手エースを指し、彼女がこちらを見ながら何かを答えていた。
二年前の僕を知っている彼女には、今の投球がどう見えたのだろう。
考えても分からない。
今は、次の回だけを見ればいい。
*
二回表。
四番の肉屋が、バットを肩へ乗せて打席へ向かう。
「一番いい球、持ってこい!」
相手エースへ聞かせるような声だった。
観客席から笑いが起きる。
マウンドの相手エースも笑った。
左手の中で、白い球を転がしている。
肉屋が打席へ入り、足元をならした。
「本当に四番らしくなったな」
遊撃手が言う。
「声だけは」
元四番が続けた。
相手エースがセットに入る。
四番になった肉屋と、高校一年生の左腕。
最初の対決が始まろうとしていた。




